が放射する雰圍氣を一段と濃くする。
この釉が變化することに於て又興趣は濃厚になつてくる。やきものを燒く人の面白味も亦釉の變化につながる。
【窯中の神祕】
釉藥は鑛物質で、媒溶成分の力や胎土との親和、その他いろ/\の條件が揃つたところで溶ける。器物の肌に釉藥が溶け、更に變化することによつて、やきものに神祕的な一つの魅力をもたせる。いかに良いと思ふ釉藥を流しかけても、その媒溶劑が適度でなかつたり、又|胎土《きじ》が釉藥に親和しなかつたり、火度が適度でなかつたり、窯中に於て器の置き場所が惡かつたりすると、釉と土とが相反撥したり、はぢけたり、釉が剥落したり、完全な釉の發色がない。即ち釉の裝飾が完全にゆかない。ところが、完全にゆかないところに一種の景色を生じて趣のある器が生れることもあるから、即ちそこに窯中の神祕があるわけである。私は常に「窯中莊嚴淨土」といふことをいふ。窯中の世界は又一種特別の天地で、理屈ばかりではゆかず、科學の一本鎗で解決しないところが面白いのである。こゝに一種の神祕がある。
たとへば火を焚くので灰が出來る、その灰が窯の中を火焔と共に亂舞して器に降りかゝるために、そこに胎土《きぢ》がもつ或る成分と一緒になつて運動を起し、思ひもかけぬ色の釉となることもあれば、火度の不足を狙つて、そこに「志野」といふ清淨な器物を生み出す逆手もある。
同じ銅成分の釉が青くも赤くもなり、鐵、マンガン、長石、等々、いろ/\の鑛質がいろ/\の條件と機會に依つて變化の妙を極める。こゝに釉の面白味があつて、一色の釉でも、火の當るところと當らぬところに二樣三樣の變化を見せたり、さま/″\な景色を造つたりしてゐる。
昔の茶人は、この釉の變化を賞美して、風雅な銘をつけて愛賞してゐる。釉の千變萬化は、やきものゝもつ大切な美しさである。
【文樣】
やきものは釉ばかりでなく文樣に依つて裝飾されてゐる。その文樣は釉をかける前に櫛目、象嵌などいつて、櫛樣のものや釘や箆などで文樣をつけ、其儘にして釉をかけたのもあれば、又雲鶴手など彫つたところに白土を象嵌してから釉をかけたのもある。又|繪付《ゑつけ》といつて鐵やコバルト(呉須)などで器に文樣を描き其上から釉をかけたのもある。繪高麗、染付(青華)、辰砂などいつてゐるものがそれで樂燒に類する軟陶では更にいろ/\の色彩を玻瑠釉の下に描いてゐる。
【下繪付と上繪付】
今云つた繪付を下繪付といふに對し釉の上に文樣を描いたのを上繪付といふ。赤繪類がさうである。即ち釉がかゝつて一旦燒上つた器物の上に更に低火度で文樣を描いたのである。此外に、この上繪と下繪と双方兼ね用ひた裝飾もやつてゐる。
この文樣を釉の上や下に描くといふことは、器物を美くしくみせるためであることは無論である。この裝飾法は器物を更によく見せる爲めと器物の物足らなさを補ふ場合とある。面とりといふ――李朝期の壺や瓶に多いが、六面か八面に面を切り落して角度をつけ裝飾してゐる。それだけでいゝのだが、そこに或はゴスで、或は鐵(黒)や辰砂(赤)で下繪をつけて裝飾してゐる。面とり其物だけの裝飾でいゝのだが、更に各面に變化をみせるため繪付をしてゐる。これは面とりの特長を一段と強調したのである。
また、器物の欠陷を補ふために裝飾することもある。高麗青磁などの發生も、支那の青磁技法を輸入したけれども、胎土や釉のため、支那ほどの美くしさにあがらない。雨過天青とか秘色とかいふほどの美くしさでなく、幾らか鼠がゝつた青磁となる。そこで其の欠陷(?)を補ふために鐵で文樣を描いたり、白土を化粧がけした刷毛目の裝飾法だとか、象嵌して裝飾する雲鶴手とか、是等の技巧を併せて用ひた裝飾とか、各種の裝飾法が發達したのではあるまいかと云はれてゐる。日本における燒物とても同樣で、欠陷を補ふために一種の裝飾技法が發達した場合がある。
【伯庵の茶わん】
かういふ事は例になるかどうか分らないが、やかましい伯庵の茶わんの如き、瀬戸で生れたものであらうが、あの茶わんは誰が見ても上手《じやうて》なものといふより、一種の雜器といつた方が當るかもしれない。伯庵茶わんの見どころが幾個所あるなどいふが其の一つに銅か鐵が發色したと思はるゝ海鼠《なまこ》の雪崩《なだれ》がある。これは赤や藍や白など、一種の面白い發色をしてゐる、そのくすりのなだれは茶わんの胴にはいつてゐる一本の紐から出てゐる。この紐といふのはロクロを※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、25−7]す時に小砂利か何かゞあつて茶わんの表へ疵がついて線を引いたのかもしれない。そこで、この銅か鐵の發色であるが偶然こゝに發色する成分があつたのか、或は意識的につけたのか、それはわからない。しかし、或はそこに欠陷があつて疵を塗り潰すために有合せの銅か鐵の※[#「※」は「土へん+尼」、26−1]漿を一寸塗りつけておいた。それが面白く發色して流れたのかもしれない。これなど一寸考へた想像で何の據りどころもないのであるが、斯ういふ欠陷を補つた裝飾が一種の景色を構成する場合もあることを言ひたいのであつて、伯庵の茶わんが皆さうであるといふわけではないのである。斯ういふ場合も想像されるといふまでゞある。
朝鮮の南方で出來た鉢の中に底部を鐵藥で埋めたのがある。これは高臺削りか何かで底に疵が出來たので、そこをつくろふため身邊に有合せの鐵藥を塗抹しておいた――それがうまく疵をかくし、一種の景色を成してゐるものが出土品の中から往々發見される。これなども欠陷が補はれたのである。しかし、こゝでいふ欠陷といふのは、是等の茶わんの偶然的な補足手段をいふのではない、本質的に生地とか釉藥とか又は形の上に欠陷があつて、これを補ふために下繪や上繪や釉藥の力を借りることをいふのである。
釉の變化、窯中の神秘、天目釉、飴、黄、織部、志野、その他いろ/\の釉の發生の動機や釉と時代との變化を考へてゆくと興味津々たるもので、同じ黄瀬戸といつても時代が變る毎に黄色がちがつてくる。初めは黄色でなく、自然にほのかなる黄色を呈するのを發見して、そのほのかなる黄色を追うて黄色を強調していつたのではないかと思はれる黄瀬戸――それが後代の、また現代のあの黄瀬戸になるまでの釉の變遷は又一種の時代史である。時代が喜ぶからこそ其の裝飾法も永くつゞく。が、然し原始時代の故意に飾らざる美くしさが滅びて、如何にも黄瀬戸がらんとする黄色が横行するやうになつた。また、媒溶劑にしても、昔は如何なる木の灰を用ひたか、その木は今日あるかないか、あつても容易に得られないのか、兎に角「どんなに鯱鉾立をしても古い黄色は出ません」と工人がいつてゐる今日である。灰分の媒溶劑を使つてゐることは分つてゐるが今日の科學を以てしても出來ないところにやきものゝ面白味があるのである。
【ロクロ】
ロクロを廻すのに、今日のロクロは餘りに器械的に鮮やかに廻るために、昔のやうな、おほらかな物が出來ない。「ガタ/\するロクロでも探して來ないと、あんなのんきなロクロはひけない」と今の工人はいふ。ガタ/\したロクロで充分間にあつた「時代」といふものを矢張考へないではゐられない。
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古さ
【傳統】
古さといふことは傳統といふことである。名物とか大名物とかいふものは品物の良さと共に其の古さが尊ばれてゐる。古さの歴史がはつきりしてゐる一つの器物につながつてゆく因縁、※[#「※」は「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、30−5]話、書付、さういふものが大切に傳へられてゐる。一つの茶入が何萬圓したなど謠はれて、聞く人は「ほゝう」と驚く。これは品物の良さもあらうが古さの價が加はつてゐる。しかし一面、考へやうに依つては其の古さの樂しみは、われら貧乏人と雖も味へないことはない。それは其人々々の心のおきどころ次第である。何萬圓の茶入も、今日五十錢しかしない茶入も、同じ土で、同じ窯の中で、同じ火の洗禮を受けて生れたのかもしれない。瀬戸の古窯から發掘さるゝ破片は今日大名物となつてゐる茶入と共に燒かれたのかもしれない。一は世に傳へられ、一は割れたゝめに窯の附近に捨てられたのであらう、又はよき伯樂なきため、末代まで庶民階級の間をごろ/\して、場末の古物商の手にかゝつて今以て埃を被つてゐるのかもしれない。戸籍を洗へば一つの窯から出たのであらうが、そこに人間に認識さるゝ縁、不縁があつたのだ。
名物といふものは成程いゝ作であらう、然し同じ窯で造られた全部が惡かつたわけでもあるまい。その一つが運よく大權力者の手に入り、戰國時代勳功に賞でゝ分ち與へる土地が足りなくなつたので、折柄新興の茶道に陶醉してゐる勇將達に勳章の代りとして茶入を渡した。即ち一國一城に代はつた茶入である、その茶入が主人が滅びると又外の人へ、その主人が死すると又次の主人へと傳來する間に、悲劇、武勇、風雅、いろ/\の※[#「※」は「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、32−6]話を生んで、それに關する文書が共に傳はり今日も猶千萬金の價をもたせてある。たゞ裸一貫になれば或は兄弟の名乘りが出來る茶入や茶わんが、貧寒われらのところへある一方、二重三重の箱の中に、二種五種の金襴の着物をつけて納まつてゐるのもあるわけだ。
なあに、あんなに金を持つて威張つてゐるが、生れたのは、俺達と同じ芋小屋の中だつたんだ――と人がいふのと同じことも、或は燒物だつて言ひたいのかもしれない。だが、この傳世傳來といふことの感情的美くしさに就てはこゝでは云はない。それは又それで、今日發掘される破片の荒れた肌よりも、何百年と人に愛玩されて、人間とあたゝかい交渉をもつた肌の方が潤ひがあり美くしさがあるであらう。――が、破片と雖も、又顧みられない店頭の半圓乃至四分の一圓の品と雖も馬鹿にすべきでないことを云ひたい。
古さ――これはどれでも古いことは同じで、古さのもつ良さは金の高で見つもることは出來ない。何故かなれば矢張この時代が生んだ工藝品だからで、今日の時代が逆さまになるとも生むことの出來ない良さ古さをもつてゐるのである。この古さを賞し得ることも亦われらに與へられた樂しみの一つで、時代を知り器物の形のよさ、釉のよさを知つたならば、古さも同時に分つて高い代償を拂はずに一夕カフエーの資を以て購ふことが出來、清淨なる快樂を享受することが出來るのである。
以上いつたことは銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、34−9]のない以前の古い時代であり、又銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、34−9]が初まつて以來の臺所用雜器に就てもいふことが出來る。農家の具に作られた種子壺が見出されて、今日千金の價をもつこともあるが、さういふ萬一を僥倖しないでも、農家の具、漁家の具の中に、案外古さも良さもあるおもしろいものを發見することがあり、又僻村の店頭に案外の古さをもつ器物を拾ふことも出來るのである。
【銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、35−欄外]】
次ぎにいひたいことは銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、35−6]である。銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、35−6]は器の底部に又は胴に、又は箱に入れて個人作家のサインとして昔から尊ばれてゐる。この銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、35−8]は贋物が多く、有名な作家であればあるほど怪しげなものが多い。たゞ作家の銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗字、35−9]のみに惚れてゐると、飛んでもない古さも良さもないものを掴んでしまふことがある。だから銘※[#「※」は「「疑」のへんの部分+欠」、第3水準1−86−31、「款」の俗
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