もた》げ、遠く波濤にけむる朝の光を帶びた廣い海原を茫然と眺めるのであつた。そして、藍色《あゐいろ》を成した漂渺《へうべう》とした海の遙か彼方に故郷のあることが思はれ病兒の身の上が思はれ、眼瞼の裏は煮え出して唏泣《すゝりな》け、齒はがた/\と顫《ふる》へわなゝいた。
妹の最後の手紙には、病院には母が詰切つて敏雄の看護をしてゐる趣きがしたゝめてあつた。妻の咲子は假病を使つて保養がてらと稱《い》つてY町の實家に歸つてゐるが、つい[#「つい」に傍点]眼と鼻の間である病院へ意地づくで子供の重い病を見舞はうともしないこと、朝は一番の圓太郎馬車で、夜は最終の同じガタ馬車で五里の石ころ道を搖られて歸る父は、さうした毎日の病院通ひにへと/\に憊《つか》れてゐること、扁桃腺まで併發して、食物は一切咽喉を通らず、牛乳など飮ますと直ぐ鼻からタラ/\と流れ出るさうした敏雄も可傷《いたはし》さの限りだけれど、父の心痛を面《まのあたり》に見るのはどんなに辛いことか、氣の毒で迚《とて》も筆にも言葉にもあらはせない、兄さん、お願ひだから、お父さまに、ほんとにご心配かけてかへす/″\も濟まないとたつた一言書き送つて欲しいと、妹はこま/″\と愚痴つぽく書き列べた。そして又、切開後の結果の如何に依つては敏雄の小學校への入學を一年延期したい父の意嚮《いかう》だとも妹は亂れがちな筆で末尾に書添へてゐた。
――その入學期の四月は、餘すところ一週日もないのである。彼は氣が氣でなかつた。ともすれば氣が遠くなつて錢湯で下足札を浴槽《ゆぶね》の中に持ち込むやうな迂闊なことさへ屡※[#二の字点、1−2−22]だつた。もういくら何んでも、退院だけはしてゐる筈なのだらうが? 圭一郎は、雜誌社の机で、石垣に面した崖下の家の机で、せめてハガキででも子供の今日此頃を確めようと焦つた。幾度もペンを執らうと身を起したが心は固く封じられて動かうとはしなかつた。
圭一郎は默然として手を拱《こまぬ》き乍ら硬直したやうになつて日々を迎へた。
櫻の枝頭にはちらほら花を見かける季節なのに都會の空は暗鬱な雲に閉ざされてゐた。二三日|霙《みぞれ》まじりの冷たい雨が降つたり小遏《こや》んだりしてゐたが、さうした或る朝寢床を出て見ると、一夜のうちに春先の重い雪は家のまはりを隈《くま》なく埋めてゐた。午《ひる》時分には陽に溶けた屋根の雪が窓庇《まどびさし》を掠めてドツツツと地上に滑り落ちた。
「あつ、あぶない!」
と圭一郎は、慄然《りつぜん》と身顫ひして兩手で机を押さへて立ち上つた。故郷の家の傾斜の急な高い茅葺《かやぶき》屋根から、三尺餘も積んだ雪のかたまりがドーツと轟然《ぐわうぜん》とした地響を立てて頽《なだ》れ落ちる物恐ろしい光景が、そして子供が下敷になつた怖ろしい幻影に取つちめられて、無意識に叫び聲をあげた。
「どうなすつたの?」
千登世はびつくりして隣室から顏を覗けた。
圭一郎は巧に出たら目な言ひわけをして其場を凌《しの》いだが、さすがに眼色はひどく狼狽《あわ》てた。彼は、その日は終日性急な軒の雪溶けの雨垂の音に混つて共同門の横手の宏莊な屋敷から泄《も》れて來るラヂオのニュースや天氣豫報の放送にも、氣遣はしい郷國の消息を知らうと焦心して耳を澄ました。
夜分など机に凭《よ》つてゐるとへん[#「へん」に傍点]に息切れを覺え、それに頭の中がぱり/\と板氷でも張るやうに冷えるので、圭一郎は夕食後は直ぐ蒲團の中に腹匍《はらば》ひになつて讀むともなく古雜誌などに眼を晒《さら》した。千登世が針の手をおく迄は眠つてはならないと思つても、體の疲れと氣疲れとで忽ち組んだ腕の中に顏を埋めてうと/\とまどろむのであつた。……「敏ちやん!」と狂氣のやうに叫んだと思ふと眼が醒めた。その時は夜は隨分更けてゐたが千登世はまだせつせと針を運んでゐたので、魘《うな》される圭一郎をゆすぶり醒ましてくれた。
「夢をごらんなすつたのね」
「あゝ、怕《おそ》ろしい夢を見た……」
確かに「敏ちやん」と子供の名前を大聲で呼んだのだが、千登世には、それだと判らなかつたらしい。平素彼は彼女の前で噫《おくび》にも出したことのない子供の名を假令《たとひ》夢であるにしても呼んだとしたら、彼女はどんなに苦しみ出したかしれなかつた。彼は息を吐《つ》いて安堵の胸を撫でた。圭一郎は夢の中で子供に會ひに故郷に歸つたのだ。宵闇にまぎれて村へ這入り閉まつてる吾家の平氏門を乘り越えて父と母とを屋外に呼び出した。が、親達は子供との會見をゆるしてくれない。會はしたところで又直ぐ別れなければならないのなら、お互にこんな罪の深いことはないのだからと言ふ。折角子供見たさの一念から遙々歸つて來たのだから、一眼でも、せめて遠眼にでも會はしてほしいと縁側で押問答をしてゐると、「父ち
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