全部これを伝っていたらよほど楽であったに違いないと思った。もちろんスキーで登るなら夏道の谷が第一だと思う。この尾根も最後は少し傾斜が急で岩も出ていたが、危険を感じるようなところではなかった。そして観測所の少し東の台地へ登ることができた。観測所には電灯が煌々と輝いていて、まるでよく開けたスキー温泉場のような感じがした。非常に疲れていたので早速観測所に入って、食糧も寝具も持っていますが泊めてもらえませんかと技師の人に頼んでみたが、気象台長の許可がないと泊められないとのことだった。それでも死にそうなほど苦しんでいる場合にはやむを得ず泊めるともいわれた。これはいつもの如く、僕の気がきかないために起った失敗らしく、太郎坊あたりで電話でも掛けてよく頼んでおけばこんなことにはならなかったに違いない。あるいはまた一緒に途中まで登った観測所の人にだけでも話しておいたらよかったであろうが、どうやら案内もつれず一人で登ったということが皆の気に入らなかったらしく、やがてそれが頂上の人々へ電話で報告されたものであろう。しかしそれとても僕がもっともっと努力して一生懸命に頼んでいたら、決して泊めないとはいわなかったであろう。何事によらず最後の五分間だけでも必死になって努力したならば必ずや光明を見出しうるに違いない。
やむなく観測所の番人梶さんの世話で富士館というのに泊ることにきめ、しばらく休ませてもらったうえ、懐中電灯までお借りして出かけた。富士館は一月《ひとつき》ほど前、鈴木伝明一行が使用したためか壁板がめくってあったので楽に入ることができた。館内には寝具等なんにも無いが、雪があまり入っていないのが何よりだった。大変疲れていたためか食事をしてもすぐもどしてしまった。室内温度は零下十二度くらいだったのに非常に寒く感じた。
やがて昭和八年の元旦がやってきた。初日の出を慕って午前六時剣ヶ峰へ向う。外は強い西風が吹きまくっている。間もなく剣ヶ峰へ立つことができたが南の山すら雲に被われていて、楽しみにしていた北の山は少しも見ることができなかった。しかし東の空はよく晴れていて――午前六時四十分――雲の上から出る初日の出は実に荘厳の極であった。
お鉢廻りをして観測所へよると、技師の方々が「昨日はどうも失礼をした」といって、お正月の御馳走を次から次へと出すので少なからず僕は驚いた。大変御馳走になったうえ、茶瓶からコップへなみなみとつがれたお酒をお茶だと思ってぐっと飲んで、しまったと思ったが仕方がない。そのままお礼をいってお別れをし、ほんとに明るい気持で富士を下りて行った。
[#地から1字上げ](一九三三・一一)
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山に迷う
今年の二月、ずっと以前からあこがれていた近江の金糞ヶ岳へ登ろうと思って、伊吹山の西麓をまき伊吹や東草野の村を伝って歩きました。今年は近年にない大雪が降ったので附近には雪が三、四尺も積ってます。そんなにたくさんの雪が積っているのに、村を出るとその深い雪を掘り上げて綺麗に道があけてある。不思議におもってそれをよく注意していると、その道が小学校のあるところまで蜒々と数里もつづいていることがわかりました。子を思う親心はどこでも同じことなのでしょうが、かほどまでに強いものかと私はしみじみ身にしむのを感じました。その晩夜通し歩いてやっと朝がたに甲津原に着きましたが、不運にも天候は崩れて山は濃い霧がかかってしまいました。
甲津原には三つの大きな谷が落合っております。地図によると東側の谷は美濃の貝月山へ登る谷で、金糞ヶ岳へは真ん中の谷を上って、三角点一〇七四の北側を越し向う側の広瀬浅又の谷から登るのが一番よいように思われます。しかし実際はこの谷は西側の谷よりずっと悪く、かつ一〇七四メートルの北側は尾根も谷も地図以上に痩せている上、傾斜も急でスキー・ルートとしてはよくありませんでした。
その日一〇七四メートルには登りましたが、濃霧のため迷って、金糞へは行けませんでした。で、つぎの日曜にはぜひ登ろうと決心し、スキーはそのまま甲津原に置いて帰ってきました。そして日曜のくるのを待っておったのです。ところが土曜日になって、故郷の父が最近急に悪くなったそうだからすぐ見舞いに帰ってみないかといって姉がわざわざやってきた。そして「山」に迷っている私をさんざん責め立てたのです。けれどその頃の私はそれくらいの忠告で気のつくような浅い迷い方ではなかったので、その晩はまた子を思う親心に泣きながら甲津原への道を辷っていました。翌日はすばらしいよいお天気で、甲津原から西側の谷を上り切り、尾根伝いに金糞ヶ岳へ登頂することができました。頂上からは三角点一二七一や一〇五七を縦走して道の記入してある尾根を下り高山へ出ました。
つぎの日、私は会社へ「父が大変悪いそうですから見舞いに帰ろうと思います。休暇を少しもらえませんか」といってお願いに出た。ところが「君の父は山の中で病気をしているのではないかね」と上の人が皮肉をいうのです。実際そういわれても仕方がない。どうもない親を病気だといってまで山へ行くほどの不孝者ではないにしても、山へ行くときにはあっさり休暇を使いながら、父の病気見舞いには休暇をもらうことを惜しんでいた私なんだから。しかしなんといわれても見舞いに帰らねばならない。一人しかいない親なんだし、末子でわがままな私のことを一番心配している父なんだもの。
わが家へ帰ってみると、一時大変悪かった父もだいぶ恢復していたので大いに安心した。父は生来無口で思っていることの半分もいえぬ性なのだが、私の顔を見るとすぐ、登山は危険だから止めてほしい。そして早く身をかためてくれといった。母がいたならおまえを今まで独りで置きはしなかったであろうに。自分はどれほどそれを心配していることか、自分の病気はだんだん重くなって行くばかりで、もう全快の見込みがない。そう長くは生きておられない自分だ、なんとか安心させてくれないものか、そればかりが心残りなのだがといわれる。私はそれになんと答えたらよかったでしょう。けれど私には嘘をいうだけの勇気がありませんでした。私は「お父さん心配して下さるな。私には命懸けで愛している恋人があるのです。あなたはそれをよく御存知でしょう」と言ってしまった。ところが父は「ああおまえは何を言っているのか。父が死ぬという間際になってこれほどまでに頼むのにまだ迷いの夢が覚めないとは、おお可哀想に、お前はほんとに恐ろしい者につかれてしまったなあ」と心から嘆くのでした。ああほんとに恐ろしい力だ。忘れようとすればするほど、心の奥へくい込んでくる。どんなに我慢しようとしても駄目だ。ああどうしたらよいのか。ねえお父さんほんの二、三日ですよ、ちょっと行ってきますと言ってしまうのでした。
鳥取の奥、若桜から西へ三倉という村のある谷に入り、三角点九七三へ登る。この谷は六〇〇メートルくらいから右手の尾根へ取りつく方がよい、尾根伝いに三角点一二八七へ登り、ここより南へ三角点一一二七附近まで往復したが、一一二七メートル附近は地図とだいぶ違っている。それから東山の頂上を極め、登り尾根を下って吉川へ出たが実に愉快なコースだった。翌日若杉峠へ向って行ったが、雪が降っていたため右から入ってくる大きな谷へ迷い、三角点一一五九へ登ってしまった。しかしそのまま大川の谷を横断して沖ノ山の頂上へ登った。頂上より一つ西の峰には展望台があって麓からの里程などが書いてあった。雪が止んで附近の地形がよくわかるので氷昌山へはすぐ下れた。氷昌山には家がたった三軒しかなく、下の村から今日やっと上ってきたところらしく屋根の雪下しを夢中でしていた。氷昌山からはミソギ峠の南側へ登り真白い高原を南へ辿って大海――道仙寺と歩いた。道仙寺の頂上では夜になっていたので瀬戸内海沿岸の燈台の火の明滅しているのが見え、さながら夢の国をさ迷っているような気がした。頂上からは真北に出た尾根を下り、一二〇〇メートルくらいから右の谷へ入ったが、この谷はあまりよくなかった。広い林道に出てからも滝があり、その真上で転倒して肝を冷したりした。西河内は七年以前同じ山から下ってきて泊ったことのある思い出の深い村である。翌日河内を経てショー台に登る。ショー台の南面はスキー場になっていた。頂上からは西の尾根を下り、大通峠を経て三角点一二四四へ登った。ここからは北へ向った尾根を辿り、天狗岩の頂上を極め、なお北へ進んで一一八〇メートル附近から初めて西へ下った尾根へ入ったが、物凄い藪なので右の谷へ逃げた。しかしこの谷もあまりよくなかった。九五〇メートルくらいまで下ってから左へ巻いて元の尾根へ出てみるともう真白な斜面だった。ここは吉川のスキー場なのだろう。シュプールがたくさん残っている。吉川へ下って若桜まで歩いたが、終列車の出た後なのでそのまま春米へ行った。翌日ワサビ谷を登ってみたが、長くて閉口した。二ノ丸から氷ノ山の頂上へのつづきは妙に痩せていて、吹雪だったのでちょっとわからなかった。頂上を越してコシキ岩まで下ったが、二ノ丸、三ノ丸、とつづいた西尾根を下ってみたくなったので引返した。しかし二ノ丸を越して一三四〇メートルにきたとき本尾根が急に下っているのでつい左のゆるい尾根を伝い落折へ下ってしまった。これから若桜へ下ってもまた終列車に間にあいそうにないのであきらめて泊った。翌日戸倉峠から赤谷山へ登った。
父は二、三日といって出かけた私が四、五日もたつのに帰ってこないし、だいぶ吹雪いたので、あるいは遭難したのではないかとの疑念を起し、私の兄と友人に捜索を頼んだ。二人は若桜に行き、駅長に話し、役場などを尋ねたり、若桜スキー場へも行ってみた。
そんなこととは少しも知らず、私は山との別離を惜しみながら、ぶらぶらと下ってきて初めて駅の助役さんからそれを聞き、ほんとに驚いてしまった。いくら山に迷えるとはいえ、病気の父にこれほどまでも心配をかけるとは、なんという不孝者であろう。こんな者こそいい加減に山の中で死んでしまえばよいのに。
けれど父は無事に帰ってきた私の顔を見ては嬉しさの余りものもいえないほどだった。そしてこんなに病気で困っているのだから、たびたび帰ってきてくれと繰返し繰返し言っていた。
その後私は氷ノ山から扇ノ山を越して見舞いに帰ろうと思って何度も八鹿へ下車したけれど他に氷ノ山の方へ行く人がなく、一人では自動車が大変なので止めたり、氷ノ山へ登っても雪の状態が悪くて一日では扇ノ山まで行けそうにないので引返したりした。三月の終りになってやっと一度機会を掴み、氷ノ山―陣鉢山―三ツヶ谷―仏ノ尾―扇ノ山と縦走して海上に下ったが、意外に時間がかかって故郷の浜坂へついたのは夜中であった。それでも折角見舞いに帰ったのだから朝までは父のそばにいた。父はこれから帰っても大して仕事はできないのだから休んで一日おってくれというのでしたが、気の小さい私にはどうしても会社を休むことができませんでした。
その後父の病気はだんだん重くなって行くのになお山の恐ろしい力が私を誘惑する。それは前穂の北尾根と槍の北鎌尾根なので、一人では少々不安だ。そうかといって山にはなんらの興味ももっていない案内を連れて行くことは、遭難した場合のことを考えると気の弱い私にはちょっとできない。そう考えているときちらっと吉田君の顔が頭に浮んだ。吉田君は恐ろしく山に熱情をもっていて、山での死を少しも恐れてはいない。そのうえ岩登りが実にうまい。だから私は間もなく吉田君を誘惑してしまった。
今冬は非常にお天気が悪かったためか、前穂北尾根には凍った箇所はなかったが、岩登りの下手な私がブレーキになったので、第三峰の左のチムニーで露営しなければならなかった。その晩はだいぶ吹雪かれたので、二人とも少なからず消耗した。吉田君は岩場で奮闘したため、手には凍った毛糸の手袋が一組残っているだけだった。翌日物凄い吹雪の中を前穂へ辿っているうち、とうとう吉田君は手の指を凍傷にしてしまった。奥穂の小屋へ帰ったとき、私は疲れはてて食物も吐出
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