や》無耶に葬り去らうとした。ばかりでなく圭一郎は、縱令《よし》、都大路の塵芥箱《ごみばこ》の蓋を一つ/\開けて一粒の飯を拾ひ歩くやうな、うらぶれ果てた生活に面しようと、それは若い間の少時《しばらく》のことで、結局は故郷があり、老いては恃《たの》む子供のあることが何よりの力であり、その羸弱《ひよわ》い子供を妻が温順《おとな》しくして大切に看取り育ててくれさへすればと、妻の心の和平が絶えず祷《いの》られるのだつた。斯うした胸の底の暗い祕密を覗かれる度に、われと不實に思ひ當る度に、彼は愕然として身を縮め、地面に平伏《ひれふ》すやうにして眼瞼を緊めた。うまうまと自分の陋劣《ろうれつ》な術數《たくらみ》に瞞《だま》された不幸な彼女の顏が眞正面に見戍《みまも》つてゐられなかつた。
 圭一郎は、自分に死別した後の千登世の老後を想ふと、篩落《ふるひおと》したくも落せない際限のない哀愁に浸るのだつた。社への往復に電車の窓から見まいとしても眼に這入る小石川橋の袂で、寒空に袷《あはせ》一枚で乳母車を露店にして黄塵を浴びながら大福餅を燒いて客を待つ脊髓の跼《かゞま》つた婆さんを、皺だらけの顏を鏝塗《こてぬ》りに艶裝《めか》しこんで、船頭や、車引や、オワイ屋さんにまで愛嬌をふりまいて其日々々の渡世を凌《しの》ぐらしい婆さんの境涯を、彼は幾度千登世の運命に擬しては身の毛を彌立《よだ》てたことだらう。彼は彼女の先々に涯知れず展《ひろ》がるかもしれない、さびしく此土地に過ごされる不安を愚しく取越して、激しい動搖の沈まらない現在を、何うにも拭ひ去れなかつた。
 圭一郎は電車の中などで水鼻洟《みづばな》を啜つてゐる生氣の衰へ切つて萎びた老婆と向ひ合はすと、身内を疼《うづ》く痛みと同時に焚くが如き憤怒さへ覺えて顏を顰《しか》めて席を立ち、急ぎ隅つこの方へ逃げ隱れるのであつた。
 陽春の訪れと共に狹隘《せゝつこま》しい崖の下も遽《にはか》に活氣づいて來た。大きな斑猫《ぶちねこ》はのそ/\歩き廻つた。澁紙色をした裏の菊作りの爺さんは菊の苗の手入れや施肥に餘念がなかつた。怠けものの配偶《つれあひ》の肥つた婆さんは、これは朝から晩まで鞣革《なめしがは》をコツ/\と小槌で叩いて琴の爪袋を内職に拵《こしら》へてゐる北隣の口達者な婆さんの家の縁先へ扇骨木《かなめ》の生籬《いけがき》をくゞつて來て、麗かな春日をぽか/\と浴び乍ら、信州訛で、やれ福助が、やれ菊五郎が、などと役者の聲色《こわいろ》や身振りを眞似て、賑かな芝居の話しで持切りだつた。何を生業に暮らしてゐるのか周圍の人達にはさつぱり分らない、口數少く控へ目勝な彼等の棲家へ、折々、大屋の醫者の未亡人の一徹な老婢があたり憚《はゞか》らぬ無遠慮な權柄《けんぺい》づくな聲で縫物の催促に呶鳴り込んで來ると、裏の婆さん達は申し合せたやうにぱつたり彈んだ話しを止め、そして聲を潜めて何かこそ/\と囁き合ふのであつた。
 天氣の好い日には崖上から眠りを誘ふやうな物賣りの聲が長閑《のどか》に聞えて來た。「草花や、草花や」が、「ナスの苗、キウリの苗、ヒメユリの苗」といふ聲に變つたかと思ふと瞬《またゝ》く間に、「ドジヨウはよござい、ドジヨウ」に變り、軈《やが》て初夏の新緑をこめた輝かしい爽かな空氣の波が漂うて來て、金魚賣りの聲がそちこちの路地から聞えて來た。その聲を耳にするのも悲しみの一つだ。故郷の村落を縫うてゆるやかに流れる椹野川《ふしのがは》の川畔の草土手に添つて曲り迂《くね》つた白つぽい往還に現れた、H縣の方から山を越えて遣つて來る菅笠を冠つた金魚賣りの、天秤棒《てんびんぼう》を撓《しな》はせながら「金魚ヨーイ、鯉の子……鯉の子、金魚ヨイ」といふ觸れの聲がうら淋しい諧調を奏でて聞えると、村ぢゆうの子供の小さな心臟は躍るのだつた。學校から歸るなり無理強ひにさせられる算術の復習の憶えが惡くて勝ち氣な氣性の妻に叱りつけられた愁ひ顏の子供の、「父ちやん、金魚買うてくれんかよ」といふ可憐な聲が、忍びやかな小さな足音が、三百餘里を距たつたこの崖下の家の窓に聞えるやうな氣がするのであつた。
 いつか梅雨期の蒸々した鬱陶しい日が來た。霧のやうな小雨がじめ/\と時雨《しぐ》れると、何處からともなく蛙のコロ/\と咽喉を鳴らす聲が聞えて來ると、忽然、圭一郎の眼には、都會の一隅のこの崖下の一帶が山間に折り重つた故郷の山村の周圍の青緑にとりかこまれた、賑かな蛙鳴きの群がる蒼い水田と變じるのであつた。さうして今頃は田舍は田植の最中であることが思はれた。昔日の激しい勞働を寄る年波と共に今は止してゐても、父の身神には安息の日は終《つ》ひに見舞はないのである。何十年といふ長い年月の間、雨の日も風の日も、烈しい耕作を助けて父と辛苦艱難を共にして來た、今は薄日も漏れない暗い納屋
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