がいゝやうに思ふ。斯くいふ私は名器どころか瓦石に等しいものしか持たないが其の九割は疵物である、その疵であるといふことは殘念には思ふが別に淋しいとは思はない。疵物に對し平氣で而も心は富んでゐるつもりでゐる――
道具屋の間で「殘念物」といふ。殘念だが疵があるとか、むけ[#「むけ」に傍点]やほつれ[#「ほつれ」に傍点]があるとかいふのである。むけ[#「むけ」に傍点]といふのは先刻御承知であらうが、古染付などで藥の剥げてゐるところなどあることを云ひ、ほつれ[#「ほつれ」に傍点]といふのは口邊など一寸ほつれてゐることを指す。又ニユウが入つてゐる。こんなのを殘念物だといふ。
例へば秋月筆の寒山拾得の幅が對であるとして拾得しかなく「寒山いづこ」といふ殘念物があつたとする。對幅だから二幅揃つたならば千兩するのであるが「あゝ寒山いづこ」で一幅の方は行方不明で、拾得のみのをもつてゐるので殘念物――そこで三十圓か五十圓か、そんな評價はしらないが先づ燒物からいへば疵物の價で手に入る。さて此の片輪な幅を掛けてみてどうであらう。寒山があつたならば定めしいゝであらうと思はるゝけれど、寒山の行方何處――といふところにも亦興味があつて寒山がなくて却つて意味深長、拾得一人ゐても少しも物足らぬ氣持がしない、構圖、氣魄、すべて秋月といふ畫人の良さがあれば夫れでいゝのではあるまいか。われら貧人には寒山を家の外に逸してゐるところに却つて興趣がある、敢て負惜しみをいふのではない。疵陶亦然矣。
いやに口幅ッたいことをいふやうであるが、私の持つ殘念物をいはふなら――
黄瀬戸茶わん。極めて古い手のもので、見込にポンと菊の文樣の押花型がある。これに若し底部に疵がなかつたならば千金の價をもつであらうが、殘念物のためにカフエー一夕の資にも足らぬ代價で小庵の氣もちをあたゝかくしてくれる。胎土、ロクロ、くすり、堪らなくいゝ。底は上げ底になつて、窯道具のくッつきが焦げついて居り澁からず華やかならず、浮つかず重過ぎず、申分のない黄瀬戸茶※[※[#「※」は「上が「夕+ふしづくり」+下が「皿」」、第3水準1−88−72、読みは「わん」、59−7]である。一見するに殘念物の感更になし。たゞ「底拔け茶わん」として在來の茶人が厭ふのみである。
古萩茶わん。萩燒も極めて古いところになると滅多に見當らない。若しあれば又富豪の力でないと手に入らない。高臺に疵があるばかりに小庵の什器に加はつてゐる。茶わんの形、強火に堪えたうねり、古さびた白、澁いしみ、古萩の良さを多量に具へてゐるが、さて高臺に疵あり、金十數圓にて手もなく藏什となる。茶をたゝえずとも、手に觸れ、目に見るだけでも千金に替へ難い値打がある。茶を酌んだとて漏るわけでなく、高臺の割れたのがいけないといふ。なんと有難い疵であるかよ。
安南茶わん。正眞正銘の安南燒があつた――だが、疵があるために殘念ながら見たゞけで買つて來なかつたと或る道具商がいふ。代若干なりや。答へて曰く銘仙一ぴきの代のみ。それでは取寄せてもらひたいといつたのが大變な茶わん。若しニユウの大疵なかりせば何々庵茶會の會記に書きのぼせらるゝ名品であらうが――有難いことにはニユウがあつて私の什になつた。
等々々、こんなことを書けば其の餘りに殘念物の多さに驚くと共に、是等殘念物の御蔭で身邊多祥であることを感謝したいのだ。
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先づ得よ
やきものを知るには何から始むればよいかと人に聞かれる。
それは何からでもよい、徳利を集めてもよい、徳利は一時暴騰したことがあるが現在では極めて安い、一時の一割にも値しない。さればといつて徳利の價値が下つたわけではない。油皿でも石皿でもさうである。流行する時は物が少ないから需給の關係から高くなるけれども、人より先か、人より後からならば、安價に且つゆつくり樂める。
徳利の形のおもしろさは説くまでもあるまい。燒物をみる上に必要な條件を殆んど供へてゐる。茶の湯に使はるゝ徳利は千金の値を唱ふけれども、茶の湯の寸法を外れた大ぷりな徳利になれば御小使錢で樂んで求めることが出來る。
朝鮮の各種の徳利、北九州の徳利、――二川、上野《あがの》、黒牟田、百間窯等々。備前などもあるが丹波になると立杭からいろ/\な徳利が出てゐる、瀬戸附近は無論のこと、東北地方も隨分あつて、人の知らぬ仙臺の田舍まで出來てゐる。徳利の形も千差萬別、裝飾からみても繪高麗風のもの、刷毛目、筋入り、織部、赤繪等々枚擧に遑がないといふのは此のことで、徳利に憂き身をやつしても一生暮せることは請合だ。
石皿、油皿、油壺、斯ういふものは隨分集められたが、この外普通の小皿類の如き向附の離れ物の如き、水滴、水注、片口、鉢類、日常雜器のものに手をつけてゆけば絶えず研究が出來、且つ安價で、樂しみは豐富である。
そこで、大切なことを一つ加へる。
【半面の眞理】
それは「得よ」といふことである。求めるといふこと、買ふのもよく、人のを讓つて貰ふのもよい。よく「買つてみないと本當なことは分らない[#「分らない」は底本では「分らないとい」と誤記]」といふ、これを賤しい言葉と卑しむ人があるが半面の眞理はあるのだ。自分のもつてゐる金なり品物を手放して、其の物を手に入れてみるといふことが必要だ。必要だといふより燒物がわかるのに近道である。所謂痛い思ひをして身錢を切つて買つてみると、それが良かつたにしろ惡い物であつたにしろ、燒物がわかるといふ上には非常の影響がある。藝術といふものは、そんなものではないと笑ふ人があるかしれないが、他人の者を見て歩くだけの人と、自分の物にしやうといふ――慾心と考へちやいけない、自分の物にしやうといふ愛着心は、どれほど器物を理解する上に知見を早めるかしれない。
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價
斯う話してまゐりますと結局値といふことになる。この價といふこと、掘出しといふこと、イカモノを掴んだといふこと、よく人の口にのぼる話題であるが、さう詳しく説く必要はあるまい。
掘出しといふことをよくいふ。幸ひに時價千圓もするものを拾圓で買つたとなれば掘出しであらう、しかし掘出さう/\といふ慾念は、やゝともすれば人の目を曇らせる。私は曾て掘出したことがない、私の目やかん[#「かん」に傍点]が惡いのにちがひない。しかし運よく良い器物を授かつたと思つたことはある。「運」といふことに遁げる運命論者ではないが、良い品を得る運を惠まれた――また、良い品を適當の値で得ることが出來た――又、ほしい品を幸ひに安く手に入るゝ機會を得た、といふ程度の「運」がある、と考へたらどうであらうか。
いくら焦つても、いくら金を積んでも品物が手に入らぬ場合がある。それは、あの水指に何の茶わんでなければ釣合はぬ、是非何の茶わんをほしいといふ焦り方である。さう焦つても縁のない時には見ることも嗅ぐことも出來ない。
趣味の視野をいろ/\もつてゐれば、いつか良い品に巡り合ふ運が與へられるかもしれない。さういふ名器よりも常に樂しむことの出來るものを得られやう。趣味好尚の視野の廣い人は、聊かの代償で、いろ/\の「物」を樂しむことが出來る。その樂しみも深いものである。富貴人が千金の樂しみをしてゐるのと同じやうに、われらも亦一枚の銀貨を以て千金の樂しみと同樣の樂しみを享受することが出來るのではあるまいか。否われらの銀貨や少額の紙幣は身を殺ぐ思ひをして投ずるのであつて無雜作に小切手にサインして拂ふ人達と代を拂ふといふ氣持がちがつてゐる。それだけ、眞劒であるだけ、樂しみも亦深く永いと思ふ。
要は視野の限界である。而も視野の焦點にかゞやく心眼こそは常に磨きをかけておかねばならぬ。器物の表面ばかりでなく、器物の包含するところの内容を見ぬくには心眼も亦内容をもつてゐなければならぬ。こちらが空しき目であつては對象の内容までを見透すことは出來ない。然らば、その心眼に内容を盛るには、どうすればよいか、それは自づから人に依つて夫々の考へ方があるであらう。また前に述べた點に就て考へらるゝ方もあるであらう。私も亦心眼常に曇つて朗かでない。大いに力めねばならぬと期してゐる。
良き物を見る事、良き事を知ること。さうして、個々の心眼の認識の程度如何が最後の決定をするのではあるまいか。
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樂しみを謠ふ
鴛鴦の水滴
瀬戸の山から ノウヱ
をしどり一羽飛んで來た
片羽黄いろに染めてきた
はつきり、しやつきり、羽づくろひ
型は押型、あらいとし
水を含んで飛んできた
瀬戸のをしどり ノウヱ
嘴が可愛や水滴の
水のこぼるゝさはやかさ
土は灰色黄ぐすりの……
昔、昔、大むかし
鴛鴦《おし》が生れた頃はいな
瀬戸のをしどり ノウヱ
藤四郎どんの顏わいな
酒をのうだか、餅ずきか
藤四郎々々々いふけれど
影も姿も見えわかず
お前の嘴動かずに
水をとく/\吐くばかり
瀬戸のをしどり ノウヱ
來た/\來た/\飛んで來た
思ひ羽つがへて又一羽
今ぢや揃ふて二羽となり
机の上の朝夕に
いとし、なつかし、つがひ鳥
かたみ代りに嘴《くちばし》の
硯にこぼす愛の水
墨のかほりもかぐはしや
鴛鴦の腹みりや ノウヱ
轆轤の痕が渦を卷く
糸切冴えて卷き渦の
古き夢追ふくる/\と
愛の泉の渦まいて――
いとし、なつかし、鴛鴦《おし》二つ
硯の海の片ほとり
日南《ひなた》ぼつこで居るわいな
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窓繪の土瓶
※[#「※」は「「栃」でつくりの中の「万」のかわりに「朽」のつくりをあてる」、75−2]木縣の益子へ四五度いつた。その時窓繪を描くお婆さんと知合ひになつたところが御馴染になつて、私がいたづら描きをしてゐると傍に來て見るやうになつた。
「お婆さん、梅の繪を描いてお見せよ」
さうたのむと「まづいけど――」と云ひながら書く。
お婆さんはカーブのある器物に描かせると上手だが紙に描かせると調子を失ふ。
五十年も六十年も土にばかり飽きずに描いてゐたゝめ、紙のやうな平面なものには描きづらいと見える。
「頬冠り梅を描かうかなあ」と云ひながら「そうれ頬冠り、これで梅だよ。梅の木の下へ蘭よ、これ蘭の花よ」と描く。
梅の半開したのが人間が頬冠りしたやうに見えるのだ。昔の文人趣味かどうかしらないが昔の人は澁かつた――
梅の木の根に蘭の花を描く圖案を庶民用の土瓶にくツつけた――
窓繪といふ。何だ――
佐久間藤太郎君の話「窓繪土瓶は益子の名物だつたが、今ぢや出來ません。先日註文があつたから少し造りましたがね。むづかしいのですよ、窓繪は――土瓶の胴へ白土を丸くつけてそこへ山水、花鳥繪が現はれるのですが、そのまン圓いのがむづかしい。何故ツて、土瓶を造るでせう、さうして白土のどろ/\した中へ浸す、そうれ――丸い胴を白い汁へ浸すから、汁に浸つた周圍は丸くなるわけですな。それが窓なんですよ。だからロクロの挽き方が下手で、土瓶が正しい形をしてゐないと窓がいびつになつたり楕圓になつてしまひますからね。だから、むづかしいのですよ。土瓶のやうな安物を正しくこしらへて、いゝ窓繪をのこした昔の人の腕はゑらいですね。」
窓繪、窓繪――
十錢か二十錢の土瓶にも名器を造る腕の冴えを必要とする。土紙[#「土紙」は「土瓶」の誤記か]にも見どころがある、味ひは無限だ、正しい土瓶の形、あの胴のふくらみ、双の耳がしつかりしてゐるか、口がよくついてゐるか、口の形がいゝか、口から湯が漏るやうなことはないか、土瓶の葢《ふた》の形、つまみの形――さうして、大いにさうして、耳に蔓《つる》をつけて、完成した土瓶の形は安定してゐるか。
日に干されて、火に燒かれて而して此の安全[#「安全」は「完全」の誤記か]をのぞまるゝ土瓶である。
金――錢を謂ふ勿れ。
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燒物一夕話
區別
科學的の分け方もありますが、私どもは簡單に土燒、燒しめ、石燒位の言葉で現はしてゐる。燒しめには※[#「※」は「火へん+石」、第4水準2−79−64、78−4]器などいふ字を使ふ物しりもある。
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