新に喚起して圭一郎は恥づかしさに身内の汗の冷たくなるのを覺えた。横手のガードの下で帽子に白筋を卷いた工夫長に指圖されて重い鐵管を焦げるやうな烈日の下にえんさこらさ[#「えんさこらさ」に傍点]と掛聲して運んでゐる五六人の人夫を彼は半ば放心して視遣つてゐた。仕事に有付いてゐるといふことだけで、その人夫達がこの上もなく羨望されて。又次の日には千登世と二人で造花や袋物の賃仕事を見つけようと芝や青山の方まで駈け廻つて、結局は失望して、さうして濕つぽい夜更けの風の吹いて來る暗い濠端《ほりばた》の客の少い電車の中に互ひの肩と肩とを凭《もた》せ合つて引つ返して來るのであつた。
 斯うして酒新聞社に帶封書きに傭はれた時分は、月半ばに餘す金は電車賃しかなかつた。その頃、ルバシュカを着た、頭に禿のある豆蔓《まめづる》のやうに脊丈のひよろ/\した中年の彫塑家《てうそか》が編輯してゐた。ルバシュカは三日にあげず「奧さん、五十錢貸して貰へませんか」と人の手前も憚らないほど、その男も貧乏だつた。それでもそのルバシュカは、長い腕を遠くから持つて來て環を描きながらゴールデンバットだけは燻《くゆら》してゐた。その強烈な香りが梯子段とつつきの三疊の圭一郎の室へ、次の間の編輯室から風に送られて漂うて來ると、彼は怺《こら》へ難い陋《さも》しい嗜慾に煽《あふ》り立てられた。圭一郎は片時も離せない煙草が幾日も喫めないのである。腦がぼんやりし、ガン/\幻惑的な耳鳴りがし、眩暉《めまひ》を催して來ておのづと手に持つたペンが辷り落ちるのだつた。彼は堪りかねて、さりげなくルバシュカに近寄つて行き、彼の吐き出すバットの煙を鼻の穴を膨らまして吸ひ取つては渇を癒《いや》した。
 ルバシュカが晝食の折階下へ降りた間を見計つて、彼は、編輯室に鼠のやうにする/\と走つて行つて、敏捷《はしこ》くルバシュカのバットの吸さしを盜んだ。次の日も同じ隙間を覗つて吸さしのコソ泥を働いた。ルバシュカは爪楊枝《つまやうじ》を使ひながら座に戻ると煙草盆を覗いて、
「怪《け》つたいだなあ、吸さしがみんななくなる、誰かさらへるのかな。」
と呟いて怪訝《けげん》さうに首を傾げた。人の良いルバシュカは別に圭一郎を疑ぐる風もなかつたが、圭一郎は言ひあらはし難い淺間しさ、賤劣の性の疚《やま》しさを覺えて、耳まで火のやうに眞赤になり、背筋や腋の下にぢり/\と膏汗《あぶらあせ》が流れた。
 數日の後、ルバシュカは無心が度重なるといふので、二人の子供と臨月の妻とを抱へてゐる身の上で馘首《くわくしゆ》になり、圭一郎は後釜へ据ゑられた。
 ……………………
 圭一郎は、崖下の家に移つて來た頃から、今度の雜誌社では給料の外に、長い談話原稿を社長の骨折りで他の大雜誌へ賣つて貰つたり、千登世は裁縫を懸命に稼いだりして、煙草錢くらゐには事缺かないのである。彼は道ゆくにも眼を蚊の眼のやうに細めてバットの甘い匂ひに舌を爛《たゞ》らして贅澤に嗅ぎ乍ら歩くのである。電車に乘らうとして、火のついてゐるバットを捨て兼ね、一臺でも二臺でも電車をおくらして吸ひ切るまでは街上に立ちつくしてゐるのであつたが、急ぎの時など、まだ半分も吸はないのに惜氣もなくアスファルトの上に叩きつけることもあつた。さうした場合、熱き涙を岩石の面にもそゝぎ――と言つた、思慕渇仰に燃えた狂信的な古の修行人の敬虔なる衝動とは異つた吝嗇《りんしよく》な心からではあるけれども、圭一郎は、吸さしのバットの上に熱い涙を、一滴、二滴、はふり落すこともあるのであつた。
 寄越す手紙寄越す手紙で郷里の家に起るごた/\の委細を書き送つて圭一郎を苦しめぬいた妹は、海軍士官である良人が遠洋航海から歸つて來るなり、即刻佐世保の軍港へ赴いた。圭一郎は救はれた思ひで吻《ほつ》とした。けれども彼はY町の赤十字病院に入院してゐるといふ子供の容態の音沙汰に接し得られないことを憾《うら》みにした。いよ/\頭部の惡性な腫物の手術を近く施すといふ妹の最後の便りを、その頃まだ以前の勤先である靈岸島濱町の酒新聞社に通つてゐた一月の月始めに受取つて以降、彼はある不吉な終局を待受けて見たりする心配に絶えず氣を取亂した。圭一郎は割引電車に乘つて行つて、社の扉のまだ開かれない二十分三十分の間を永代橋の上に立ち盡して、時を消すのが毎朝の定りだつた。流れに棹《さをさ》して溯《さかのぼ》る船や、それから渦卷く流れに乘つて曳船に曳かれ水沫《しぶき》を飛ばし乍ら矢の如く下つて行く船を、彼は欄干に顎を靠《もた》し、元氣のない消え入るやうにうち沈んだ心地で、半眼を開いた眼を凝乎《ぢつ》と笹の葉ほどに小さく幽かになつて行く同じ船の上に何處までも置いてゐるのであつたが、誰かの足音か聲かに覺まされたもののやうに偶《ふ》と正氣づいて俄《にはか》に顏を擡《
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