やん」と筒袖のあぶ/\の寢卷を着た子供が納戸《なんど》の方から走つて現れた。
「おゝ、敏ちやん!」と聲の限り叫んで子供に飛びかからうとした時、千登世にゆすぶられてはつ[#「はつ」に傍点]と眼が醒めた。
「どんな夢でしたの?」と千登世は訊いた。
 圭一郎は曖昧《あいまい》に答へを逸《そら》して、いい加減に胡麻化した。
 若し夢の中で妻の名でも呼んだら大へんだといふ懸念に襲はれ、その夜からは、寢に就く時は恟々《びく/\》して手を胸の上に持つて行かないやうに用心した。僅かに眠る間にのみ辛じて冀《こひねが》ひ得らるる一切の忘却――それだのに圭一郎の頭は疲れた神經の疾患から冴え切つて、近所の鷄の鳴く時分までうつら/\と細目を繁叩《しばたゝ》きつゞけて寢付けないやうな不眠の夜が幾日もつゞいた。
 一ヶ月の日が經つた。ある温暖《あたゝか》い五月雨《さみだれ》のじと/\降る日の暮方、彼が社から歸つて傘をすぼめて共同門を潜ると、最近向うから折れて出て仲直りした煎餅屋の内儀《かみ》さんが窓際で千登世と立話をしてゐたが、石段を降りると圭一郎の姿を見つけるなり千登世に急ぎ暇乞《いとまごひ》して、つか/\と彼の方へ走つて來て、ちよつと眼くばせするといきなり突き當るやうにして一通の手紙を渡してくれた。圭一郎は千登世の目を偸《ぬす》んで開いて見ると、まだ到底全治とは行かなくとも兎に角に無理して子供が小學校へあがつたといふ分家の伯父からの報知だつた。圭一郎は抑へられてゐた壓石《おもし》から摩脱《すりぬ》けられたやうな、活き返つた喜びを感じた。
 軈《やが》て何喰はぬとりすました顏をして夕餉《ゆふげ》の食卓に向つた。彼は箸を執つたが、千登世はむつちりと默りこくつて凝乎《じつ》と俯向《うつむ》いて膝のあたりを見詰めてゐた。彼は險惡な沈默の壓迫に堪へきれなくて、
「どうしたの?」と、自分の方から投げ出して訊いた。
「あなた、先刻《さつき》、内儀さんに何を貰ひました?」と、彼女はかしらをあげたが眼は意地くねて惡く光つてゐた。
「何にも貰やしない」
 千登世は冷靜を保つて、「さう、さうでしたの」と嗄《しやが》れた聲で言つた。圭一郎を信じようとする彼女の焦躁があり/\と面に溢れたが、しかし彼女は到底我慢がしきれなかつた。睫毛《まつげ》一ぱいに濡らした涙の珠が頻《しき》りに頬を傳つて流れた。
 圭一郎は迚も包み隱せなかつた。
「さうでせう。だつたら何故かくすんです。何故そんなにかくしだてなさるんです。お見せなさい」
 仕方なく圭一郎は懷《ふところ》から取出して彼女に渡した。彼女は卷紙持つ手をぶる/\顫はし乍ら、息を引くやうにして眼を走らせた。
「ほんたうにすまないわ!」と千登世は聲を絞つて言ふなり、袂を顏に持つて行つて疊の上に突つ伏した。肩先が波のやうに激しくゆらいだ。
「ね、あなた、あなたはお國へお歸りなさいな。わたしのことなどもうお諦めなすつて、お國へ歸つて行つて下さい。わたし、ほんたうに、お父さまにもお子さんにもすまないから……」
 泣き腫れて充血した氣味惡い白眼を据ゑた顏をあげて彼女にさう言はれると、圭一郎は生きてゐたくないやうな胸苦しさを覺えた。が、威嚇《おど》したり、賺《すか》したりして、どうにかして彼女の機嫌を直し氣を變へさせようと焦りながらも、鞄を肩に掛け、草履袋《ざうりぶくろ》を提げ、白い繃帶の鉢卷した頭に兵隊帽を阿彌陀《あみだ》に冠つた子供の傷々《いた/\》しい通學姿が眼の前に浮かんで來ると、手古摺らす彼女からは自然と手を引いてひそかに圭一郎は涙を呑むのであつた。
 圭一郎の心は、子供の心配が後から/\と間斷なく念頭に附き纒うて、片時も休まらなかつた。
 子供は低腦な圭一郎に似て極端に數理の頭腦に惠まれなかつた。同年の近所の馬車屋の娘つこでさへも二十までの加減算は達者に呑み込んでゐるのに、彼の子供は見かけは悧巧さうに見える癖に十迄の數さへおぼつかなかつた。圭一郎は悍《たけ》り立つて毎日の日課にして子供に數を教へた。
「一二三四五六七、さあかずへてごらん」といふと「一二三五七」とやる。幾度繰り返しても繰り返しても無駄骨だつた。子供はたうとう泣き出す。彼は子供を一思ひに刺し殺して自分も死んでしまひたかつた。小學時代教師が黒板に即題を出して正解《とけ》た生徒から順次教室を出すのであつたが、運動場からは陣取りや鬼ごつこの嬉戲の聲が聞えて來るのに圭一郎だけは一人教室へ殘らなければならなかつた。彼の家と仲違《なかたがへ》してゐる親類の子が大勢の生徒を誘つて來てガラス窓に顏を押當てて中を覗きながらクツ/\とせゝら笑ふ。負け惜しみの強い彼はどんなに恥悲しんだことか。さうした記憶がよみがへると、このたはけもの奴! と圭一郎は手をあげて子供を撲《ぶ》ちはしたものの、悲鳴を
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