かない。電池も新しいのと換えてみたりしていろいろ苦心をし、だいぶ考えた結果他の所に故障ができたのだと思って諦めてしまった。後で新しい電球も切れていることがわかったが、そのときはマッチの火で調べてみて、二つとも切れているようには見えなかった。それでもう一つほんとに新しいのがあったのにつけてみなかったのは残念だった。それからは雪あかりをたよりにしてゆっくり歩いた。幸いお天気がよいので遠山もぼっと見えて迷うこともなく無事に二五八八・四メートル峰の南のコルまで歩けた。ここでまたレモン・ティをこさえながら早く夜があければよいと思ってゆっくり休んだ。その頃は夜中より温度が上ったので変だと思っていたら、夜があけてみると空はいつの間にか曇っている。そのうえ東の空は朝焼けをしているし、殊に西の方、白山の上空は一面に薄黒い雲に覆われているので、天候が崩れ出していることがわかった。やがてあたりの空気も湿っぽくなってきて、前唐沢岳を越した頃にはばらばらっと霙《みぞれ》が落ちてきた。そして霙は間もなく雪に変って、あたりの山さえぼっと霞んでしまった。大急ぎで進んで行ったが、睡眠不足と過労のため思うように歩けなかった。それに雪が降り出してからは少々空腹を感じても、食事をしなかったので一層元気が出なかった。こうしたときこそコッヘルを使ってうんとカロリーを取っておかねばならぬのだが、なかなかこのちょっとした余裕を作る気にはなれないものだ。幸い吹雪はあまりひどくなかったし、スキー等邪魔になるものはもちろん、ルックザックの内容は一貫目もなかったから無事に槍肩へたどりつくことができた。槍肩への斜面は足元の雪が板状になって崩れ落ちるので非常に不愉快だった。小屋に着いた頃は吹雪もひどくなったので、早過ぎると思ったが泊ることにした。小屋はとても完全で、雪等少しも入っていないし、東側の窓のところにスコップが置いてあるので、そこを掘れば楽に入ることができる。こんなよい小屋はあまり他にはないと思った。[#地から1字上げ](一九三二・一二)
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初めて錯覚を経験したときのこと

 それは昭和七年三月二十、二十一日の連休を利用して、但馬と因幡の国境につらなる氷《ひょう》ノ山―扇ノ山の尾根を縦走中、吹雪のためにあやうく凍死せんとしたときのことであった。
 氷ノ山の麓で、大久保村へ泊る山友達B・K・Vの人々と別れたのは十九日午後十一時半過ぎだった。その頃はもう雪がちらつき出していて、氷ノ山越えの道は一層淋しかった。急な登りになる手前の杉林の中で、風と雪をさけながらスキーに張りシールを張る。張りシールを張るのは初めてなので相当苦心をした。川を渡って夏道通りに登り、八四〇メートルくらいの杉林の中にある地蔵堂に着いたのは、翌午前三時頃だった。だいたい今日の予定は、この堂でしばらく休み、すぐ出発して氷ノ山へ登り、引返して国境の尾根を北へ縦走し、一日で扇ノ山の手前にある三ッヶ谷一二三九・三メートルを越し、その山麓の菅原村に泊ることにしていた。しかしこの堂に着いた頃は降雪が激しく、天候も恢復の見込みがないので、すぐ出発することを見合せた。やがて夜も明けた七時頃、住友の人々が吹雪をついて登ってきたので、力を得てその後に従い、なんなく吹雪に狂う氷ノ山の頂上に立つことができた。それはすでに十一時頃で気温も零下七度まで下っていた。住友組はもう少し南のところから春米村に下るというので、別れて氷ノ山越えの峠に引返す。その途中でB・K・Vの人々に会い、お互いに天候の悪いのをグチる。峠に着く頃からシールがまくれ出したので、B・K・V組の下ってくるのを待ち、糸を貰ってシールを縛りつけた。
 赤倉の頭で鉢伏へ行くという一行と別れて国境の尾根を下る。ここの上部は少々悪場だったからスキーをぬいだ。しかし下の方は好斜面つづきで、殊に小代村から春米村へ越す桑ヶ峠の附近は広々とした真白い雪原で、すばらしいところだった。この峠の北にある峰一〇五九・五メートルを登っているとき、春米側の谷に住友組の下って行くのが見えた。エーホーと声をかけてみたが遠いのでおそらく聞えなかっただろう。この峰からはまたブナの大木に覆われた傾斜のゆるい随分広い尾根つづきで眺望がきかぬため、深い山の中を歩いているという感じがする。しかし国境尾根から離れて西側へ飛び出している陣鉢山一二一三メートルへの尾根は痩せていて、杉の木が生えているところもあり、そのうえ北側は割合眺望がきくので人臭い感じがする。陣鉢山の頂きに立ったのは午後六時頃であった。頂上では木が繁っていてよく見えなかったが、諸鹿村へ下る尾根はなかなかきつそうだ。また国境尾根に引返し、コッヘルを使用して夕食をする。吹雪のときは暖い物でないと駄目のようだ。
 そこから一時間ほど進んだ頃ちょっと登って後、急な降りになっている。ここで左の大きな尾根に迷い込んだが、右側の尾根が本尾根であった。本尾根はちょっと痩せていたのでスキーをぬいだ。その頃から張りシートがまたまくれてきて登行が困難になった。取付シールを持たなかったことを後悔する。そのうえシールが不完全なため杖に無理がきて、半分折れていた片方の杖が完全に根本から折れて、リングがはずれてしまった。修繕するのはうるさいと思ったのでそのまま捨ててしまったが、リングの無い杖は殆んど役に立たない。この晩は霧が深くて方角もわからず、地図を見たり考えたりするのに時間を取られ、そのうえシールがまくれてゆるい登りでも後辷りするので、意外に道がはかどらなかった。
 二十一日の朝になったが、天候は少しもよくならない。ちょっと登りがあったので一〇五七メートルの峰だと思う。そこでまたコッヘルを使用して朝食をした。これで食糧は完全に無くなってしまった。しかし三ッヶ谷まではそう遠くはないし、あそこには何度も登ったことがあるので、どんなに霧が深くてもわけなく菅原村へ下れると思って安心していた。ところが事実はそうでなく晴天の日に登った経験はなんら用をなさなかった。朝食をしているとき、鉢伏山から氷ノ山につづく大平附近の尾根の下部が霧のまにまに隠見する。
 それがちょうど三ッヶ谷や扇ノ山附近に見えたので、つい小代谷へ下った尾根を国境尾根だと感違いしてだいぶ迷い廻った。もちろん最初にこの尾根は怪しいようだと思えば、磁石も出して見るし、よく考えても見るから間違いはないはずだが、たしかにあれは、国境尾根に違いないと思うとそれに気を取られて後戻りしていることさえ気がつかなかった。正午頃霧がはれてあたりの山もよく見えたし、鉢伏山へ登りつつある人々さえ見えたのでちょっと安心した。ここまでくると附近の森林は切り払われていて、小代谷側は真白い斜面が下までつづいている。
 かつて僕は雪の無いとき、この谷を登ってきて三ッヶ谷の頂上に立ったことがある。下の方にはちょっと田圃《たんぼ》があり、中腹の尨大な斜面には杉苗が疎《まば》らに植林されてあった。しかし頂上附近はやはりブナの大木とスズ竹の物凄い藪であったから三角標石を探すのに随分と苦心をした。そのとき氷ノ山や鉢伏山にも登って三角標石の横に一寸ぐらいの柱を記念にたてた。しかし氷ノ山にはその後測量台がたったので取りのけられたらしく、今は見あたらない。三ッヶ谷の手前の峰への登りは相当大きなものであった。傾斜のゆるいあいだは階段登りで進んだが、急なところはスキーをぬいで歩いた。空腹と睡眠不足がこたえてきたし、風陰で割合暖かだったので居眠りをしながら登った。
 しかし、この峰の頂きに登った頃はまた物凄く吹雪いてきた。そこからちょっと進んだところで不注意にも雪庇をふみはずして小代谷側へ落ち、ひどく身体を叩き付けられた。高さは四メートルくらいのもので、その下はあまり急でなかったからちょっと流れただけで止った。しかしこの急な雪庇を登るのはつらかった。三ッヶ谷の頂上は長くなっているので、南の方から登って行くとどこが最高点だかわからない。それでも午後六時頃には頂上に立っていた。そして間もなく何度も通ったことのある道を東へ下って行った。ところどころ記憶にあるところが出てくるのでもう大丈夫だと思っていた。ところがそのコルへ下り着いたときは、夜がやってきて地形がまるでわからなくなった。そして記憶に無い長いゆるい斜面が出てきたとき、どうも変だ、間違って小代村へ下りつつあるようだ、と思うようになった。それは周囲の山がすべて濃霧に鎖《とざ》されて方角がわからないのと、快晴の日の登山は、自分の歩いた道をあまり頭に入れていないためである。なお疑いながら進むうち、右手の谷の木の無い真白い雪原が出てきた。僕はそれを見てあれは確かに小代村附近の田圃に違いないとこう思ってしまった。恐ろしい感違いだ。実はこの木の無いところは木地屋《きじや》という椀や杓子《しゃくし》等のほり物をする人が、雪の無いときやってきて木を切ってしまったところである。随分と下ってきたようだが間違ったのだから引返さねばならない。だが今はあまりにひどい吹雪になっている。恐らく尾根の上は一層物凄いに違いない。それで一時ここで雪の止むのを待った方がよいに違いないと思って、風陰を探しながら歩いていると、また雪庇をふみはずし、こんどはまっさかさまに投げ出されてぞっとした。僅か二メートルぐらいのものであったがひどくこたえた。早速雪庇の下を掘って入る。
 僕はこんどのスキー行は三月も終りに近いことだから大して雪は降らないだろうし、現在積っている雪もこれまでの経験から、昼間だけはザラメ雪となるが朝夕はカリカリの雪で、靴のまま歩いても楽に違いないと信じていた。だから国境尾根の縦走だって一日あれば充分だと思って、食糧として弁当を一日分と少ししか持たなかった。もちろん一日や二日は絶食しても歩ける自信はあった。しかしこの湿気の多い風と雪は、信州の山では完全な防水布の手袋や防寒具をわけなくしめらせて、肌着まで濡れてきた。手もそろそろ感覚が無くなり出したし、吹きつける雪が顔の表面を雨のようになって流れて、熱をうばうし、肌着が濡れているためか、背筋の方にゾッと寒さを感ずるようになってきた。これにはさすがに参ってしまった。それでもアルコールが少し残っていたので、コッヘルで湯を沸かして呑んだ。そしてできるだけ元気を出して前と横に雪の囲いを造った。こうしているうちもときどき居眠りをしていた。やっと半メートルぐらいの相当完全な囲いができたので、あるだけのものをきてルックザックを下に敷き、その上に横になってみた。しかしほんのちょっと眠っただけで、ひどい寒さのため目がさめた。あまり寒いのでその雪の孔から飛び出し、サムイ、サムイと大声で悲鳴をあげながら体操をしばらくつづけた。しかしすぐ眠くてたまらなくなり、また雪の孔の中に戻って横になった。こんな天候の悪いときに、しかも雪の孔の中で、寒さを感じながら眠るというのは無謀なことだった。しかしこのときの僕はいくら眠るまいとしても、それにうちかつことはできなかった。この折の眠さは単なる疲労や睡眠不足ではなく、凍傷からきたものだと思われる。でもすぐまた寒さのために目がさめた。このとき初めて、このまま眠り込んで凍死するようなことになっては大変だと思った。そこで早速荷物をまとめ三ッヶ谷の頂上を目指して登って行った。しかし杖は一本しかきかぬし、スキーにはシールがついていないので、階段登りしかできず、行程はなかなかはかどらない。もちろん疲労もはなはだしく、歩きながら居眠りをしていることが多かった。この頃からそろそろ錯覚を起し出したらしく、雪の色が黄色く見えてきた。また木に積っている雪がちょうど紙切や、旗や、堤燈等に見え出した。そのとき僕はやっぱりこの辺にも木地屋が登ってきて、七夕祭のときに飾る竹のように木を飾っておいたのだろうと思った。そして近づいて行って杖でそれに触ってみて、初めて旗でも堤燈でもないのに気がつくのだった。また歩いていても下半身は全然自分の身体のような気がしなかったし、肩を杖で打ってみてもかすかにしか感じ
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