らなかったので同じ道を引返しました。烏帽子の小屋には主人とおばさんと若い人と三人いました。私が今朝の電車できたのならなかなか早かったと感心していた、私は少し脚気でしたので心配していましたが、いつの間にか元気になっていました。ここの主人は南アルプスのことも三角点のこともよく知っていられてなかなか開けた人でした。そして八月に入ってから登山者がちっともないので、淋しく困っていると言うので、私が北アルプスはまだ二、三日は荒れると新聞に出ているので、登山者が無いのですと言ったら、それはけしからん、こんなにいいお天気だのに、少しも当にならぬ測候所なんかの予報を大きく新聞に出すから、我々はあがったりだと憤慨していた。烏帽子小屋から三俣蓮華小屋まではお天気もよくとても素敵な眺望のところでした。特に赤牛岳往復は三ッ岳、五郎岳と薬師岳を両側に見、黒岳から遠く槍、穂高連峰―東鎌―笠ヶ岳等と五色ヶ原より立山連峰、白馬から針ノ木、蓮華にいたる後立連峰を前後に見て、とても他では求められぬ雄大な眺望でした。水晶山すなわち黒岳は本コースの最高峰で海抜二九七八メートルです。三角点は一番高いところではなくそこから北の方に一町くらい離れた向うの山の瘤のようなところにありました。鷲羽岳は池のある海抜二九二四メートル二の岳で地図鷲羽岳は三俣蓮華岳といい、蓮華岳と書いてあるのが双六岳だそうです。これは信州の名で飛騨や越中では地図の通りかもしれません。鷲羽岳へ登ってから鷲ノ池へ下ってみました。池にはもう雪も少ししかなく水もぬるいくらいでした。池の東側は絶壁で火口壁ということをはっきり現わしています。鷲羽岳を下る途中私はちょっと辷って尻尾の根を打ち小屋へ着いてからも痛くて困りました。その後も上ノ岳小屋までは往生しました。三俣蓮華小屋は鷲羽岳と三俣蓮華岳の鞍部で、黒部川と高瀬川の水源地にあります。ここには岩魚《いわな》釣のおじさんと強力のような人と若い主人と三人いました。私が今日赤牛岳へも行ってきたというには皆驚いていました。
黒部五郎の小屋は三俣蓮華岳と中ノ俣岳すなわち黒部五郎岳との最低鞍部にあって水もたくさんあるし丈夫な小屋で素敵なものです。上ノ岳の小屋へ着く前雨が降り出したので予定は薬師岳まででしたが、変更して二時頃から尻尾が痛いので休養しました。ここの小屋も黒部五郎と同じく名古屋の人が寄附された立派なもので、上ノ岳絶頂と太郎山の中間にあり木が無いので風は強いところですが眺望のいいところです。水はどこにあるのかわかりませんでしたが、ちょっと下るとあるそうです。
薬師寺[#「寺」はママ]の絶頂には祠があります。今のは二代目らしく一つ壊れて落ちていました。ここのカールはとても雄大です。今なお雪がぎっしりつまっています。スゴ乗越の小屋は丈夫なもので薬師岳から下ってスゴ岳へ取付く少し手前、西へ大きな尾根を出したところの森林の中にあり、水は少し離れているようです。五色ヶ原は今なお残雪でところどころ蔽われていてなかなか雄大です、小屋はザラ峠から南へ五町くらい離れています。七十歳くらいのおじいさんとおばあさんが番をしていました。日電の人夫がたくさん泊って噪しく登山者も五、六人いました。黒部五郎の小屋や上ノ岳の小屋からこの小屋へくるのは普通ですが神戸徒歩会の連中は途中スゴ乗越の小屋へ泊ったようです。ただの三人で中語《ちゅうご》を二人も雇っているように書いてありました。金持はちがったものですね。
黒部川の渡しにはブランコのような吊橋がかかっています。ここには越中と信州の小屋が川を挟んであります。そこで日電の絵葉書をくれました。私は針ノ木峠から峰伝いに後立山を縦走しようと思っていましたが、峠にかかる前から雨が強く降り出したので大沢の小屋へ下ってしまいました。ここには対山館にいた松高生らしい人がいて私を見て随分早かったと感心していました。
扇沢登りは道らしいものはありませんが、割合楽でした。種ヶ池には今年できた小屋があり、池には山椒魚《さんしょううお》がいると書いてありました。鹿島槍を下って道は峰を巻いています。下り切って、少し巻いて進むと雪渓があり、これから道は東から下りて来る向いの谷にあるので七月頃なら雪渓が延びてその谷の上へ道が通じているのですが、私の通ったときは雪渓が切れて取付き口は土崩れのようになっていたので、この谷を登るということに気づかず、雪渓を上下して山の中腹に道を求めていると、ちょっと辷《すべ》ってけが[#「けが」に傍点]をし、引返し最後にこの谷を登るとわけなく道がわかってあんなに迷ったことが馬鹿らしいくらいでした。
五竜岳へ着いてからも霧がかかっていたため、三角点から引返すことに気づかず、黒部谷側の尾根と本尾根とを間違え、これを上下し随分迷い、疲れてここへ一泊することにして霧の晴れるのを待った。夕方霧が晴れて初めて後戻りしていることがわかり、まことに残念でした。迷うと磁石が狂っているように思われます。海抜二八〇〇メートルの高所に着のみ着のまま寝たのですが、合羽を大沢小屋に乾しておいて忘れ一層寒く、一晩中凄い月が黒部谷を照らして立山の上へ移るまで、殆んど寝ないで眺めていました。これが私の青天井に寝た一番高所のレコードとなりました。
十四日は六日ぶりにいいお天気になって立山連峰の眺めは素敵でした。日本アルプスその他山という山はことごとく見えました。八方の小屋は壊れていて別に日電観測所の小屋がありますが、許可なく入るべからずと書いてあります。八方尾根の道は平々坦々の広い道です。八方池の手前にまた、日電の中継の小屋があります。最後の下りはうねうねと廻り廻っているのにはいやになってしまいました。午後二時三十分無事四ツ谷へ下山しましたが山と別れることは淋しいものでした。
九月の立山
九月二十四日は割にいいお天気で千垣行の電車の中から立山連峰が雄大に見えます。そして、射水《いみず》中学の校長先生が乗っていられて立山の話をされました。先生は称名ノ滝までお子様と二人で散歩においでになったのです。私は先生と一緒に称名川《しょうみょうがわ》を遡って行きました。弥陀ヶ原側はところどころ崩れて大絶壁をなしています。雑穀谷の吊橋を渡ると道から少し離れていますが、小屋があります。ここで昼食をしました。称名ノ滝の少し手前にも、また小屋があります。ここで先生とお別れして川へ下って吊橋を渡り弥陀ヶ原へまっすぐ登ります。なかなか急峻です。しかしこの途中で称名ノ滝を見るのはとても雄大です。登り切って、見覚えのある広い道を急ぎます。もはや霧が巻いていて遠望はききませんが道ばたの草、漆の木等は綺麗に紅葉しています。今度は獅子ヶ鼻岩の方へ廻ってみました。少し下ると川があります。大きな苺がたくさんなっていますが急ぐので心を残しながら川を渡って登ります。鉄の鎖の釣ってあるところが二カ所ほどありました。獅子の鼻といえばいえぬこともないような珍な岩です。鏡石の小屋あたりまでくると、霧が晴れだして大日岳が谷を距てて大きく見えるようになりました。どんどん登って行くと前方に四人の登山者が見えましたのでエホーと声をかけますと返事がありました。大急ぎできてみると、四高の生徒で神戸徒歩会の藤田君もいました。室堂へ着いたのは午後五時で、おじさんとおばさんの二人が地獄谷の硫黄を掘っていました。おじさんは九月中はいると言っていました。四校生は飯をたき、私は弁当でしたが、同じように薪代八拾銭を取られました、皆で山や熊の話等をして大いに語り九時頃寝ました。連中はシュラフザックを持ってきていましたが、それでも寒く夜中に起きて火をたいたりしたと言っていました。私は夏より一着余分に服を持ってきましたので、割に温かでしたが手だけは少し寒かったです。
二十五日午前三時頃私が起きますと連中もすぐ起きてきました。それから火をたき飯を食って四時半頃私一人で出発しました。雄山と浄土山との鞍部へ登った頃はもう全く明るくなっていました。荷物を置いて急坂を登ります。御来迎を気にして急ぎましたが、神社のところへ着くともう太陽は雲から半分出ていました。それはあまりいい御来迎ではなかったです。神社には夏きたときとは全く違って石が一ぱい詰めてありました。北アルプス槍、穂高よりこちらの山は割にはっきり見えましたが、白山、乗鞍、御嶽、駒連峰、南アルプス、富士等は薄黒く見えるのみで夏見たより貧弱でした。しかし別山中腹あたりの紅葉だけは素敵でした。雪はもうどこにも少なく浄土の雪渓が少し残っているだけです。雄山を下る途中四高の連中が登ってきました。私はそこでお別れをして浄土山へ登ります。ここの雪をかじってみましたがとても固く氷のようでした。五色ヶ原は眼下で雄大に見えます。縦走路は割に急な登り下りとなっています。鬼岳を下る途中エホーと声をかけてみますと案外にもザラ峠から返事がありました。大急ぎで下ってみると人夫が三人待っていましたので一緒に立山温泉まで行きました。途中両側の山が崩れて大絶壁になっているところがたくさんあります。立山温泉へ十一時頃着いて一浴し十一時半頃ここを出発しどんどん下って行きます。この道は内務省で広くするため大工事をやっています。藤橋へは午後三時過ぎ着きました。四高の連中はまっすぐ弥陀ヶ原を下ると言っていたので競争をしようと言ったら、駄目ですと言っていたが、やっぱり私の方が早かったのです。千垣へ着いたのは五時でした。それからあのいつも変らぬ富山市電に乗りました。もう今は立山にもたくさん雪が積ったことでしょう。一度雪の立山にも行きたいものです。
新雪の槍ヶ岳
十月十六日朝、大町行の電車の中からアルプスが見えます。常念山脈には雪があまり降っていないようですが、鹿島槍あたりより向うは新雪で真白です。私は柏矢町へ下車して、一ノ沢を登ります、道は道標があって安全です。両側の山は上から下まで紅葉していてとても素敵です。川岸は地図と違って絶壁のところは殆んどなく、主に川の北側を行きます。最後に道が二つになり河原に沿って行く方が安全のようです。私は尾根の方を行きましたが、ところどころ崩れていました。もうここらの木々は新雪で飾られています。登り切ったところに常念小屋があります。しかし錠がかけてあって入れません。常念頂上へ登って行く途中、松本二中の先生岸様に出会いました。鳥川の本沢を登られたのです。そして今日中に中房へ下ると言っておられました。常念の頂上には祠があります。その前に小さい地蔵様が置いてありました。雪がばらばらと降ってくるのみで、楽しみにしていた前の槍、穂高連峰をさえ見ることができぬのは残念でした。常念を下って岸様を追って行きます。道はたいていの山の西側を巻いています。二ノ俣に小屋は二カ所あって開け放しです。大天井岳の絶頂に登ってみましたが何も見えません。ただ三角点が雪の降るのに、知らぬ顔をしているばかりです。喜作新道の別れ道にきました。すると案外にも岸様の足跡が槍に向っています。さては槍に行く気になったのだなと思って、私も元気になり大急ぎで追って行きました。やっと西岳の小屋へきてみると岸様は薪を集めていました。よく話してみると道を間違えてここへきたとのことです。私がここへ着いたのは午後五時頃で小屋は開くようになっていましたし、茣蓙《ござ》や天幕等もあり、火も難なく焚けましたので、着物等を乾かし九時頃寝ました。夜は風も強く雪も少しずつ降っているらしい音がして不安でしたがよく寝られました。
十七日午前五時過ぎ起きて外へ出てみると、ちょっとのあいだ雲がはれて雄大な槍、穂高連峰が見えましたし、雪も思ったより積っていないので大変嬉しかったです。岸様は一日で下山の予定で飯を持っていませんから、私の残りをおかゆにして一緒に食い、七時過ぎここを出発しました。途中空腹と雪に悩まされました。一つは私が今日から新しい靴を履きましたが、これが大変重いのも原因だったのでしょう。ようやく持っている菓子や水で元気をつけ、殺生小屋へ着いたときはほ
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