あげる子供と一緒に自分も半分貰ひ泣いてゐるのであつた。また子供はチビの圭一郎の因果が宿つて並外れて脊丈が低かつた。子供が學校で屹度《きつと》一番のびりつこであることに疑ひの餘地はない。圭一郎は誰よりも脊丈が低く、その上に運わるく奇數になつて二人並びの机に一人になり、組合せの遊戲の時間など列を逃げさせられて、無念にも一人ポプラの木の下にしよんぼりと指を銜《くは》へて立つてゐなければならなかつた。それにも増して悲しかつたのは遠足の時である。二列に並んだ他の生徒達のやうに互に手と手を繋《つな》いで怡《たの》しく語り合ふことは出來ず、辨當袋を背負つて彼は獨りちよこ[#「ちよこ」に傍点]/\と列の尻つぽに小走り乍ら跟《つ》いて行く味氣なさはなかつた。斯うしたことが、痛み易い少年期に於いて圭一郎をどれほど萎縮《いぢ》けさしたことかしれない――圭一郎は、一日に一回は、必ずさうした自分の過ぎ去つた遠い小學時代に刻みつけられた思ひ換へのない哀しい回想を微細に捕へて、それをそつくり子供の身の上に新に移し當て嵌《は》めては心を痛めた。と又教師は新入生に向つてメンタルテストをやるだらう。「××さんのお父さんは何してゐます?」「はい。田を作つて居られます」「××さんのは?」「はい。大工であります」「大江さんのお父さんは?」と訊かれて、子供はビツクリ人形のやうに立つには立つたが、さて、何んと答へるだらう? 「大江君の父ちやんは女を心安うして逃げたんだい。ヤーイ/\」と惡太郎にからかはれて、子供はわつと泣き出し、顏に手を當てて校門を飛び出し、吾家の方へ向つて逸散に駈け出す姿が眼に見えるやうだつた。子供ごころの悲しさに、そんな情ない惡口を言つてくれるなと、惡太郎共に紙や色鉛筆の賄賂《わいろ》を使うて阿諛《へつら》ふやうな不憫《ふびん》な眞似もするだらうがなどと子供の上に必定《ひつじやう》起らずにはすまされない種々の場合の悲劇を想像して、圭一郎は身を灼《や》かれるやうな思ひをした。

「あなた、奧さんは別として、お子さんにだけは幾ら何んでも執着がおありでせう?」
 千登世は時偶《ときたま》だしぬけに訊いた。
「ところがない」
「さうでせうか」彼女は彼の顏色を試すやうに見詰めると、下唇を噛んだまゝ微塵動《みじろぎ》もしないで考へ込んだ。「だけど、何んと仰言《おつしや》つても親子ですもの。口先ではそんな冷たいことを仰云つてもお腹の中はさうぢやないと思ひますわ。今に屹度、お子さんが大きくなられたらあなたを訪ねていらつしやるでせうが、わたし其時はどうしようかしら……」
 千登世は思ひ餘つて度々|制《おさ》へきれない嗟《なげ》きを泄《も》らした。と忽ち、幾年の後に成人した子供が訪ねて來る日のことが思はれた。自分のいかめしい監視を逸《のが》れた子供は家ぢゆうのものに甘やかされて放縱そのもので育ち、今に家産も蕩盡し、手に負へない惡漢となつて諸所を漂泊した末、父親を探して來るのではあるまいか。額の隱れるほど髮を伸ばし、薄汚い髯を伸ばし、ボロ/\の外套を羽織り、赤い帶で腰の上へ留めた足首のところがすり切れた一雙のズボンの衣匣《かくし》に兩手を突つ込んだやうな異樣な扮裝でひよつこり玄關先に立たれたら、圭一郎は奈何《どう》しよう。まさか、父親の圭一郎を投げ倒して猿轡《さるぐつわ》をかませ、眼球が飛び出すほど喉吭《のどぶえ》を締めつけるやうなことはしもしないだらうが。彼は氣が銷沈した。
 圭一郎は子供にきつくて優し味に缺けた日のことを端無くも思ひ返さないではゐられなかつた。彼は一面では全く子供と敵對の状態でもあつた。幼少の時から偏頗《へんぱ》な母の愛情の下に育ち不可思議な呪ひの中に互に憎み合つて來た、さうした母性愛を知らない圭一郎が丁年にも達しない時分に二歳年上の妻と有無なく結婚したのは、ただ/\可愛がられたい、優しくして貰ひたいの止み難い求愛の一念からだつた。妻は、豫期通り彼を嬰兒《えいじ》のやうに庇《かば》ひ劬《いた》はつてくれたのだが、しかし、子供が此世に現れて來て妻の腕に抱かれて愛撫されるのを見た時、自分への寵《ちよう》は根こそぎ子供に奪ひ去られたことを知り、彼の寂しさは較ぶるものがなかつた。圭一郎は恚《いか》つて、この侵入者をそつと毒殺してしまはうとまで思ひ詰めたことも一度や二度ではなかつた。
 ――圭一郎が離れ部屋で長い毛絲の針を動かして編物をしてゐる妻の傍に寢ころんで樂しく語り合つてゐると、折からとん/\と廊下を走る音がして子供が遣つて來るのであつた。「母ちやん、何してゐた?」と立ちどまつて詰めるやうに妻を見上げると、持つてゐた枇杷《びは》の實を投げ棄てて、行きなり妻の膝の上にどつかと馬乘りに飛び乘り、そして、きちんとちがへてあつた襟をぐつと開き、毬栗頭《いがぐりあたま
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