歩はできそうにない。仕方がないから、絶壁をよじ登っては河ところで、二つの大きな滝となっている、上の滝は二百尺くらいもあろうと思われる。この滝の右側の尾根を下り滝の下を横切って下の滝の左側を下って河原に下りたが、本流原へ下り、また絶壁を登っては河原へ下りの運動を数十回もやった。こうしてやっと広河原に着いたのは午後五時頃で、大変予定が狂い実に残念だが、疲れ果ててしまったので、広河原の小屋へ泊ることにした。幸いにもちょうど私が小屋へ着くと同時に、とても物凄い夕立が襲った。このときの雷はゴロゴロと一分間くらいつづいて鳴り、なかなか凄かった、だいぶ雨が漏ったが小屋のお陰で、びしょ濡れにならぬだけは拾いものであった。
 十二日、山は霧がかかっている。午前六時小屋を出発して予定の尾根をまっすぐに登って行き、二六〇〇メートル辺から山を巻いて赤石岳と荒川岳の鞍部へ出で大聖寺平へ下って行く。小屋は石室でちょっとわからぬが目印に小屋の右上の尾根へ柱が立ててある。なお下ると水がでている。聖岳往復中、余分の食糧を小屋に置いて出発し、赤石山蚕玉大神を祭った剣ヶ峰へ取付き、大きな東山稜を持った小赤石を乗越して海抜三一二〇メートル一の赤石絶頂へ午後十二時四十分に着いた。「大正十五年八月七日赤石絶頂を極む九十翁大倉鶴彦」と書いたのと植物愛護のことを書いた硝子入の立札が立ててある。ここから聖岳は近いのだが、霧がかかっていて谷のみしか見えぬ。名刺を置いて国境線を聖岳へ向って南へと急ぐ、大沢岳へ取付く前国境線を左にそれ百間洞へ下り、後ガレを一気に大沢岳へ登る。登り切って縦走して行くと向うの尾根に羚羊がいる。オオイと声をかけても知らぬ顔して向うを向いているし石を投げてもじっとしていたが、私が急いで行くと谷へ素早く下ってしまった。霧がかかっていなかったら写真を取るのだったが、バルブでは取れない、私は口惜しかった。それから二つほど山を越して兎岳へ登った。三角点へ往復して聖岳との鞍部へ下るとき、少し霧が晴れて聖岳が大きく聳えているのを見た。一番低そうなところまで下って露営することにした。着のみ着のまま寝るのだから気楽なものだ、ときに午後七時四十五分。
 十三日、霧がかかって山は見えぬ、風もなかなか吹いている。荷物を置いて午前六時二十分にここを出発し道がわからなかったので、右側に絶壁を見下しながら尾根伝いに登って行く、風が強く合羽を取られそうだ。途中で道らしいものに出て、午前七時聖岳の絶頂に登った。海抜三〇一一メートルもあって南アルプス南方の重鎮だ。そこには御料局の三角点がある。そして聖岳の三角点はここから六町くらい東山稜を下ったところにあり、これへ行く途中、残雪の下からうまい水が出ている。霧は晴れぬがときどき雄大な渓谷を見せる。引返し大変苦しんで、やっと極めたこの聖岳に別れて下る。途中まだ羽根の白い二羽の雷鳥を見た。道は尾根の右側を巻いて姫小松の中を下って行く、露営地へ下り、荷物を持って一夜の宿に名残りを惜しみつつ兎岳―大沢岳―百間洞と急ぎ赤石岳へかかった。風雨は強くなり、身体は疲れなかなか捗らぬ。やっと赤石岳へ着いたのは午後五時四十分で、今日松高山岳部の連中が登った名刺が私が入れた罐に入っている。元気を出して小赤石―剣が峰と縦走し、ここの雪渓をまっすぐに大聖平へ下り右往左往して、やっと小屋へ着いたときは午後七時十五分であった。ここの小屋でも私は火をたくのに苦しめられ蝋燭の火を抱えたまま夕食も食わずに疲れて寝てしまった。翌朝シャツが少し焼けているのに気がついたほどである。
 十四日、山は霧が巻いて風も強いので、少し休んで午前九時小屋を出発した。荒川岳へ取付き少し国境線より東によったガレをまっすぐ登り、国境線へ出で縦走して御料局三角点のある前岳へ登る。もう霧は晴れて富士山をも見ることができ、眺望雄大、後方には赤石岳―聖岳―兎岳―大沢岳等高く聳えて昨日の縦走を思いては淋しささえ感ずる。荷物を置いて荒川岳へ向う、前には、東岳高く聳えてどこから登るのか見当がつかぬくらいである。北方に塩見岳―仙丈岳―駒ヶ岳―間ノ岳―農鳥岳等互いに譲らず、高く聳えているのを見ては痛快と叫ばずにはいられぬ。海抜三〇八三メートル二の荒川岳の絶頂へ午後十二時三十分に着いた。なお進みて登り、海抜三一四六メートルの赤石山脈最高峰東岳の絶頂へ着いたのは一時三十分であった。御料局三角点と小さい祠のような物があり、数百歩にして万次小屋にいたるとの立札がある。十二日早大山岳部の連中が登ったと書いた名刺があった。引返して荒川岳を越し前岳へきてみると、長野県庁の人々が高山越えをしてやってきた。私はこの大絶壁を有する前岳で、赤石三山と別れて淋しく国境線の尾根を下って行く。六町くらいきてから国境線を右にそれ北の方へまっすぐガレを一気に下ってしまい、なお進むと残雪がある。私はこの向うに道があるものと思って進み、ちょいと迷い引返すと山を巻いて行く道があったので、これを進んで高山裏まできたとき霧がかかって尾根を取り違え、また迷い山中を歩き廻っていると谷間で人の声がするので、オーイと呼ぶと返事があった。そこで勇んで道の無いところを急行で下ってみると、名古屋の二人と案内二人、道連れの二人、計六人の人が小屋のようなところで露営中なのだ。さっそく一緒に泊めてもらうことにしたが、こう道に迷って予定の狂うのにはほとほと困ってしまった。
 十五日、今日もいいお天気だ、午前六時三十分皆と一緒に出発し、道を教えてもらい国境に沿って進む途中、三組も学生連に逢った。小河内岳を越し三伏峠より十町くらい手前で北に向って、まっすぐ谷へ下ると峠よりくる道に合う。これを下れば中俣水源小屋がある。ここから道は山を巻いて本谷山へ登るのだが、道がわからなかったので、手前の山へまっすぐに登って尾根伝いに進み、道へ出て縦走して行くと東京方面の人が案内と二人で塩見岳を極め引返してきたのに出会った。森林を通り抜けて尾根を伝い午後五時四十分、海抜三〇四六メートルの塩見岳絶頂へ着いた。ちょっと霧が巻いているが、雄大な展望台で仙丈岳―駒ヶ岳―白峯三山と赤石三山を前後に見て眺望絶佳である。名残り惜しいがここを下る。北荒川岳の西側は凄く崩れて絶壁になっている。こんなところは多く羚羊の足跡を見る。道は三角点まで行かず右に北荒川を巻いて東側にあるのだが、私は三角点まできたので道の無いところを下って、最も低いところで露営したときは午後八時頃であった。
 十六日、今日もいいお天気だ。午前六時露営地を出発して尾根へ登り進めば道あり、国境線に沿いて森林の中を進み、大井川と三峰川の分水嶺附近へくると水が出ている。ここに小屋の跡があるが、小屋はわからなかった。これより御料局三角点のある三峰へ登れば眺望雄大、南方には赤石三山、塩見岳あり、近くは農鳥岳―間ノ岳―北岳の白峯三山毅然と聳え、昨年縦走した仙丈岳と駒ガ岳は野呂川の大渓谷を距てとても雄大に見える。登りて間ノ岳へいたれば、大河原で会った早大山岳部の連中の天幕がある。彼等は今北岳をすまし農鳥岳へ向ったと案内人が湯を沸しながら話してくれたので、私は急いで後を追って進み、ほどなく追いついたが、ガレを走ったため鼻血を出し、半時間くらい遅れてしまった。海抜三〇二五メートル九の農鳥岳絶頂に着いたのは午後二時であった。引返して間ノ岳へ取付く頃、東京高工山岳部の学生二人案内一人に会って、海抜三一八九メートル三の間ノ岳絶頂に帰ったのは午後四時前、少し休み早大生等と別れて北岳に向う。途中ヒヨコ三羽を連れた雷鳥を追い廻し写真一枚撮った。海抜三一九二メートル四の日本アルプス最高峰北岳の絶頂へ着いたのは午後六時三十五分であった、眺望雄大なことは無類であるが、だいたいに南アルプスは雪が少ないのは残念である。白峯三山とここで別れて淋しいが下らねばならぬ、白峯御池らしく見えた残雪へ向ってお花畑を一気に下ってみると、これは池ではない。なお下ればまた残雪があるが、これも御池ではないようだ、疲れ果ててここへ露営することにしたときは午後八時過ぎである。
 十七日、最後の日となってしまった。どうしても今日中に駅へ出ねばならぬと思うと忙しい。天気はとてもいい、午前四時半露営地を出発し、山の中腹を巻いて進むと道があった。これを一気に下れば白峯御池だ。残雪に蔽われているが、下の方は冷たい水が出ている。うまい、これからは道を迷うことはない、森林の中を一気に下って広河原小屋へ着いたのは午前七時頃で、朝飯を食い、残りの食糧を小屋へ寄附し川を徒歩して、先輩に教えて頂いた如く川を下れど道がわからぬため引返し、地図に書いて頂いた谷を登ればいつか道に出るであろうと思ってこれを登って行った。そしてやっと一〇〇〇メートル以上も川より登り頂上附近の尾根へ出たが、ここでもどうしても道がわからなかった。ここで九州大学医学部の学生に逢って道を聞けば、川を渡って川を上り十町くらいまで行って谷を登るとのことであった。幸いに私は山中をかく一〇〇〇メートル余も迷って充分山へ自信を持つことができ有難いと思っている。これより高嶺に登ったときは午後十二時三十分で賽ノ河原へきて石仏会の名簿に名前を書き、時間があったら地図の観音岳へ往復する予定であったが、遅いので止むを得ず下山することにした。途中小屋に立ちより五色滝を過ぎ、青木湯に向って一気に下る途中二、三の登山者に出会った。その後ちょっと砂防道に迷ったが、無事青木湯へ着いたのは午後五時であった。一浴して六時にここを出発し、鳥居峠に登り一気に発電所のあるところへ下り、河原をドンドン進んで八時三十分、やっと祖母石村にいたり、荷物自転車に乗って韮崎に向った。そして私の乗った汽車は午後九時頃駅を離れて行く。私はああ南アルプスよさらば、また会う日までと泣かずにはいられぬくらいだった。私は今振り返ってみるにかかる長いコースを、ただ一人十日余の食糧を持ち、しかも随分迷い廻ってなお八日くらいで縦走し得たということは、神のお守りかまことに感慨無量で淋しさをさえ感じた。
[#地から1字上げ](一九二七・九)
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山行記

    北アルプス縦走

 私は八月七日から高瀬入―烏帽子小屋、三ッ岳―五郎岳―赤岳より水晶山と赤牛岳へ往復、鷲羽岳―三俣蓮華小屋、三俣蓮華岳―中ノ俣岳―上ノ岳小屋―薬師岳ー五色ヶ原小屋、針ノ木峠―大沢小屋、扇沢登り鹿島槍ヶ岳―八峯、五竜岳、八方尾根下り四ツ谷へのコースを一人でやりましたが、南アルプスに比して人のいる小屋が多く大分楽で雪もあり眺望もよく面白い山行でした。しかし八月であったためか五色ヶ原の針ノ木峠道の外、登山者には一人も会いませんでした。私のように変なコースを一度にやる人はなく赤牛岳でも便利が悪いためか、今年はただ法政大学の連中二人と私だけしか行かなかったようです。
 私は大町対山館を午前八時に出発し、途中葛ノ湯で半時間ほど温泉気分を味い十二時三十分に濁の小屋へ着いた。ここの主人はこれから烏帽子の小屋までは四時間から八時間くらいかかる、最初の日に無理をすると後で困るからぜひここへ泊れと言いながらお茶を出してくれた。私が昼飯を食っていると京大の連中二人が案内一人を連れて北鎌尾根から帰ってきた。私が京大の人が奥穂高でやられたねと言ったら誰だろうと大変心配し、そんなことなら上高地へ下ったらよかった。今から引返そうかと言ったが、そこに長野かどこかの新聞があって大阪高工の某と書いてあったので、こんな人は知らないし京大の者ではないと言って安心して下ってしまった。私はここを出て河原でちょっと迷ったが、尾根に取付いてから三時間ほどで烏帽子小屋へ着いた。そしてただちに烏帽子岳へ向い半時間で烏帽子岳北側へ着き、そこから最初簡単に岩を登って次に岩を這って行く、その次の岩の横腹へトラバースする割目があるが、とても私には通れないのでこの岩のナイフエッジにぶら下がって進んで行った。その次の岩はわけなく登れる、これが絶頂です。別に道があるように思ってあちこちと探してみたがわか
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