知らなかった。大正十年遠山様設立のデデイル会(三菱)に入ってからこの味が少しわかりだし、大正十三年以来兵庫県内の国道と県道を四百里ほど歩いた。大正十四年の八月終りには蓮華温泉から白馬岳に登り鎗温泉に下り、吉田口から富士山に登り御殿場に下山を皮切りに、九月には大峰山脈を縦走し大台ヶ原山に登った。十月には大山に登り船上山へ廻ってみた。大正十五年七月中頃には岩間温泉へ下山、七月終りには中房温泉から燕岳へ登り大天井岳西岳小屋を経て槍ヶ岳の絶頂を極め穂高連峯を縦走し上高地へ下山、平湯から乗鞍岳に登り石仏道を下山、日和田から御嶽山に登り王滝口下山、上松から駒ヶ岳に登り南駒ヶ岳まで縦走し飯島へ下山、八月中頃には材木坂を登って室堂にいたり浄土山、雄山、大汝峰、別山と縦走し劔岳を極め長次郎谷を下り小黒部を経て鐘釣温泉へ下山、八月終りには戸台を経て仙丈岳を極め引返し駒ヶ岳へ登り台ヶ原へ下山、大泉村から権現岳を経て八ヶ岳連峰を縦走し本沢温泉へ下山、沓掛より浅間山に夜行登山をなし御来光を拝し小諸へ下山等の登山をした。
 これらの登山中私はいつでもリーダーなくただ一人だったから、日数は割合多く費やしたが費用は少なくてすみ、精神修養、山への自信等多くの利益を得た。
 白馬の熊――白馬小屋で夜中にガタガタと戸を打つ音がすると思って目をさますと、寝ている小屋の横でドスドスと大きな足音のような物音がするので、テッキリ熊だと思ってゾッと冷汗をかいたまま毛布を被って息を殺していた。翌朝小屋の人にこの話をすると、夏の終りにはときどき、食物を求めに熊が来るとのこと、それ以来、鎗温泉から小日向山を乗越すまで声を限りに歌を唱い通したが、今思うとおかしくてならない。何分初めての山登りでもあり、中川原の宿屋でも、蓮華《れんげ》温泉に食物を運ぶ人が温泉に行く途中で木に登っている熊を見て驚き、悲鳴をあげて逃げだすと、熊も恐ろしい声を出して谷間へ転げ落ちるかのように姿を消したと聞いていてビクビクしていたときだったから無理もない。
 大峰山――山上ヶ岳の籠堂《こもりどう》で案内人どもが縦走のなかなか苦しいことを語り、むやみに傭ってくれと言う。私はいつでも一人でリーダーを傭わぬとわかると、缶詰を持っているかとか、水が無いから氷砂糖のような物を持たぬといかんとか言う。私がキャラメルを持っていると出して見せると親切に話しながらみな平げて行ってしまった。
 大山――僅か五六五二尺の山だが、偃松《はいまつ》があるのと眺望の雄大なのに驚いた。
 船上山――さすがは有名な史蹟だ。秩父宮様の行啓の碑があった。
 白山――白山を縦走してやろうと思って尾添から美女坂道を登ることにした。ところが地図には堂々と道があるが、行ってみると炭焼の道が途中まであるきりで、トテモ通れない。その中を私は一生懸命に歩き廻ったが、結局は後戻りだった。この日一日オジャンになってしまったが、私がよく調べて行かなかったのが悪いので誰をうらむわけにもいかぬ。さて地図には書いてないが、岩間温泉から登山道ができていることがわかり、すぐにこれを登って温泉へきてみると人がいない。仕方がないから引返して途中の山小屋に泊めてもらった。この日は白山祭でたいていの小屋の人は村へ下山していたが、ここの人々は養蚕をやっておられたので、幸いに泊めてもらうことができた。なんでも大津で暮しておられたが、主人が脚気にかかり、やむを得ずこの故郷に帰っておられるとのことだった。それから山の話や、熊は逃げるのが早く高いところにはいないので岩間温泉附近に一番多くいるとか、長いあいだいいお天気がつづいたから明日は雨かも知れない、もし雨が降れば山は風もつよく危険である等と種々話された。翌日はやっぱり雨だったし気持の悪い風も吹いていた。主人はもし危険だと思ったら引返しなさいと言って、昨日のラッセルでワラジが一つ無くなっているのを見て無い中から作って下さった。雪渓が多いのと風雨が強かったので相当苦心したが、無事白山の絶頂を極め得たことをこの人人に感謝してやまない。ただ小さいお金が無くて壱円なにがししか置けなかったのと、名刺を置いたが名前を聞かなかったことを心残りに思っている。
 昔の穂高連峰――殺生小屋で、あるリーダーが昔の穂高連峰は最も恐しい山で、今の北鎌尾根以上であって、その頃他のリーダー等と穂高縦走をやったが、その日は大変荒れて雨が降り風も吹いたため、尾根を取違えて迷い廻ったこと三日間、いかな山男も運を天にまかせてしまったほどだと言っていた。しかし幸い彼の喜作新道の開発者喜作様が心配してきて救い出してくれたという。この喜作様は冬猟のとき雪崩のため小屋もろとも埋められて死んだそうだが、喜作様の名前は西岳連峰縦走道によって長く伝えられるだろう。
 今の穂高連峰――昨年私が穂高を縦走したときは相当風雨も強かったが、大変道がよくなっていたので無事縦走することができた。夜中には小屋の屋根が飛んでしまうかと思うほど風が吹いたと穂高小屋の人が言っていたが、私は少しも知らぬほど安らかに寝られた。これが昔であれば、私はどうなっただろう。日本アルプス登山案内に穂高に登るは天に登るより難しと形容して書いてあるが、その頃から見れば穂高もだいぶ俗化したようだ。次に穂高小屋からの葉書を紹介する。「謹んで新年を迎へ奉り併せて高堂の万福を祈上候|燦《さん》として輝く新春の光に白雪を頂くアルプスの連峰雲上遥に諸賢アルピニストの御健康を祝するが如く仰ぐも荘重の気全身に満るを覚え申候、目出度き歳旦に諸賢の登山御計画を拝想するは神山を仰ぐ者の非常の喜びに候、顧ればアルプスの登山は年と共に激増し哦々《がが》重畳たる連山も我等が山の感を抱かせ申す程に候、是れ一重に諸賢登山家の御努力の致す所茲に小生有志と計り最嶮処なる穂高諸峰の踏破を容易ならしめんと穂高小屋を計画し昨夏完成を見るに至り食料品寝具の充備は勿論ストーブをも新設し安らかなる登山とし幸福なる山境として諸賢の御満足を御期待致し得るは穂高小屋最上の愉快に候、尚ほ船津営林署に於ては蒲田《がまた》温泉より白出沢を通じて当小屋に至る三尺幅の新道を開通し完全に危険を去り此の間四里且つ蒲田温泉へは半里の栃尾迄自動車の便あれば衆俗をはなれし山境蒲田に第一歩を印せられて諸峰の嶮を探ぐるも意義ある事と存候、想ふに毅然たるアルプスは日本人の表兆にして登山家諸賢の御参登を仰いで初めて小生の寸志も遂げ得る者に候、切に礼賛御宣伝を御希申上候 敬具」
 鉛筆登山――私は彼のリーダーに今年北鎌尾根を縦走すると言う人があったと言ったら、彼は今年はまだやった人はないし、それは地図に色鉛筆で見事な線を引くだけの鉛筆登山というのだろうという。私もなるほどそれに違いないと思った。神戸徒歩会も夏期大旅行とて穂高縦走を書いていたので穂高小屋で名簿を見たが、見つからなかった。これも鉛筆登山だったらしい。
 乗鞍と御嶽――穂高下山道で見たスタイルは素敵でともに富士に劣らぬほど雄大であった。地図には書いてないが石仏道というのは地図の千町ヶ原道の二四六二・二メートルの三角点より少し下で左の尾根に入り一八六四・七メートルの牧場を通って橋場というところに下る道で、途中に避難小屋もあり乗鞍から御嶽へ登るにはこれが一番近いように思う。日和田から御嶽へ登る道も案外よくて予定より早く登れた。御嶽はなかなか繁盛している。しかし乗鞍は淋しかった。雨が降ったために平湯や白骨に居つづけている登山者の多いためだったのかもしれない。
 駒ヶ岳――西駒は中央アルプスといわれるだけあってなかなかいいところがある。北アルプスと南アルプスを前後に見る眺望は日本一だろう。駒縦走路は少しも危険なところがなく案外だった。南駒ヶ岳を乗越していい道があるのだったが知らなかったため、摺鉢窪《すりばちくぼ》へ下って人のいない小屋よりズーッと下の沢で野宿をした。翌朝午前十時飯島へ下って、有明からここまで十日間の長いコースを無事に終った。しかし山に別れることはなんとなく淋しかった。
 立山室堂――室に上下の差別があったり、蒲団を売店から借りなければならぬくらいはよいが、ここの人は皆不親切である。何を尋ねてもたいてい返事をしない、私が劔岳より小黒部のコースを中語《ちゅうご》君に聞いてみると初めは知らぬ顔をしていたが、そのうち一人曰くあそこはとても一人では行けない一人は案内もしない、一人で通れたら首でもやろうという口振りで道がどうついているのか幾ら聞いても冷かし半分で教えてくれない。こんな人情のない人々がこの神聖な高山にいるのかと呆れてしまった。立山室堂とはこんなところとは再三聞いてはいたが、余りのことに二度とくるところではないと思った。一人で小黒部に遊び鐘釣温泉、新鐘釣温泉を知るにつれいよいよ富山人ということが深く頭に染込んでしまった。小黒部が一人で通れないようでは高山探検は思いもよらぬことだと私は思う。しかし立山は悪くない、一度は登りたいものだ。
 南アルプス――仙丈岳はさすがに一万を抜く山だ。県設小屋の上の方に相当雪があった。東から北へ白峰山脈、富士山、鳳凰山、アサヨ峰、駒ヶ岳、八ヶ岳、北から西へ北アルプス、中央アルプス、南に赤石群山を望み人里離れた深山らしさは他の山では求められぬ、私は他の山で皆登山記念品を買うことができたが仙丈岳は何も無い。しかし仙丈岳の三角点の等級を知っているということのみは、私が登山したという最も確かな証拠であると思う。仙丈岳に登った人はたくさんあっても、これを知っている人は非常に少ないと私は信ずるから。東駒の下山道で尋常六年生くらいの子供二人に出会った。彼等は八合目の人のいない石室に寝て翌朝御来光を拝し下山したのだが、さすがは山の子、感心なものだ。
 八ヶ岳――権現岳の避難小屋に一泊したが、風通しのよいのに驚いた。雨は降る、風は吹く、雷の電光が遠く下の方で光って、夜は更けて行ったが、やっぱり小屋に寝たのだが、風も引かず愉快に八ヶ岳を縦走することができた。小屋はこの他たくさんあって登りよい山だ。眺望もなかなかアルプスに引けを取らぬ。
 浅間山――夜行登山には最適の山だ。どうせ神戸まではここから一日かかる。この一日の朝飯の前に登れるのだから面白い、夜は噴火口は赤くて物凄い、ときどき硫黄の臭いが鼻を螫す。日の出前はなかなか寒い。
[#地から1字上げ](一九二六・五・一)
[#改ページ]

北アルプス初登山

    A

[#地から1字上げ]大正十五年七月二十五日(日曜日)晴
 午前六時三十五分有明駅着、少し休む。自動車あれども人多く自分は徒歩にて出発、自動車道なれば道よし、有明温泉を経て川を遡る。名古屋の人(高商生)と一緒に行く。アルプス山間たる価値ありき、中房《なかぶさ》温泉着約十二時、名古屋内燃機の人四人(加藤という人もありき)と逢えり、温泉に入浴昼食をとり一時中房温泉発、急なる登りなり、四時半|燕《つばくろ》小屋着、途中女学生の一隊多数下山するに逢う。サイダーを飲み高い金を払う。軽装(ルックザックを置き)にて燕頂上へ五時着、三角点にて万歳三唱せり。途中立山連峰、白馬、鹿島槍を見、鷲羽連峰等飛んで行けそうなるほど近くはっきりと見え心躍る、燕小屋へ引返し午後六時泊、槍は雲かかりて頂上見えず。

[#地から1字上げ]二十六日(月曜日)晴後雨
 燕小屋午前六時出発、この路アルプス銀座通りといい非常に景色よく道も良し、今朝の御来迎は相当よく富士などはっきり見え槍も見ゆ。大天井岳の前にて常念道、喜作新道の岐れ道あり、そこにルックザックを置き、大天井頂上を極む。三角点にて万歳三唱、豪壮なる穂高連峰、谷という谷に雪を一杯つめ、毅然とそびえたるを見、感慨無量なり、もとの道に引返しルックザックをかつぎ喜作新道を進む。右高瀬川の谷を眺め、眺望よきこと言語に絶す。この辺の景色北アルプス第一ならむ。西岳小屋にて休み焼印を押し、昼食をなす。途中広島の人(東京の学校にいる)東京の人(官吏)と三人となり十一時半頃出発、途中にて人々に別れ、一
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