ちょっと断っておもらい申すでしたにねえ」
「そりゃ言いましたとも。お世話をしようてのに、年を言わないってことがあるものですか、ほほほほ、何ですよ! 阿母さん」
「大きにね、御免なさいよ。そこらに如才のあるようなお光さんでもないのに、私もどうかしていますね、ほほほほ」と媼さんも笑って、「では、写真を持っておいでなさいましてから、その後まだ何とも?」
「はあ、いろいろ何だか用の多い人ですから……」
「いえね、それならば何ですけど、実はね、こないだお光さんのお話の様子では大分お急ぎのようでしたから、それが今日までお沙汰のないとこを見ると、てッきりこれはいけないのだろうとそう思いましてね。じゃ、まだそう気を落したものでもないのでございますね」と言って、媼さんは空笑《そらわら》いをする。
お光も苦笑いをして、「でも、全くあの時は先方《さき》の口振りがいかにも急ぎのようでしたものですから……いえ、どッちにしてもほかのこととは違いますし、阿母さんの方だって心待ちにしておいでのことは分ってますから、先方が何とも言って来ないからって、それで打遣《うッちゃ》っておいちゃ済みませんわね。私もね、実はもうこないだから、一度向うへ出向こう出向こうとそう思っちゃいるんですけど、ついどうも……何分病人を抱《かか》えてちっとも体が外《はず》せないものですからね」
言われて媼さんは始めて気がついたらしく、「まあ、私としたことが、自分の勝手なことばかり喋《しゃべ》っていて……ほんにまあ、御病人はどんなでおいでなさいますね、まだおよろしくございませんかよ」
「え、よろしいどころなものですか、今日もお医者から……」と言い半《さ》して、お光は何と思ったか急に辞《ことば》を変えて、「何しろ質《たち》のよくない病気なんですもの」
「質がね? それじゃ御病人も何でしょうが、お光さんが大抵じゃございませんね。そんな中へどうも、こんな御面倒な話を持ち込みましちゃ……」と媼さんは何か思案に晦《く》れる。莨《たばこ》を填《つ》めては吸い填めては吸い、しまいにゴホゴホ咽《む》せ返って苦しんだが、やッと落ち着いたところで、「お光さん、一体今度のお話の……金之助さんとかいうのでしたね? その方はどこに今おいででございますね?」
「え、それは霊岸島の宿屋ですが……こうと、明日は午前《ひるまえ》何だから……阿母さん、明日《あした》夕方か、それとも明後日《あさって》のお午過ぎには私が向うへ行きますからね、何とか返事を聞いて、帰りにお宅へ廻りましょう」
四
金之助の泊っているのは霊岸島の下田屋という船宿で。しかしこの船宿は、かの待合同様な遊船宿のそれではない、清国《しんこく》の津々浦々から上《のぼ》って来る和船帆前船の品川前から大川口へ碇泊《ていはく》して船頭|船子《ふなこ》をお客にしている船乗りの旅宿で、座敷の真中に赤毛布《あかげっと》を敷いて、欅《けやき》の岩畳《がんじょう》な角火鉢を間に、金之助と相向って坐《すわ》っているのはお光である。今日は洗い髪の櫛巻《くしまき》で、節米《ふしよね》の鼠縞《ねずみじま》の着物に、唐繻子《とうじゅす》と更紗縮緬《さらさちりめん》の昼夜帯、羽織が藍納戸《あいなんど》の薩摩筋のお召《めし》という飾《めか》し込みで、宿の女中が菎蒻島《こんにゃくじま》あたりと見たのも無理ではない。
「馬鹿に今日は美しいんだね」と金之助はジロジロ女の身装《みなり》を見やりながら、「それに、俥《くるま》なぞ待たしといて、どこぞへこれから廻ろうてえのかね?」
「はあ、少しほかへも……」と言って、お光は何か心とがめらるるように顔を赤める。
「じゃ、ちっとは新さんも快《い》い方だと見えるね? そうやってお前が出歩くとこを見ると」
「いえね、あの病気は始終そう附き限《き》りでいなけりゃならないというのでもないから……それに、今日|佃《つくだ》の方から雇い婆さんを一人よこしてもらって、その婆さんの方が、私よりよっぽど病人の世話にも慣れてるんだから」
「それじゃ、病人の方は格別快いてえわけでもねえんだね?」
「ええ、どうもね」
「その代り、大して悪くもならねえんだろう」
「ええ」と頷《うなず》く。
「そういうのはどうしても直りが遅いわけさね。新さんもじれッたかろうが、お光さんも大抵じゃあるめえ」
「そりゃ随分ね何も病人の言うことを一々気にかけるじゃないけど、こっちがそれだけにしてもやっぱり不足たらだらで、私もつくづく厭になっちまうことがありますよ。誰でも言うことだけど、人間はもう体の健《まめ》なのが何よりね」
「だが、俺のように体ばかり健で、ほかに取得のねえのも困ったものさ。俺はちっとは病《わずら》ってもいいから、新さんの果報の半分でもあやかりてえもんだ」
「まあ、とんだ物好きね。内のがどう果報なんだろう?」
「果報じゃねえか、第一金はあるしよ……」
「御笑談もんですよ! 金なんか一文もあるものかね。資本《もとで》だって何だって、皆佃の方から廻してもらってやってるんだもの、私たちはいわば佃の出店を預ってるようなものさ」
「そりゃどうだか知らねえが、何しろ新さんはお光さんてえいいお上さんを持って……ねえ、こいつは金で買われねえ果報ださ」
「おや、どうもありがとう。だが、もうそんなことを言ってもらって嬉しがるような年でもないから大丈夫自惚れやしないからたんとお言い」とお光はちっとも動ぜず、洗い髪のハラハラ零《こぼ》れるのを掻き揚げながら、「お上さんと言や、金さん、今日私の来たのはね」
「来たのは?」
「ほかでもないが、こないだの、そら、写真のはどうなの?」と鋭い目をしてじっと男の顔を見つめる。
「うむ、あれか、可愛らしいね」
「可愛らしいからどうなの?」
「どうてえこともねえさ」
「何だね! この人は。お前さん考えとくと言って持って帰ったんじゃないかね?」
「そうさ」
「じゃ、考えたの?」
「別に考えて見もしねえが、くれるなら貰《もら》ってもいい」
「貰ってもいいんだなんて、何だか一向|弾《はず》まない返事だね」
「なに、弾まねえてえわけでもねえんだが……何しろこうして宿屋の二階に燻《くすぶ》ってるような始末で、まるで旅へでも来た心持なんだからね。まあ家でも持って、ちゃんと一所帯構えねえことにゃ女房の話も真剣事になれねえじゃねえか」
「そりゃ、まあね」とお光は意を得たもののように頷いて見せる。
「だが、向うは返事を急いででもいるのかい?」
「向うはなに、別に急いでもいやしないけどね」
「急がなくたって、何もこれ、早くくれてしまわなきゃ腐るてえものでもねえんだからな」
「当り前さ、夏のお萩餅《はぎ》か何ぞじゃあるまいし……ありようを言うとね、娘もまだ年は行ってても全小姐《からねんねえ》なんだから、親ももう少し先へなってからの方が望みなんかも知れないのさ」
「じゃ、とにかくもう少し待ってもらおうじゃねえか。第一お前、肝心の仲人があの通りの始末なんだもの」
「仲人があの通りってどう?」
「新さんの今のとこさ」
「ああ、だけど、それを言ってちゃいつのことだか分らないかも知れないよ」と伏目になって言った。
金之助は深くも気に留めぬ様子で、「こっちだっていつのことだかまだ分らねえんだから……だが、わけのねえことだから、見合いだけちょっとやらかして見ようか?」
「え、見合いを※[#感嘆符二つ、1−8−75]」お光はぎょッとしたように面を振り挙げたが、「さあ……ね、だけど、見合いをすりゃ、すぐ何とか後の話をしなけりゃならないからね。見合いをしっ放しにして、いつまでもまた引っ張っとくというわけにも行かないから……まあ何てことなしに延ばしといたらいいじゃないかね」
「そうかい、それじゃまあ、どうなりとお光さんの考え通りに任せるから、よろしく頼むよ」
金之助は急須に湯を注《さ》したが、茶はもう出流れているので、手を叩いて女中を呼ぶ。
間もなく、「何か御用ですの?」と不作法に縁側の外から用を聞いて、女中はジロジロお光の姿を見るのであった。
「御用だから呼んだのよ。この急須を空けっちまっての、新しく茶を入れて来な」
「はい」と女中はようよう膝を折って、遠くから片手を伸ばして茶盆ぐるみ引き寄せながら、
「ついでにお茶椀《ちゃわん》も洗って来ましょうね」
「姐《ねえ》さん、あの、便所《はばかり》はどちらですの?」
「便所ですか? 御案内しましょう」
「はばかりさま」
女中は茶盆を持ってお光を案内する。
しばらくすると、奇麗に茶道具を洗い揚げて持って来たが、ニヤニヤと変に笑いながら、「ちょいと、あなたのレコなの?」と女中は小指を出して見せる。
「何が? 馬鹿言え」
「隠したって駄目《だめ》よ。どこの芸者?」
「芸者だ? 馬鹿言え! よその立派な上さんだ」
「とか何とかおっしゃいますね。白粉《おしろい》っけなしの、わざと櫛巻か何かで堅気《かたぎ》らしく見せたって、商売人はどこかこう意気だからたまらないわね。どこの芸者? 隠さずに言っておしまいなさいよ」
「ちょ! 芸者じゃねえってのに、しつこい奴だな」
「まだ隠してるよ! あなたが言わなきゃ俥屋に聞いてやる」
「俥屋が何とか言ってますか?」と背後《うしろ》からお光が入って来た。
「あら!」と女中は真赤になって、「まあ、御免なさいまし。いえね、お尻《いど》を振らずに俥屋は走れないものか、それを聞いて見ようとそう申して……ほほほほ。あなた布団をお敷き遊ばせ」と格《がら》にもない遊ばせ辞《ことば》をてれ隠しに、そのままバタバタと馳《は》せ去ったのである。
「何のことなの? 女中の言ったのは」
「なあに、馬鹿馬鹿しいのさ。お光さんのことをどこの芸者だって……」
「まあ、厭よ……」
「芸者なものか、よその歴《れっき》としたお上さんだと言っても、どうしても承知しやがらねえで、俺が隠してるから俥屋に聞いて見るって、そう言ってるところへヒョッコリお光さんが帰って来たのさ。お多福め、苦しがりやがって俥屋の尻が何だとか……はははは、腹の皮を綯《よ》らしやがった。だが、そう見られるほど意気に出来てりゃしようがねえ」
「およしよ! 聞きたくもない」とお光は気障《きざ》がって、「だけど、芸者が何で金さんのとこへ来たと思ったんだろう!」
「それがまたおかしいのさ。馬鹿は馬鹿だけの手前勘で、お光さんのことを俺のレコだろうって、そう吐《ぬ》かしやがるのさ、馬鹿馬鹿しくって腹も立てられねえ」
お光はただ笑って聞いたが、「そうそう、私ゃその話で思い出したが、今家にいる若い者ね」
「むむ、あの店にいる三十近くの?」
「あれさ、為《ため》といって佃の方の店で担人《かつぎ》をしていた者でね、内のが病気中、代りに得意廻りをさすのによこしてもらったんだが、あれがまた、金さんと私の間《なか》を変に疑ってておかしいのさ。私が吉新へ片づかない前に、何でも金さんとわけがあったに違いないんだって」
「へええ、どうしてお光さんの片づかねえ前のことなんか――お互いに何も後暗いことはねえから、何と言おうがかまわねえけれど、どうしてまたそんなころのことを知ってるんだろう?」
「それがさ、お前さんをその時分よく知ってて、それから私のことも知ってるんだって」
「はてね、俺が佃にいる時分、為ってえそんな奴があったかしら」
「それは金さんの方じゃ知らないだろうって、自分でも言ってるんだが、何でもね、あの近辺で小僧か何かしていて、それでお前さんを知ってるんだそうだが、寄席《よせ》なぞでよく私と二人のとこを見かけたって……変な奴がまた、家へ来たものさねえ」
「そりゃしかし、お光さんも迷惑だろうな。くだらねえこと言やがって、もしか新さんの耳にでも入ったら痛くねえ腹も探られなきゃならねえ」
「なにもね内の耳へ入れるようなことはさせないから、そりゃ大丈夫だけど……金さん、もう何時だろう?」と思い出したように聞く。
金之助は床の間に置いてあった銀側時計を取って見て、「三時半少し過ぎだ。まあいいじゃねえか」
「いえ
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