》を妻の柔かい胸肌に押しつけて乳房に喰ひついた。さも渇してゐたかの如く、ちやうど犢《こうし》が親牛の乳を貪《むさぼ》る時のやうな亂暴な恰好をしてごく/\と咽喉を鳴らして美味《うま》さうに飮むのだつた。見てゐた彼は妬《ねた》ましさに見震ひした。
「乳はもう飮ますな、お前が痩せるのが眼に立つて見える」
「下《した》がをらんと如何《どう》しても飮まないではきゝません」
「莫迦《ばか》言へ、飮ますから飮むのだ。唐辛しでも乳房へなすりつけて置いてやれ」
「敏ちやん、もうお止しなさんせ、おしまひにしないと父ちやんに叱られる」
子供はちよいと乳房をはなし、ぢろりと敵意のこもつた斜視を向けて圭一郎を見たが、妻と顏見合せてにつたり笑ひ合ふと又乳房に吸ひついた。目鼻立ちは自分に瓜二つでも、心のうちの卑しさを直ぐに見せるやうな、僞りの多い笑顏だけは妻にそつくりだつた。
「飮ますなと言つたら飮ますな! 一言いつたらそれで諾《き》け!」
妻は思はず兩手で持つて子供の頭をぐいと向うに突き退けたほど自分の劍幕はひどかつた。子供は眞赤に怒つて妻の胸のあたりを無茶苦茶に掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》つた。圭一郎はかつと逆上《のぼ》せてあばれる子供を遮二無二おつ取つて地べたの上におつぽり出した。
「父ちやんの馬鹿やい、のらくらもの」
「生意氣言ふな」
彼は机の上の燐寸《マッチ》の箱を子供|目蒐《めが》けて投げつけた。子供も負けん氣になつて自分目蒐けて投げ返した。彼は又投げた。子供も又やり返すと、今度は素早く背を向けて駈け出した。矢庭に圭一郎は庭に飛び下りた。徒跣《はだし》のまゝ追つ駈けて行つて閉まつた枝折戸《しをりど》で行き詰まつた子供を、既事《すんでのこと》で引き捉へようとした途端、妻は身を躍らして自分を抱き留めた。
「何を亂暴なことなさいます! 五つ六つの頑是ない子供相手に!」妻は子供を逸速く抱きかかへると激昂のあまり鼻血をたら/\流してゐる圭一郎を介《かま》ひもせず續けた。「何をまあ、あなたといふ人は、子供にまで悋氣《りんき》をやいて。いゝから幾らでもこんな亂暴をなさい。今にだん/\感情がこじれて來て、たうとうあなたとお母さんとのやうな取返しのつかない睨み合ひの親子になつてしまふから……ね、敏ちやん、泣かんでもいゝ。母さんだけは、母さんだけは、お前を何時迄も何時迄も可愛がつて上げるから、碌でなしの父ちやんなんか何處かへ行つて一生歸つて來んけりやいゝ」
このやうな憶ひ出も身につまされて哀しく、圭一郎は子供に苛酷だつたいろ/\の場合の過去が如實に心に思ひ返されて、彼は醜い自分といふものが身の置きどころもない程不快だつた。一度根に持つた感情が、それは決して歳月の流れに流されて子供の腦裏から消え去るものとは考へられない。甘んじて報いをうけなければならぬ避けがたい子供の復讐をも彼は覺悟しないわけにはいかなかつた。
圭一郎は息詰るやうな激しい後悔と恐怖とを新にして魂をゆすぶられるのであつた。そして捕捉しがたい底知れない不安が、どうなることであらう自分達の將來に、また頼りない二人の老い先にまで、染々《しみ/″\》と思ひ及ぼされた。
同じ思ひは千登世には殊に深かつた。
「わたし達も子供が欲しいわ。ね、お願ひですからあんな不自然なことは止して下さいな」
「…………」
「手足の自由のきく若い間はそれでもいゝけれど、年寄つてから、あなた、どうなさるおつもり? 縋《すが》らう子供のない老い先のことを少しは考へて見て下さい。ほんたうにこんな慘めなこつたらありやしませんよ。とりわけ私達は斯うなつてみれば誰一人として親身のもののない身の上ぢやありませんか。わたし思ふとぞつとするわ」
千登世は仕上の縫物に火熨斗《ひのし》をかける手を休めて、目顏を嶮しくして圭一郎を詰《なじ》つたが、直ぐ心細さうに萎《しを》れた語氣で言葉を繼いだ。
「でもね、假令《たとへ》、子供が出來たとしても、戸籍のことはどうしたらいゝでせう。わたし、自分の可愛い子供に私生兒なんていふ暗い運命は荷なはせたくないの。それこそ死ぬより辛いことですわ」
圭一郎は急所をぐつと衝かれ、切なさが胸に悶えて返す言葉に窮した。Y町で二人の戀愛が默つた悲しみの間に萌《きざ》し、やがて拔き差しのならなくなつた時、千登世は、圭一郎が正式に妻と別れる日迄幾年でも待ち續けると言つたのだが、彼は一剋《いつこく》に背水の陣を敷いての上で故郷に鬪ひを挑むからと其場限りの僞りの策略で言葉巧みに彼女を籠絡《ろうらく》した。もちろん圭一郎は千登世を正妻に据ゑるため妻を離縁するなどといふ沒義道《もぎだう》な交渉を渡り合ふ意は毛頭なかつた。偶然か、時に意識的に彼女が觸れようとするY町での堅い約束には手蓋を蔽うて有耶《う
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