なかった。それで僕はまださっきの雪の孔の中で眠っているか、もしくはその前に雪庇から落ちたようだが、あのまま倒れていて、今夢を見ているのではなかろうかとこう思って、声を限りにどなってみた。しかしその声はかすかに聞えるだけで、その夢を破ることはできなかった。
 やがて二十二日の朝がやってきた。その頃はもう雪は止んでいたが、濃霧は相変らず風にあおられていた。そして三ッヶ谷の頂上に近くなった頃は僕も極度に疲労してきて、後二〇メートルほどがどうしても登れない。僕はいくら夢を見ていても、登れるという自信があったら必ず頂上に登った夢になるだろうと、こう思って努力してみたが駄目である。ついに頂上へ登ることを諦めてしまい、横を巻いて北へ進んで行き、ようやく一つ北の尾根へたどりついた。けれどもこれを頂上へ登ることも大変だし、これから先にも相当に登りがあることだから、もう国境尾根縦走を止めて小代村へ下ってしまおうと、こう思ってついに決心をひるがえしてしまった。
 やがて滑降が始まった。しかしスキーは下手だし、半分眠っているような状態でどうして満足な滑降ができよう。ちょっと辷ってすぐ自分から身体を投げ出すようだった。あまり苦しいので、歩いて下った方が楽に違いないと思って、スキーをぬぎ、それを一つずつ谷へ向って辷りおろした。両方ともあまり遠くないところで止った。それから歩いて下るつもりだったのに、スキーをぬぐと何だか急に休みたくなり、ルックザックをおろして、それに腰をかけてしまった。
 その頃はもう風も凪《な》いでただ霧がかかっているだけだった。そうしているうちに疲れが出てきて、立ち上ることを全く忘れてしまった。そして僕は、もう駄目だ、ついに自分にも終りがきたのだとこう思い出した。そして死ぬということが非常に恐ろしくなり、悲しみの声をあげて泣いた。やがて、このスキー行がすんだら会えるだろうと思っていた故郷の父や、親しい友達のことがぼんやり頭に浮んできた。また会社の方が欠勤になることを昨日から悩んでいて、上の人にどう弁明しようかとか、山から下りたらすぐ電報を打って届を出してもらおう等と考えていたが、死んでしまえばその心配もいらなくなったと、ある気安さを感じた。その他金銭貸借上のこと等が次から次へと浮んできた。しかし僕は死んだのち多くの人に、僕が無謀な山行をしていた当然のむくいを受けたのだと、種々欠点をあげて非難されだろうことも毫《ごう》も残念だとは思わなかったし、僕の死体を探すために出される捜索隊のことや、その他いろいろとみんなの厄介をかけること等はまるで頭の中に浮んでこなかった。それは僕の性質に欠陥があるためだろう。そのうちに頭も疲れてきてついに何も考えられぬようになってきた。そして間もなく眠るが如く、ぐったりと倒れてしまった。
 それから四、五時間もたった頃、僕は突然われにかえった。気がついてみると、やっぱり僕は三ッヶ谷の直下で倒れていたのだった。空はもうからりと晴れ上ってすばらしいお天気になり、暖かい太陽が斜め上に赫々と輝いていた。そのときの僕は嬉しさのあまりこおどりした。唄を歌った、力一杯どなってもみた。そして更正の喜びにひたったのだった。もちろんあたりの懐しい山も谷もすべて、僕の蘇ったのを見て、一層晴やかな顔を見せてくれた。だからもう僕は迷い廻ることはなく、スキーを履くと一直線に昨日のコルへ下って行った。
 そしてコルに着いたときは、こんなところで迷っていたとは思えないのだった。例の昨日の田圃だと思った木の無い谷では、すでに山猟師がやってきて兎狩をしているのだった。エホーと声をかけてみたが、彼等は狩に夢中になっているらしく返事はなかった。それからしばらく国境尾根をたどり、長いゆるい斜面をまっすぐに北へ向って辷って行った。その後二つの浅い谷を越すのに、空腹のため相当時間がかかったが、なんなく菅原の村までスキーを履いて降ることができた。もちろん村の近く急斜面では転んでばかりいたが、嬉しくてスキーをぬぐことができなかった。そして先年泊ったことのある家に行き、おかゆを御馳走になってほっとしたのは午後六時だった。すぐスキーをまとめてここを出発し、雪深い道に悩みながら、それでも元気で下って行った。ちょうどこの日は月蝕の晩だった。菅原から六キロほど下った田中という村の辺では雪の無い道となった。湯村まで歩いて、ここから浜坂駅まで自動車を飛ばし、時間がなかったので家にも寄らず、二十三日午前一時四分発の汽車に乗ってしまった。だからその日は会社で働くことができた。もちろん社ではたびたび居眠りをしたが、もう凍死の心配はなかった。
 さてこの遭難の最大の原因は何であろうか。もちろん僕の悪い性質(天候が悪いのにもかかわらず、無理に決行しようとする)のためであったろうが、それにしても準備不足ということが第一であったに違いない。その中でもシールの張りつけが不完全であったこと。すなわちワックスの適当なものを持たなかったのが一番悪く、食糧の不足がその次である。防寒具の不足は最も恐ろしいことだが、雪の中で安全に眠れるほどに持つことは、スキーの下手な僕には無理なことだ。またスキー杖の半分折れたのを持って行ったことも悪かった。防水布の手袋は信州の山ではよいと思ったが、このときは降雪や転倒のため濡れて、殆んど防寒具にならなかった。その他取付けシールや吹雪用の頭布等を持たなかったのも欠点である。それから未知の山であったということはどうか――これは大して影響しなかったと思う。何故ならあんな天候の日には少々知っていても、未知のところと同じように迷うだろうから。
 その他気づいたことは――吹雪の日にはコッヘルを使用することによって安全な食事をすることができる。冷い食糧は駄目だ。雪上で眠ることは危険だが、温かい物を食った後なら(極度に疲労していないなら)凍死するほど眠り込まないで、ある時期になれば気がつくだろう。二人以上いるなら交代に眠り、必ず一人はコッヘルで熱い飲物をこしらえながら起きていること。ひどい吹雪でなければ、眠るより歩いた方がよい(非常にゆっくりと、あるいは居眠りをしながら)。腰をおろして休むときには眠り込まぬようにコッヘル等を利用すること。以上のように終始コッヘルを利用することが一番よいと思う。もちろん疲労や睡眠不足を完全に補う薬があれば一番よいのだが、残念なことに僕はそれを知らない。
[#地から1字上げ](一九三三・一)
[#改ページ]

冬富士単独行

 細野へ行く山友達とともに、いつもの急行で神戸を出発した。この汽車は御殿場へ行く僕にはあまり有難くなかったが、友達の友情に引きずられたのだった。だいたい僕は岩登りも、スキーも下手なのでパーティの一員としては喜ばれず、やむなく一人で山へ行くのであって、別にむずかしいイデオロギーに立脚した単独登攀を好んでいるわけではない。だから汽車の中など、少々足手まといになっても、お互いの生命まで関係しないときは山友達もともにいることを許してくれる。
 名古屋では乗換に間があったので、荷物をプラットホームにおいたまま駅前の通りをぶらりと歩いてやがて時間がきたので構内へ入ってみると、さっきおいた荷物が見えない。大あわてにあわてて駅員から駅員と走り廻り、やっとそれが案内所の方へ忘れ物として廻してあることがわかったが、それを受取りに行って汽車に乗込むまでの忙しさといったら一通りや二通りではなかった。
 さて汽車に乗込んでみると相当満員のうえ皆よく寝ている。とても僕にはそれを起す勇気は出ない。僕は闘志を強くするために山へ行くのだと思っていたが、どうしたわけか山へ深入りするほど闘志が弱くなっていくような気がする。人と人との闘いに負けて山へ逃げて行くのが現在の僕なのだろうか。
 静岡のあたりだったか勇敢な人がたった一人できて大声で「満員になりましたから皆起きて下さい」とどなったので寝ていた人は皆驚いて起き上った。そのとき彼の人は悠々と歩いて行って、一番気持のよさそうな席へすわり込み、すぐ居眠りを始め出した。僕は思った――こういう人こそ今の世の中では一番成功するひとなんだ――他人のいうことを気にしていたり、どうしたら他人の邪魔にならないだろうか、こうしていたら他人に心配を掛けずにすむだろう等と小さいことまで考えている者はやがて自滅の運命をたどるであろう。
 三島の附近から夜あけの富士が見え出したので車中はひとしお賑かになった。僕の前にすわっている人が僕にどこへ行くのかと聞くので、富士山へ登る予定だといったら少なからず驚いて、君はどう欲目に見ても、富士山へなど登れそうにないという。もっともだ。この寒い冬の最中に上着も無く、カッター・シャツを着ただけであり、足には地下足袋を履いている僕を見ては誰だってそう思うだろう。それにこの人は汽車へ乗込んできたとき小声で「皆寝ていやがってすわるところもないや」とつぶやきながら立っていたほどだから、恐らく情の強い人なのだろう。僕のことを心から心配しているようだった。こういう人は将来損だと僕は思う。なぜならこの人は情が強いために他人が危地へ陥るのを助けようとして自分の力の全部をなげ出し、やがて自分が危地に落ちて行くに違いない。少なくとも他人の苦しむのを気にしているあいだは、今の世の中ではとても成功はできまい。
 御殿場の駅で見た富士山は僕の頭を圧して被いかぶさるようにつったった実に物凄い雪の壁だった。あの雪の壁が一度にどっと崩れてきたらどうしよう。どこにもかじりつけそうな岩尾根はないではないか。あんな凄い壁をどうして人は登るんだろう。せめて氷でもならアイス・ハーケンにものをいわせようが、あのような雪の壁など、どうして僕に登ることができよう。「やめようか」そう思ったけれど、せっかくここまでやってきたんだ。闘わずして退くなどはあまり残念だ。――そうだ。闘ってみよう。――全力をつくして闘った後なら頂上へ登れなくとも思い残すことはない。全力をつくして闘うところに価値があるのであって、頂上へ立つことのできるのはその副産物に過ぎないんだ。
 御殿場は太郎坊附近がスキー場になっているので、名古屋鉄道局管内ならスキー割引の切符が発売されているし、乗合自動車が馬返しまで行ってくれる。
 太郎坊はスキー客で相当賑かだった。午前九時早めの昼食をして、この日早朝出発した観測所の人々の後を追った。この附近で見た富士山は広々とした真白な斜面がどこまでもつづいていて、御殿場で感じた凄みはなく、平凡な山としか見えない。大急ぎに急いでやっと三合目の附近で皆に追いつき簡単に挨拶をした。そのとき、案内人らしい人が僕に「一人で――案内もつれないとは無謀ではありませんか」という。もっともだ。一年に数十万人も登る富士山にたった一度夏にきただけで、すぐ冬季にこころみるなど無謀に違いない。けれど闘志を強くするためか、あるいは逃避のための山行なら案内がいろうはずがない。そのうえ案内人もろとも遭難する場合を考えると、気の弱い僕にはとてもやとう気がしないんだ。
 それから皆と一緒に、宝永山の北側の浅い谷を登って行った。雪は風に少し作用を受けた粉雪で、ラッセルも無く非常に楽だった。皆は五合目の観測所の小屋に泊るので、僕はそこをスキー・デポとしてアイゼンを履き、中食ののち、宝永山の尾根へトラヴァースした。この附近はまだ雪がやわらかくだいぶもぐるところがあった。しかし尾根へ出てからはアイゼンで気持のよい堅雪だった。七合目附近から暗くなりだしので、安全第一と、この尾根を離れて左へちょっと巻き、宝永山の火口の真上の夏道のついている谷へ入った。この谷は風が当らないためか雪が非常にやわらかく、ひどくもぐってとても困った。そのうえ空腹を感じても食事をする余裕が出ないので、あえぎあえぎ登ったため非常に時間がかかった。あまり苦しいので右へ巻いて元の尾根の上へ出た。この尾根は雪が理想的に締っていてとても楽だった。帰りにもこれを下ってみたが、悪場など一カ所もなく平凡な尾根で、夏道の谷へ入らず
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