単独行
加藤文太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)芦峅《あしくら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)万福を祈上候|燦《さん》として

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)輪※[#「木+累」、第3水準1−86−7]《わかん》が
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槍ヶ岳/立山/穂高岳

    A 槍ヶ岳・唐沢谷

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一月二十六日 快晴 六・〇〇島々 一一・〇〇沢渡 一・三〇中ノ湯 三・一五―三・五〇大正池取入口 四・五〇上高地温泉
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 中ノ湯附近は発電所入口や、水路工事などの人々が始終通るので、雪も少なく楽だった。ここでスキーを履き、トンネルを出てすぐ河原に下り川床伝いに行く。いつも世話になる大正池の水路取入口で、山の様子を聞く。去年の二月、上高地におった日、遊びにきたここの人がその夏、不慮の災難で亡くなられたと知って何だか淋しくなってしまった。温泉まではここの人がよく通るのでシュプールが残っており、知らぬ間に歩いてしまう。そしてあの親切な老爺が「よくやってきた」と喜んで迎えてくれた。

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二十七日 快晴 六・〇〇出発 一〇・三〇―一一・〇〇一ノ俣 二・三〇大槍小屋スキー・デポ 五・一五槍頂上 七・〇〇スキー・デポ 九・三〇一の俣
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 おじいさんはいつも寒暖計を見ながら「うんとシミれば天気はいいぜ」という。その通り今日もすばらしいお天気だ。去年は暗いうちに出てだいぶ困ったから、今度は明るくなってから出発することにする。明神池へ渡って川沿いに進み、横尾谷の出合から一ノ俣まであまり高廻りしないで川岸の岩場をへつったりする。小屋附近の積雪量は三尺くらい、今年は小屋を使用する人が多くなったためか、屋根の雪が煙で赤くなっている。槍沢附近はやはり雪が多い。赤沢岳の岩壁から滝のような雪崩が落ち、その音が意外に大きかったので驚いた。冬期太陽の直射によって出る雪崩は、こうした岩壁等の急斜面のみらしい。しかも雪質が湿っているため、落ちた斜面に食い込んでしまい殆んど押し出さない。山に登るには遅いと思ったが、天気はいいし、雪は堅くアイゼンで楽だったから頑張ってみる。風は強くないが相当寒い。黒い槍の穂は下から見れば近いがなかなか時間がかかる。もちろん三、四月頃の岩に雪が凍りついて真白になったときは岩登りの下手な僕にはとても登れないだろう。槍の頂上、なんとすばらしい眺めよ。あの悲しい思い出の山、剱岳に圧倒されんとしてなお雄々しく高く聳えている。感慨無量。

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二十八日 曇 七・〇〇発 一一・〇〇唐沢出合 三・〇〇スキー・デポ 五・〇〇穂高小屋 五・四〇スキー・デポ 八・〇〇唐沢出合露営
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 横尾谷は雪が少ないので夏道を伝い、唐沢出合附近で川床へ下る。唐沢谷は入ってからちょっとのあいだが一番雪崩のよく出るところで、それからは殆ど雪崩の跡はない。この谷は四方を高い山で囲まれているため強い風があたらず、雪が締っていないから輪※[#「木+累」、第3水準1−86−7]《わかん》が必要だ。穂高小屋附近は、唐沢岳の西側に沿って吹いてくる風が奥穂の岩壁にあたり跳ね返って、とても凄く吹きまくる。それに雪が少し降り出したらしく睫が凍って目が見えなくなるにはちょっと驚いた。いくら風が強くとも唐沢岳くらいはと思っていたが、なかなか小屋まででも大変だった。小屋の陰に坐って奥穂の岩壁に余り雪がついていないのを見ただけで退却する。ちょっと下るともう風もなく嘘のようだ。歩いて下るのも、ブレーカブル・クラストのためなかなか調子が悪く、またスキーを履いてからも暗いのとスキーが下手なので例のごとく七転八倒。本谷と出合ってから、ランタンに火を点そうとすると蝋燭が雪で濡れジーと音がするばかりで火がつかぬ。しようがないからそのまま下る。懐中電燈を持っていれば大丈夫だったものをと今になって悔いてもおそい。ついに出合からちょっと下ったところで川の中へ飛込んでしまった。深さは一尺くらいだったらしいが転んだため腰から下全部濡れてしまう。この調子ではスキーを折る恐れがあると思ったので、ちょっとした岩陰で露営する。靴を脱いで足をルックザックの中に入れ、坐ると濡れたズボンが足に触って冷いので立ったまま夜通し起きていた。とても夜明けの待遠しかったことよ。幸い雪が盛んに降っていたので温度が高く、濡れた物も凍らず、凍傷は免れた。しかしこれがため少し風邪を引いた。またスキー・デポから唐沢小屋まで柔い雪の中を頑張って歩いたので踵を痛め、それが冷えたのか痛くなり一カ月ほど癒らなかった。

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二十九日 曇 六・〇〇発 九・三〇―一〇・三〇一ノ俣 六・〇〇上高地温泉
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 一ノ俣に寄って上高地まで下るのに太陽がときどき現われるためスキーに雪がつき辷りが悪く、かつ昨日の疲れでなかなか時間がかかった。また一日中風が強く雪もときどき降った。

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三十日 曇 七・〇〇発 七・五〇水取入口 一・三〇奈川渡
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 例の踵が痛み思うように歩けなかった。松本四時半過ぎの汽車に乗るため奈川渡より自動車を駆って先を急いだ。


    B 立山

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二月九日 曇 九・二〇千垣 一〇・〇〇芦峅 一〇・一五藤橋 二・二〇材木坂頂 四・〇〇ブナ坂避難小屋
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 藤橋の手前でスキーを履く。積雪二尺。例の雪崩の出るところはちょっと悪い。あの附近は高山と違って真冬でも温度が高く、かつ南斜面だから太陽の直射でよく雪崩れる。材木坂より上は積雪量が相当にあってどこでも楽に歩けた。山毛欅坂もスキーによい斜面となっていた。霧が巻いてきたので山毛欅坂避難小屋に泊る。気持のいい小屋だ。炭俵がたくさんあり、その中に入っていると温かい。アルコールは便利だ。コッヘルにて餅を炊く。とてもうまい。また干柿もいい。この附近積雪量五尺くらい。

[#地から1字上げ]十日 雪 七・〇〇発 〇・〇〇弘法小屋
 雪が降っている。しかし風がないので幸いだ。弘法附近は積雪七尺くらい、南側の下の窓より入る。一月より寒いのか炊事場の水は表面が凍っていた。例の炉辺に寝る。午後七時頃よりときどき風の音を聞く。

[#地から1字上げ]十一日 雪 滞在
 何もすることがないので入り口の戸を開けて道を掘ってみた。すぐ埋ってしまうので中止。夜中より吹雪となり物凄く風が唸っている。

[#地から1字上げ]十二日 吹雪 滞在
 朝になっても吹雪は止まず、いつまでつづくことかとちょっと心配になる。一月福松が口癖に雪の立山、雪の立山と言っていたが、ほんとにその感じを深くする。しかしさすがの吹雪も午後五時頃よりおさまり、その夜は寂莫。静かな雪が落ちているのみ。

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十三日 晴 八・四〇発 一・〇〇室堂 二・一五一ノ越 三・〇五立山頂上 四・一〇室堂 六・一五弘法
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 朝起きて見ると白い雲が走っていて、ときどき青空が見える。雪もチラチラ降っている程度なので大丈夫と思って出かける。この雲は二〇〇〇メートル以下のもので、鏡石より上は快晴であった。思うにこれら雪雲は雪線について上下し、たいてい春秋は山頂附近に、冬は山麓に止まり、その附近に多く雪を降らすのであろう。天狗平の上は余り高く巻くと雪が堅く不愉快だ。室堂附近の積雪量は、一月と変らぬ。それとも風が強くてこれ以上は吹き飛ばされるのか。一ノ越から頂上までも一月と同様簡単に登れる。黒部谷をへだてて針ノ木―鹿島槍が雄大に見える。劔岳もまた凄く聳えている。風が強くなかなか寒い。写真を二枚撮って下る。

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十四日 晴 六・四〇発 一一・三〇―〇・一〇藤橋 二・三〇―三・〇〇芦峅 三・三〇千垣
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 藤橋で水量を計っている組についていた芦峅《あしくら》の案内らしい人が僕に向って、君が一人で登ったので大変心配したと言った。僕の行動がまるで知らない人にまで心配をかけたのは全く恐縮の次第だった。それから発電所の方へ渡って例の雪崩の出るところを避け、また右岸に返って芦峅に下った。


    C 奥穂高・唐沢岳・北穂高

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二月二十日 快晴 六・〇〇島々 一一・二五沢渡 二・〇〇中ノ湯 四・〇〇―四・五〇大正池取入口 五・五〇上高地温泉
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 温泉のお爺さんは少し身体の具合が悪かった様子だが、飯を炊いたりしているうち、元気になり、僕が神戸から持ってきた餅を少しあげたら、自分は餅が一番好きだと言って、非常に喜んでくれた。そして大阪三越の古家武氏が二月の初め、一人で槍を登ったと聞き、ちょっと嬉しくなってしまう。

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二十一日 快晴 六・三〇発 一〇・四〇―一一・〇〇横尾岩小屋 〇・〇〇唐沢出合 二・〇〇―二・二五池ノ平 三・四〇―四・〇〇横尾岩小屋 五・三〇一ノ俣
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 横尾岩小屋に荷物を置いて唐沢谷偵察に行く。なかなかすばらしい谷だ。明るいうちに辷って帰るのは惜しいが、余り疲労するといけないと思って池ノ平から引返す。傾斜は緩く、雪も柔かで気持いい。

[#地から1字上げ]二十二日 雪後晴 滞在
 午後雪がやんで常念や大喰《おおばみ》が雪煙を上げている。唐沢を少し登る。横尾の岩場に塵雪崩が始終懸っているのがよく見える。

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二十三日 快晴 四・三〇発 六・三〇横尾岩小屋 八・〇〇唐沢出合 一一・四五唐沢岳直下スキー・デポ 〇・三〇穂高小屋 一・二五奥穂高頂上 二・〇五穂高小屋 二・二五唐沢岳頂上 二・三五穂高小屋 二・四五―三・〇〇スキー・デポ 三・三〇北穂側スキー・デポ 四・一〇北穂ノ肩 五・〇〇北穂高頂上 五・五〇北穂ノ肩 六・〇〇スキー・デポ 八・三〇―九・三〇横尾岩小屋 翌朝三・〇〇上高地温泉
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 このたびは北穂にも近いようにスキー・デポを唐沢岳直下にした。いつも登る谷には奥穂の例の岩場のすぐ東側から一直線に池ノ平まで雪崩が出ていた。これは昨日の降雪で出たらしい。一昨日には見えなかったから。奥穂の岩場は去年の四月に比べて非常に楽だった。岩登りの凄いのは、やはり、三、四月頃の岩に雪が凍りついたときだろう。今日は風も無く暖かい。奥穂頂上で零下二度。これは明日の大雨の前兆だった。北穂も思ったより簡単に登れた。

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二十四日 風雨 七・三〇発 九・三〇−一〇・〇〇トンネル 〇・三〇上高地温泉
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 雨の日に出ることの危険は知っていたが、これほどまで凄いとは思わなかった。出勤の日が切迫していたので無理に出たが、あんな日にはもう二度と出まいと思った。幸か不幸かトンネルの入口が雪崩でこわれ、雪が一杯詰っていて通れずやむなく引返した。

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二十五日 快晴 七・〇〇発 〇・〇〇徳本峠 二・三〇岩魚止 七・二〇島々
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 昨日の雨で岳川谷の下半部は真青になっていた。徳本《とくごう》は、普通輪※[#「木+累」、第3水準1−86−7]で登る左の小さい谷に入って意外にひまどった。徳本の島々谷側は峠の東北側から一直線に底雪崩が下まで走っていた。たいていの谷から凄いのが出ていた。それらを横切るのにピッケルが必要だった。この一週間は割合天気がよかったが、僕と入れ代りに上高地にきたB・K・Vの成定氏および額氏は、その後一週間毎日雪が降り、殺生小屋附近しか登れなかったという。
[#地から1字上げ](一九二五・一二)
[#改ページ]

私の登山熱

 私は神戸に来てから三年くらい旅行の味を
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