字、36−1]など氣にしないで、本質的に燒物の良さ古さを見ぬくことである。これはむづかしいやうであるが、多くを見、多くを調べ、又前からいふやうに時代と器物の關係を見透すことが出來れば、さう/\間違ふものではない。――しかし、夫れがむづかしい、若し銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、36−5]に便るとするならば矢張「時代」といふことをあたまに置き「時代の文字」「時代の刻印」を腹に入れておけばよい。時代の文字は幾ら眞似をしてもうまくゆくものでない、人の神經に時代といふ血が流れてゐるのだから眞似は結局眞似で、字のどこかにウソがある、ウソといふのはウソ字ではない、調子のとれぬところ、ためらつたところ、筆や箆や釘の先で書いた字でも、どこか空虚なウソがある。※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、37−1]印とてもさうである。印の形ばかり氣にしないで、印を捺す呼吸、印を押す氣合ひといふものは、眞作家と、僞作家と、どことなく違つてゐるものである。いゝ器物は必らず字も印もいゝに定つてゐる。こゝのかんどころ[#「かんどころ」に傍点]を外さねば大丈夫である。
【作家をよく知れ】
 何だか茲まで説き來つて、如何にもゑらさうに鑑定の法を説いてゐる氣がして來た。私はそんなつもりでいつたのではない、私は個人作家の作品に就て話したいのであつた。個人作家の作品であることがはつきりしてゐると、又個人作家に對する一種の感情が手傳つて、やきものを鑑賞するに興味が加つてくる。個人作家の時代が分り作家の系統が分り、作家の逸話を知り、作家の得意な手法など知つてゐると、格別のおもしろ味が加はつてくるのである。それに個人作家の古い作品になると現在生きて我々の知つてゐる作家よりも、もう一つアクをぬいたやうな感じをもつて接することが出來る。斯ういへば現在の作家には怒られるかもしれないが、作家をよく知るといふことは、いゝ場合と惡い場合がある、これは燒物に限らず書畫でもさうである。會はない前は床の間に懸けて愛賞してゐた書畫が作家を知つて後急に厭になつてくる――といふ話はよく聞くことである。深い理解を以て、作家に接する人ならばいゝが、さうでない人の間に斯ういふ話はよく聞くのである。
 作家だつて人間である。殊に藝術家は、藝術に精進してゐるだけ常人とちがつた特異な性質をもつてゐる人が多い。感情もはげしいかもしれない、又偏狹であるとか、頑固だとか、約束を無視するとか、常人に批評を許せばいろ/\なことをいふ。だから知つて非常に惡くなる場合もあれば又知つてから非常に良くなる場合もある。こゝがむづかしいことで、作品以外に人間と人間との交渉が直接になつてくるだけすべて厄介である。作家と鑑賞しやうといふ人との間が、うまくゆけば双方の間が非常な熱情で結ばれていゝが、惡くなつた場合には反撥の度がひどい。それだけ器物以外に生きた人間に接するから、考へやうでは面白いが、場合に依つてはおもしろくない。
 そこにゆくと古い器物は安全である。作家といふものは過去の中にあるから、現實的に接するのは器物ばかりである。個人作家のことを知つてゐても「あの作者は頑固爺だつたさうだ」とか「まるで狂人あつかひされてゐたさうだ」とか總べて作家の性癖が「さうだ」の幕を越して見ることになり、却つておもしろ味さへ添へらるゝ場合がある。故に古い器物に對して鑑賞する態度が、新らしいものよりも冷靜である。冷靜に鑑賞して器物そのものを良しとし惡しとすることが出來る。この氣樂に冷靜に鑑賞し、懷中と相談して自由に撰擇し得ることも亦われらの樂しみである。
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   觸

【持ち方】
 やきものは目に見る――さうして手に觸れるといふことが大切である。茶道でも茶わんなどの持ち方をやかましくいふ、これは燒物を大切にすること、取落してはならないといふ扱ひ方の禮をいふのであらうが、眞の目的は或は觸覺をたのしむにあるかもしれない。觸れて作ゆきを細かく見る、隅から隅まで仔細に鑑賞する、さうして器物のもつ氣格を受けいれるといふことは、無論大切な條件である。すべての燒物は手に觸れた感じが大切であるといふことを逸してはならない。
「手を觸る可からず」などいふ制札が器物についてゐたとしたら、その器物の姿と裝飾とを見るに止まつて、底部の大切なところは見ることが出來ない。恰も博物館などの陳列を見ると同じで、長次郎の茶わん「玄翁」でも仁清の眞壺でも高臺の引しまり、力、土味、斯うした大切なところを見ることが出來ないのは實に一種の「殘念物」である。
【燒物の玩讀】
 貧乏徳利でも、番茶碗でも、手に觸れるといふことが鑑賞上の大切な條件である。重い、輕い、重量ばかりでなく、手で撫して以て無限の愛著を感じ、手で捧げて以て無上敬親の念を生ずる。これ燒物を玩讀するの必要條件である。「手を觸る可からず」ではない、「大いに手を觸る可し」であらねばならぬ。

   土味

 青磁でも宋代の青磁には胎土を見せたものが多い。また全然胎土を見せないものも多く燒かれてゐる。支那宋代に出來た陶は明時代の磁(染付赤繪)[#括弧内は「染付」と「赤繪」の二行になっている]を別にして、支那やきもの界の最も藝術的な又現代日本人の性質にぴつたりくるものゝ出來た時代である。作風颯爽としてゐる、さうして土味を實によく見せてくれてゐる。心憎いばかりうまい。
 朝鮮、日本、各種各樣の燒物も亦土味を多分にみせてゐる。朝鮮とても南方と北方と中央との土味がちがひ、日本でも無論國々によつて、窯々によつて土味がちがふ。この土味といふことは地方色を味ひわけるに一番動きのない標準である。
 土の味ひといふ――一寸むづかしい。が、先づ土を知るといふことが大切だ。その昔陶人は袋を肩にして國々山々丘々の土を漁り歩いたであらう、袋に拾ひ込んだ土を水に漬したり燒いてみたり、さま/\の苦心を重ねたであらう。陶人はそれ/″\一つの夢をもつてゐたにちがひない、その夢に近い燒物を造るに適した土を探し求めるといふことが一番大切であつたらう、さうして自分の狙つてゐる釉藥がぴつたり土と合つてくれるかどうか、陶人達は窯場をこしらへるために、土を求め、水の流れを探し、燃料の樹木を考へて、總べての條件がどうにか調子がとれるところに始めて行李を下す。それから窯が開けてゆく――が、しかし一概に之れだけで片付けられない。今日では交通の便が開けてゐるから自分の欲する土を欲する場所に運ばせることが出來るが、昔はそれが出來なかつたゝめ、多く土味に依つて概略の地方の分け方は出來ると考へられてゐた。又實際さうであつた。しかし大名といふ權力者がゐて、これが舟などを利用し自分の勢力圈内の土は移動させるのは無論、又他藩へ工人をしのばせたり、他藩の土をわけてもらつたりして、造つてゐるものがないでもなかつた。だから、一概に土が定まれば其土地の産としていゝといふ事を斷言して了ふわけにはゆかないが、まづ大あらまし土を知ることが出來、ついで釉藥がわかりまた手法の變り目がわかつてくると、一個の燒物の誕生がはつきりして面白くなつてくる。
【手法】
 土味といふ――土を知り土の味はひをしる。大切なことだ。
 今、手法といふことをいつたが、朝鮮の手法が日本に入れられたことは既にいつた。同じ高臺のつくり方でも朝鮮の高臺削りが九州の窯々にひどく影響してゐる、肥前の土燒類など最も顯著である、長州の萩にも丹波の古いところにも朝鮮の系統が流れてゐる。これは多くの器物について高臺をよく見てゆけば自づから會得することが出來る。瀬戸系統の古窯から出土する極めて古い時代の破片に、支那宋代の高臺をみるが如き感を與へらるゝものが多い如き。
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   歪

 不の字と正の字をくツつけて「ゆがむ」といふ字になる。
 やきものは正しい形を造つても乾かすうちに歪みがくる、素燒で又狂ひがくる、藥をかけて燒きあげると又多少の歪みが出る。大さに於てロクロで挽いた時より約二割方小さくなつてくる。若し共に燒く他の器のため押されたり、火の強弱變化のために、窯の中でも歪んだり、いびつ[#「いびつ」に傍点]になつたり、凹んだり、はぢけたりする。これを自然のゆがみといひたい。
 昔の人は、この自然のゆがみが一種の景色をつくり風情を添へることに興をもつて、さま/″\な銘をつけたり、因縁をつけたりしたものである。ところが、時代が惡くなり、趣味好尚が墮落するにつれて、是等の自然のゆがみを曲解して、器物のどこかに歪んだ景色がないと承知しなくなつた。さうして御苦勞にもロクロの時から故意に歪ませたり、凹ませたり、いびつにしたり、不自然なでこぼこをつけるやうになつた。この惡趣味は、獨り茶器ばかりでなく、各方面に及んだことは、時代の所爲《せゐ》で致し方なしとしても、工藝品に及ぼした影響はひどかつた人爲的な歪められた燒物を今日まで猶われらは目にしなければならぬ。假りに人爲的に歪められた物を月並風流といふならば、明治、大正を通じ、昭和の今日も猶月並な所謂風流がつた作品に接するの何と多さよ、と慨かるゝ。
 古いものに良い品があるといふことは正しいものが多く又變つたものでも自然な歪みのあるものがあるからで、徳川中期以後の不自然な意識的なでこぼこ風流を知らないからである。即ちやきものの生れる時代がよかつたし、あらゆる條件がよかつたからである。
 徳川中期――殊に化政以後の燒物は皆が皆惡いといふのではない。木米の如き頴川の如き京都だけ考へても名工が輩出してゐるが、是等の名工は時代の流れに押されてへろ/\してゐる陶工とちがつて、皆精神力がしつかりしてゐて何物かを胸中に包藏してゐたからである。が、概して一般の趣向は※[#「※」は「「滔」でつくりの上が「刀」」、52−2]々として似而非風流の歪めるものを美くしいものと思ひ誤つてしまつた。[#底本では「。」が欠如]
 この「不自然に歪めるもの」さへはつきり見極めることが出來れば先づ危險信號の標識がわかるわけである。しかし月並の根ざすところは長い歴史をもつてゐるだけに實に深い。この雜草の根を拔いてしまはない限り、惡趣味なゆがみが顏を出してくる。恰も今日、床屋誹諧、點取誹諧が猶おもしろがられてゐる如きである。
 故意にゆがめられたる燒物の顏は、一瞥してわからねばならぬ。そこに早くすゝみたい。
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   殘念物

 器物は疵のないに如くことはない。茶道では小さな疵でも神經を尖らせて氣にする、もつともなことである。少しでもニユウ、ホツレがあるのを氣にする、これは完器に越したことはないといふ一面、疵物を御客に出しては相すまないわけである。また御客に器物を賞玩してもらう上からいつても疵があれば夫れだけ御客に不安な餘計な心づかひをさせる、一寸でも危な氣のある思ひをさせるといふことは相濟まぬ次第である。
 茶人の間には、これほど疵が氣にされてゐるが、又疵を許されてゐる器物もある。疵が高臺にかゝつてゐなければよろしい――などいふことを聞くことがある。われら茶人でないものには這の間の消息は分らない。昔の茶人の中には、わざと花入の耳を落しなどして器を生かしたといふ話を聞くけれども、それは器量があつてのことで、われら完器を破壞して生かすすべをしらない。――だが、さういふ思ひ入れの多いことは別として、われらは名器を手に入るゝことが出來ない。金がないからである。一國一城の勳功に値するほどの金がないからだ。まことに口惜しいおもひがする――が、又考へやうに依つては、安らかな氣持で愛し得る名器は必らずしも金を出さないでも手に入るやうな氣もする。利休や遠州や不昧や大茶人宗匠達が評價し格づけてくれない品物でも、われらは名器を得たと同じ歡びで愛し得る器物が無いとも限らない。それには所謂忘れられたる名品を掘出さねばならぬが人の持つてゐる物を掘り出すといふことは一生のうち一度あるものか無いものか一寸怪しい。結局代償を拂ふとすれば先づ疵物に目を向ける方
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