点のところまで行ったが、櫓《やぐら》の朽木が二、三本立っているだけで三角標石は見えなかった。この山へはから身で往復したが一番山らしい感じがした。赤岳の下りは濃霧でちょっとわからなかった。取付いてからも、ひどいというほどではないが荷物があり、バランスの悪い僕には一番手強いところだった。野口五郎岳の三角標石は完全に出ていた。五郎を過ぎてから尾根にくぼんだところがあったので、雪の孔を掘って二時間ほど避難した。三ツ岳へ近くなってから霧が晴れ上って月が出たが風は相変らず強いので弱った。三ツ岳の三角標石も完全に出ていた。ここから烏帽子への尾根は注意しないと間違う。僕は西側の尾根を下りてしまって困った。尾根がタンネの林になってからスキーを履き、ちょっとしたところを乗越すとすぐ目の前に土台まで露出した烏帽子の小屋が月に照らされていた。小屋の内には意外に雪も入っていなかった。この日は断然天候を見誤った。雪が朝方止んだので大丈夫だと思って出たが、どんより空が曇っていたのが悪かったらしい。小屋の附近は東沢側はもちろんのこと※[#「木+無」、第3水準1−86−12]立の方もスキーに理想的なところだった。※[#「木+無」、第3水準1−86−12]立尾根の下りは二〇〇〇メートル附近で右の谷へ入ったが、雪崩で随分荒れていて不愉快だった。下の方は小さい滝があったので右へ巻いたが、藪で意外に時間を食った。濁《にごり》の小屋には寝具がなかったので東信電力の金原様のところへ泊めてもらった。高瀬の谷には物凄い雪崩が出ているだろうと思っていたが、雪の少ないためか問題になるほどのものは見つからなかった。

    鹿島槍ガ岳

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昭和六年二月十一日 晴霧 鹿島村午前四・三〇 冷沢徒歩六・一〇 北俣と西俣の出合八・〇〇 スキー・デポ午後一・三〇 冷ノ池二・三〇 鹿島槍ヶ岳四・四〇零下一八度 冷ノ池六・〇〇 スキー・デポ八・三〇 北俣と西俣の出合九・三〇 冷沢徒歩一一・〇〇 鹿島村午前〇・〇〇
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 鹿島村から丸山までは毎日一回やってきたので、この日は四回目だった。丸山の下で冷沢《つべたざわ》の川を渡ってからは北俣と西俣の出合を左岸ばかりを行く。一ノ沢までに二カ所ほどスキーをぬぐところがあったが、だいぶおどかされた西俣等はとてもスキーに適したすばらしい谷だった。西俣へ押し出す雪崩は主に、下の方は南側の岩壁のある谷から、上の方では正面の岩壁からである。後者のものはほぼ谷全体にひろがるので油断がならぬと思う。大体冬期は降雪と降雨の日をさければめったにやられることはないと思うが、なるだけこの谷では北側の尾根に沿った方がよい。この谷の下の方は、北側に溝が一本通っているが、両側の尾根までは随分広く、すばらしい谷だ。僕は上部正面の岩壁の下で北側の尾根へ取付いたが、そのとき登った谷等はステム・ボーゲンに理想的なところだった。この尾根は岳樺の疎林でとても気持のいいものだった。二千二、三百メートルのところをスキー・デポとした。そこから本尾根までは、岩場はなし雪もやわらかく平凡な尾根伝いだった。本尾根の取付きにも問題になるような雪庇はなかった。冷ノ池《つべたいけ》附近には相当大きな雪庇が東側へ出ていたが、三月頃ほどのこともなさそうだし、つらくてもタンネの中を行けば心配はない。ここから鹿島槍の頂上までは長いことは長いが、風が強いだけで悪場はなし雪もかたく楽だった。頂上には東京商大の人々が立てた岳樺の小枝があって、それに一行の名前を書き入れた中山彦一様の名刺がバットの空箱に入れて挟んであった。僕は無断で失礼だと思ったが、ちょっと嬉しかったので名前をそれに小さく書かせてもらった。そんなわけで濃霧で何も見えなかったが、頂上には立ったに違いないと思っている。帰りは下りなので他の尾根等へ迷い込むようなことはないかと心配したが、迷い込めそうなところはなかった。冷ノ池あたりへ引返したときはもう暗かったので西俣へ下る例の尾根もよくわからず、少々迷った。スキー・デポから北俣と西俣の出合まで八〇〇メートルの下りは、谷全体がとてもすばらしい粉雪で、暗くなかったらいくら僕でも三十分とはかからなかっただろう。また一ノ沢あたりもなかなかいいところだった。
 鹿島村では狩野久太郎様のところへ泊った。とても親切な家だったし、山小屋と違うので二十時間の登行もこたえなかった。それはすぐ後の二月十三日に寝具さえない畠山の小屋から針ノ木岳と蓮華岳に往復したんだし、二月十五日には上等の山小屋だったが、猿倉から白馬岳へ登って神城《かみしろ》駅まで歩けたくらいなんだから。天候は一番悪いときだったが、まず二日に一日は山に登れると思った。しかし完全に晴れた日は、僕のいた二月八日から二月十五日までのあいだに十二日の一日だけであった。狩野様は鹿島岳の奥が晴れると快晴になると言ったし、大町あたりの笛や鐘の音が聞えると天候は崩れるとも言った。鹿島岳へ入った凄い連中の話を聞いただけでも来た甲斐があった。

    劒岳

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昭和六年二月二十七日 快晴 室堂午前七・〇〇 雷鳥沢八・〇〇 別山乗越一〇・〇〇 長次郎谷の下一〇・四〇 長次郎谷の上午後三・二〇 劒岳四・二七零下十三度 長次郎谷の上五・〇〇 長次郎谷の下六・一〇 別山乗越九・二〇 雷鳥沢一〇・〇〇 室堂一二・二〇
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 室堂から雷鳥沢までは去年と同様、室堂の東側を下って谷伝いに行った。雷鳥沢は右側の尾根を登ったが、途中までうまく谷へ入らぬと雪のかたいところがあって困る。別山乗越の小屋はすばらしそうだが、芦峅の人夫を連れないと入れぬらしい。劒沢は傾斜はゆるし、雪はよし、スキーの下手な僕にも愉快に滑れた。三田平《みただいら》にはまた小さい小屋が建ててある。その東側にちょっと離れて六字塚が雪に半分ほど埋れていた。それが去年の正月大変お世話になった方々のものだと思うと、何かしら胸に迫って、身体が引き締ってきた。しかもその辺にはまるで雪崩の跡もなくほんとに不思議でならなかった。長次郎谷は雪崩でだいぶ荒されているが、傾斜はスキーに理想的で、谷も思ったより広い。しかしこの谷は日当りがよいので快晴の日は油断がならぬ。この日は午前中に小さいのが数カ所、主に八峰側から出ていた。しかも雪が随分重く不愉快だった。長次郎のコルには雪庇はなかったが風のために少し雪の窪みができていた。コルから上はちょっとのあいだなかなか急な斜面だった。それでも雪がやわらかだったからピッケルの必要はなかった。劒岳の頂上には例の如く朽木の柱が立っていたが、二尺ほどしか出ていなかった。僕は手帳の紙に消炭で名前を書いてそれにはさんでおいた。長次郎谷の下りはクラストの雪で面白くなかった。それなのに劒沢は相変らず粉雪状態だった。思うに風当りのよい谷は一日くらいの快晴ではまだ大丈夫らしい。劒沢の登りは長かった。長次郎谷の下までくらいコッヘルを持ってきておけばよかったろうと思った。別山乗越まではスキーで登ったが、一歩雷鳥沢へ入ると風で雪がとてもかたくなっていてアイゼンなしでは歩けなかった。また下の方は一日の快晴で雪がばりばりのクラストになっていて、スキーの下手な僕は滑っているときより転んでいるときの方が長かった。谷を下り切ってからも室堂までは時間がかかった。それでも天候がよかったのでひどい目にも遭わず、実に幸運だった。劒岳へ登るのに長次郎谷を往復すれば最も簡単だ。しかし雪崩については充分注意をしなければならぬ。しかもこのルートによる登頂は価値が少なくない。我々はわざわざ劒岳までスキーに行くのではないから、やっぱり尾根を行きたい。二月の終りにもなると天候が真冬とは違ってくる。僕のいた二月二十二日から、三月三日までのあいだに九十時間もつづいて荒れたことがある。そのかわり完全に二日間快晴になったこともあった。温度はかつて知らないほど低いのを計った。雄山の頂上で午前十一時だったのに零下二十一度にも下った。真冬より三月頃の方が温度の上下が烈しいに違いない。しかし室堂は去年の正月とは比較にならぬほど暖かだった。これは積雪量と室堂の埋り方によるものだろう。
[#地から1字上げ](一九三一・五)
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槍から双六岳および笠ヶ岳往復

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昭和七年二月十日 晴 六・〇〇槍肩 一一・〇〇樅沢岳 〇・〇〇双六岳 一・〇〇樅沢岳 六・〇〇抜戸岳 八・〇〇笠ヶ岳−九・〇〇−一〇・〇〇笠ヶ岳−抜戸岳間のコル 二月十一日 曇−雪 〇・〇〇−一・〇〇抜戸岳北側のコル零下二〇度 三・三〇−四・〇〇二五八八・四メートル峯の南のコル零下一〇度 七・〇〇樅沢岳 二・二〇槍肩
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 槍肩の西斜面は風がよく当るので、快晴の日でもあまり温度は昇らないらしく、雪は単に風成板状になっているだけで、東斜面のように凍ってはいなかった。今冬は冬と思われないほどよいお天気がつづいたので、日当りのよい斜面の雪はたいてい氷になっていた。おかげで槍の穂先の登攀は愉快だった。しかし正月頃に登った人のカット・ステップの跡が残っているのには少々|興《きょう》をそがれた。西鎌尾根には別に悪場と思われるようなところはなかったが、でこぼこが多く、尾根もあまり広くはないから、スキーを履いて歩くのは相当に困難だろうと思った。前|樅沢岳《もみさわだけ》という山は、横を巻く夏道が出ていたので帰りに通ってみたが、巻かずに尾根通り乗越した方がずっと安全だと思った。樅沢岳の頂上で荷物を置いて双六岳へ往復したが、帰りの樅沢岳への登りは案外時間を食った。やはりここは夏のように横を巻いて、笠ヶ岳へつづく尾根へ出た方がよいだろう。双六の小屋は、今年は雪の少ないためか、あるいは風の吹き廻しによるものか、遠目ながら大部分露出して見えた。しかも近年相当に修繕を加えたらしく、新しい木の色がしていた。この附近はすばらしい斜面が多く、眺望も実によいところだから、スキーをしながら二、三日くらい遊んでみたいと思った。樅沢岳をくだってから抜戸岳《ぬけどだけ》へ取付くまでは、尾根が殊に広く、雪も思ったほどかたくないのでスキーを使えば面白そうである。途中二五八八・四メートル峰の南のコルから左俣谷へはすばらしい斜面がつづいていた。抜戸岳へ取付く雪の壁はちょっと凄く見えたが、かかってみれば案外簡単であった。そこは夏道のついているカール状の谷で、両側には岩の尾根が走っている。抜戸岳には左俣側へ向って、のぞくこともできないほど大きな雪庇がつづいている。しかし反対側の打込谷に向った斜面はゆるく、雪もかたいので案外楽であった。抜戸岳から笠ヶ岳までの尾根は平凡で、雪庇もあまり出ていなかった。この日は笠ヶ岳の小屋へ泊る予定だったので、四年前の夏の記憶をたどってあちこち探してみたが、どうもわからない。雪に埋れていたのかもしれないが、別石の囲いのしてある小屋跡らしいものもあったから、その後こわれてなくなったのだろうときめてしまった。笠ヶ岳の頂上には大きなケルンが三つほどあった。その一つの中に名前を書いた紙を記念に挾んでおいた。だいぶ引返して抜戸岳とのコルでコッヘルを使用して夕食をした。缶詰の牛肉と甘納豆で、殊に甘納豆はうまかった。そこからちょっと歩いたところでひょっと懐中電灯を取落したら、見る見る打込谷の方へ転び出して、大変な勢いで飛んで行ってしまった。やっと止ったことは止ったが、随分下の方なので、一時は捨てて行こうと思った。しかし真暗ではとても歩けないので、思い返して谷底の光をたよりに下って行った。幸い岩場もなく、斜面もあまり急ではなかったからよかったが、雪が柔くなってからもなおだいぶ転んでいて登りには相当時間を食った。抜戸岳を越して、例のカール状の谷を下りきってから、コッヘルを使ってレモン・ティをこしらえながらしばらく休んだ。そのとき懐中電灯が急にぱっと消えてしまった。電球の線が切れたようなので、新しいのと換えてみたがそれでもつ
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