したほどで、吉田君の手を摩擦してあげる元気がなかった。
山を下ってから、吉田君は一カ月余も入院していた。私は吉田君のお父さんに「あんたと一緒だというから安心していましたが」といわれたとき、ほんとにすまないことをしてしまった。たった一人の心の迷いからこうまで多くの人々に心配をかけるとは、おおなんという恐ろしいことだろうとひどく胸を打たれてしまった。それ以来私の心はだんだん変って行った。また故郷の家からは、父の病気はますます重くなって行く、もうそう長くは生きておられないように思うといってきた。私もそう思ったのでもう山登りを止めよう。そしていろいろ心配をかけた不孝をお詫びし、今度こそはほんとにお父さんを安心させようと決心した。そして休暇の貰える日を一日千秋の思いで待っていた。
六月も終り、故郷の町には川下祭という大祭のある一、二日前、急に暑くなったためか父はついに飲物さえ喉を通らなくなった。そしてもうすぐ私が見舞いにやってくるだろうと、私の兄がなぐさめても父は待ちくたびれたのか、会社の方が忙しいということだからもう帰ってこなくともよいと言っていたそうだが、間もなくものもいえなくなってしまった。
私が取るものも取りあえず、あわてて駆けつけたときはもう父には意識がなかった。そして祭の太鼓の音がだんだん遠くなり、人通りも少なくなってきたころ、とうとう父はこの世を去ってしまった。私は父に聞いてもらおうと思ってたくさんの言葉をもって帰ったが、ああそれはどこへもって行けばよかったでしょう。
[#地から1字上げ](一九三四・一〇)
[#改ページ]
単独行について
今ここに単独行について書くところのものは私一個人の考察であり、何ら他の単独行者より得たものではなく、多くの独断をまぬがれないと思うが、ともに山へ登るものである以上、ある程度までは共通性をもっているものと信じてうたがわない。
わが国にも多くの単独行者を見いだすが、大部分はワンダラーの範囲を出でず、外国のアラインゲンガーの如く、落石や雪崩の危険のため今まで人の省みなかったところを好んで登路とし、決して先人の後塵を拝せず、敢然第一線に立って在来不能とされていたコースをつぎつぎとたどる勇敢な単独登攀者(水野氏著岩登り術)とは似ても似つかぬほどの差があるであろう。さてかくいう単独行者はいかにして成長してきたか、もちろん他の多くのワンダラーと同じく生来自然に親しみ、自然を対象とするスポーツへ入るように生れたのであろうが、なお一層臆病で、利己的に生れたに違いない。彼の臆病な心は先輩や案内に迷惑をかけることを恐れ、彼の利己心は足手まといの後輩を喜ばず、ついに心のおもむくがまま独りの山旅へと進んで行ったのではなかろうか。かくして彼は単独行へと入っていったのだが、彼の臆病な心は彼に僅かでも危険だと思われるところはさけさせ、石橋をもたたいて渡らせたのであろう。彼はどれほど長いあいだ平凡な道を歩きつづけてきたことか、また、どれほど多くの峠を越してきたことか。そして長い長い忍従の旅路を経てついに山の頂きへと登って行ったに違いない。すなわち彼こそは実に典型的なワンダラーの道を辿ったものであろう。かくの如く単独行者は夏の山から春―秋、冬へと一歩一歩確実に足場をふみかためて進み、いささかの飛躍をもなさない。故に飛躍のともなわないところの「単独行」こそ最も危険が少ないといえるのではないか。
つぎに私自身の冬山単独行をかえりみると、昭和三年二月の氷ノ山々群に始まり、翌四年一月夏沢温泉から八ヶ岳への登頂、つづいて冷泉小屋から乗鞍に登り、二月には一ノ俣の小屋から槍ヶ岳に、三月には弘法小屋から立山に登った。翌五年一月には室堂から立山に登頂後、軍隊劔まで往復、また槍ヶ岳に登頂後つづいて唐沢を登り穂高小屋まで往復(前年四月一日唐沢岳に登頂同二日桑田氏とともに奥穂高に登頂)二月には弘法から立山に登り、また奥穂高、唐沢岳および北穂高に登頂(十二月一日、一ノ沢を登り常念小屋から常念および大天井に登頂)翌六年一月、大多和から有峯―真川の奥の小屋を経て上ノ岳の小屋に登り、薬師岳登頂後、黒部五郎―三俣蓮華―鷲羽―黒岳―野口五郎―三ッ岳と縦走し烏帽子の小屋からブナ立尾根を下った。二月には鹿島村から冷沢西俣を登って鹿島槍に登頂し、つづいて畠山の小屋から蓮華岳および針ノ木岳に、猿倉スキー小屋から白馬岳に登頂。また室堂から長次郎谷を登って劔岳に登頂、つづいて立山にも登った。翌七年一月には、唐松日電小屋から五竜岳へ登頂、唐松―不帰岳の針金のあるところを下って第一鞍部より引返す。(つづいて猿倉から山友達二人とともに白馬岳へ登頂)二月には槍肩の小屋から槍ヶ岳登頂後南岳まで往復、双六岳、抜戸岳および笠ヶ岳へ往復、つづいて白馬大雪渓を登り杓子―槍―旭岳―白馬岳等に登った。翌八年一月には御殿場から富士山へ登頂、つづいて黒沢口から御嶽山に登り王滝口へ下る。三月には槍沢を登り槍ヶ岳―南岳―北穂岳―唐沢岳―奥穂岳―前穂岳と縦走して岳川へと下った。つづいて乗鞍に登頂(四月一日には立山から別山まで尾根を歩き、翌日乗鞍の小屋から軍隊劔岳へ登頂した)かくて本年に入ったのだが残念にも一月にはあの大雪にあい、立山中腹ブナの小屋においてテントを置いたまま退去の憂目《うきめ》をみた。(山友達とともに春になった四月の三、四の両日に前穂高の北尾根を登り、奥穂高へ辿る途中において凍傷にかかり、槍ヶ岳方面を抛棄して穂高小屋から下ったのである)。以上冬期でないものおよび単独行でないもの(カッコ内のもの)も列記したが、これによって見ればほぼ容易な山行から漸次困難な山行へ進んでいるといえよう。
我々は何故に山へ登るのか。ただ、好きだから登るのであり、内心の制しきれぬ要求に駆られて登るのであるというだけでよいのであろうか。それなら酒呑みが悪いと知りつつ好きだから、辛抱ができぬからといって酒を呑むのと同じだといわれても仕方があるまい。だから我々は山へ登ることは良いと信じて登らなければならない。山へ登るものが時に山を酒呑みの酒や、喫煙者の煙草にたとえているのには実に片腹痛いのである。もしも登山が自然からいろいろの知識を得て、それによって自然の中から慰安が求めえられるものとするならば、単独行こそ最も多くの知識を得ることができ、最も強い慰安が求めえられるのではなかろうか。何故なら友とともに山を行く時はときおり山をみることを忘れるであろうが、独りで山や谷をさまようときは一木一石にも心を惹かれないものはないのである。もしも登山が自然との闘争であり、自然を征服することであり、それによって自然の中から慰安が求め得られるとするならば、いささかも他人の助力を受けない単独行こそ最も闘争的であり、征服後において最も強い慰安が求めえらるのではなかろうか。ロック・クライマーはただ人が見ているだけで独りで登るときよりはずっと気持が違うというではないか。
去年の三月私は横尾谷にある松高の岩小屋をおとずれたことがある。ちょうどその年の一月屏風岩を登った中村氏らがいて非常に歓待してくれた。そのとき私は入口においてある大きな白樺の木へ腰をおろして焚火にあたっていた。ところが中村氏は私に向って「君の生命は旦夕にせまっている」というのである。それはどうしてだと聞いてみると、実は去年の今ごろ、今は亡き神戸の三谷氏が友達と二人で君と同じように飄然とここへやってきたが、そのとき三谷氏は現在君のいるところへ全く同じように腰をかけていたし、また同じく神戸の金光氏および有明の案内塚田君もやっぱり同じようにそこへ腰をかけていたのだ。だから君ももう長くはないというのである。さすがに冬期屏風岩を登る人だけあって実にはっきりとものをいうではないか。だがしかしそれほどしっかりした彼氏も単独行を知らないのである。そして彼氏は、俺は友達と二人で屏風岩を登った。ザイルは使わなかったけれど、二人のあいだには心と心の絆がいつも緊張していてなんらの不安もなかったのだ。俺は一人で屏風岩を登ろうとは思わないし、一人で山を歩こうとも思わないといった。彼氏ほどの技倆と熱情を持った山岳家でさえ単独行をしないというではないか。だから危険だとか、危険でないとか、技倆等をもって単独行を云々することはできない。単独行をしたい人こそ単独行をするべきであり、またそういう人こそ単独行をなしうる第一の資格があるのである。
単独行者としても、ときには案内をつれたパーティと一緒に山小屋へ泊ることがある。彼は単独行者である以上初めから案内に好かれるはずがない。それに彼は山男の常として無口で人の機嫌などとることを知らない。ただ彼の臆病な心はひたすら案内人の気にさわることを恐れているのである。かかる場合、ちょっと天候が悪いくらいでも、案内人が今日はとても出かけられませんよといって動かずにおれば、いくら彼が天候に自信をもっていても案内人を裏切って出かけることはできないであろう。かくて二、三日も、一緒に小屋におれば「近江積雪期登山の隆盛となるに従い、なかにはこの時期の登山について経験を有せざるものが山麓の部落あるいは山小屋にいたり、優れたる案内人や好指導者を有する登山隊の足跡を追うて高峻岳に登攀せんとするものがあると伝えられる。もし真なりとせば、かくの如きことは絶対に避けなければならない。危険の責任を他に転嫁するものなりと評されても仕方がない」などといわれるのではなかろうか。また案内をつれないと山小屋に鍵が掛っていて入れない地方があるが、そんな所ではガイドレスはもちろん単独行者などは極度に嫌われているわけだから、もしも天候の少々悪い冬など山へ登ろうものなら「冬の山に単独で入るということは、天候の激変等の場合、自然、里の人々は特別に心配をすることになるであろうし、ときにはその人々は少なからぬ犠牲を払って登山者の足跡を追い辿らなければならないのである。かかる心配が幸いにして不必要に終ったとしても、かかる心配をかけたことに対しては登山者は責任を負わなければならない」などといって親切を売物に出し、酒代をゆすろうとするのではないか。
我々はせまい道を通るとき、こっちが大手を振って進めば向うからくる人はそれをよけるが、こっちが小さくなって進めば向うは大手を振ってやってくることを知っている。
また雪の一本道など歩いているとしばしばあることだが、向うからくる人よりこっちが多人数なら決して道をよけようとはしないだろう。外国にはパーティの一員がスリップした場合に、これを他の隊員が支持しえないような物凄い岩場から生れたアラインゲンガーがあるそうだが、かくの如き優秀なアラインゲンガーをつかまえてアラインゲーエンの危険をとく人もあるそうだ。だから単独行者よ、見解の相違せる人のいうことを気にかけるな。もしそれらが気にかかるなら単独行をやめよ。何故なら君はすでに単独行を横目で見るようになっているから。悪いと思いながら実行しているとすれば犯罪であり、良心の呵責を受けるだろうし、山も単独行も酒や煙草になっているから。良いと思ってやってこそ危険もなく、心配もなくますます進歩があるのだ。弱い者は虐待され、ほろぼされて行くであろう。強い者はますます強くなり、ますます栄えるであろう。
単独行者よ強くなれ!
[#地から1字上げ](一九三四・一二)
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穂高にて
A 北穂高南本尾根(昭和八・三・一五)
ここは北穂高と涸沢岳の鞍部に近い北穂高よりの尾根の上で、一間ほどの壁が飛騨側からの風を防いでいるが、信州側は涸沢谷へ向って相当急傾斜に落ちているので、露営地としてはあまりよくないが仕方ない。
それは今朝槍の肩を出て日のあるうちに穂高の小屋まで行く予定であったが、早朝すでに天候悪化の兆が見えていたので出足が鈍ったのと、大キレットの下りを間違えて飛騨側の急な谷へ迷いこんだり、北穂の頂きに近い堅い雪と岩と斜面では安全第一とルックザックを下してこれとアンザイレンしたため、ルックザックが途中の岩に
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