立て通りでございましたら……あの、尿毒性とやら申すのでございましたら……」とお光はもうオロオロしている。
「尿毒性であると、よほどこれは危険で……お上さん、私は気安めを言うのはかえって不深切と思うから、本当のことを言って上げるが、もし尿毒性に違いないとすると、まずむずかしいものと思わねばなりませんぞ!」
「…………」
「とにかく、ほかの医者にも見ておもらいなさい、私ももう二三日経過を見て見るから」
「はい」
「今日から薬が少し変るから、そのつもりで」
「はい」
医者は帰った。お光は送り出しておいて、茶の間に帰るとそのままバッタリ長火鉢の前にくずおれたが、目は一杯に涙を湛《たた》えた。頬に流れ落ちる滴《しずく》を拭《ぬぐ》いもやらずに、頤《あご》を襟《えり》に埋めたまま、いつまでもいつまでもじッと考え込んでいたが、ふと二階の呻《うな》り声に気がついて、ようやく力ない体を起したのであった。が、階子段の下まで行くと、胸は迫って、涙はハラハラととめどなく堰《せ》き上《あ》ぐるので、顔を抑《おさ》えて火鉢の前へ引っ返したのである。
で、小僧を呼んで、「店は私が見てるからね、お前少し二階へ行って、親方の傍についておいでな」
「へい、ただついてりゃいいんですか?」
「そんなこと聞かなくたって……親方がさすってくれと言ったらさすって上げるんじゃないか」
「へい。ですが、こないだ腫《むく》んでた皮を赤剥けにして、親方に譴《しか》られましたもの……」と渋くったが、見ると、お上さんは目を真赤に泣き腫《は》らしているので、小僧は何と思ったか、ひどく済まないような顔をしてコソコソと二階へ上って行く。
「医者のあの口振りじゃ、九分九厘むつかしそうなんだが……全くそんなんだろうか」と情なさそうに独言《ひとりご》ちて、お光は目を拭った。
ところへ、「郵便!」と言う声が店に聞えて立ったが、自分の泣き顔に気がついて出るのはためらった。
「吉田さん、郵便!」
「はい」
「ここへ置きますよ」
配達夫の立ち去った後で、お光はようやく店に出て、框際《かまちぎわ》の端書を拾って茶の間へ帰ったが、見ると自分の名宛で、差出人はかのお仙ちゃんなるその娘《こ》の母親。文言《もんごん》は例のお話の縁談について、明日ちょっとお伺いしたいが、お差支えはないかとの問合せで、配達が遅れたものと見え、日附は昨日の出である。
端書を膝《ひざ》の上に置いて、お光はまたそれにいつまでも見入った。
「全くもうむずかしいんだとしたら……」としばらくしてから口に出して言ったが、妙に目を光らせてあたりを見廻し、膝の上の端書を手早く四つに折って帯の間へ蔵うと、火鉢に凭《もた》れて火をせせり出す。
長火鉢の猫板《ねこいた》に片肱《かたひじ》突いて、美しい額際《ひたいぎわ》を抑えながら、片手の火箸《ひばし》で炭を突《つ》ッ衝《つ》いたり、灰を平《なら》したりしていたが、やがてその手も動かずなる。目は瞬《しばたた》きもやんだように、ひたと両の瞳を据えたまま、炭火のだんだん灰になるのを見つめているうちに、顔は火鉢の活気に熱《ほて》ってか、ポッと赤味を潮《さ》して涙も乾《かわ》く。
「いよいよむずかしいんだとしたら、私……」とまた同じ言を呟《つぶや》いた。帯の間から前《さき》の端書を取り出して、もう一度読んで見たが、今度は二つに引き裂いて捨てたのである。
「お上さん、三公はどッかへ出ましたか?」と店から声をかけられて、お光は始めて気がつくと、若衆の為さんが用足しから帰ったので、中仕切の千本|格子《ごうし》の間からこちらを覗《のぞ》いている。
「三吉は今二階だが、何か用かね?」
「なに、そんならいいんですが、またどっかへ遊びにでも出たかと思いまして」と中仕切をあけて、
「火種を一つ貰えませんか?」
「火鉢をお貸し」
為さんは店の真鍮火鉢《しんちゅうひばち》を押し出して、火種を貰うと、手元へ引きつけてまず一服。中仕切の格子戸はあけたまま、さらにお光に談《はな》しかけるのであった。
「お上さん、親方はどんなあんばいですね?」
「どうもね、快《よ》くないんで困ってしまうわ」
「ああどうも長引いちゃ、お上さんもお寂しいでしょう?」
「寂しいって?」お光は合点の行かぬ顔をして、「なぜね?」
「へへへ、でもお寂しそうに見えますもの……」と胡散《うさん》くさい目をしながら、「何は、金之助さんは四五日見えませんね?」
お光は黙って顔を眺《なが》めた。
「あの人は何でしょう、前から何も親方と知合いというわけじゃないんでしょう?」
「深い知合いというでもないが、小児《こども》の時学校が一緒とかで、顔は前から知ってるんだって」
「そうですか。私《わッし》ゃまたお上さんがお近しいから、そんな縁引きで今度親方のとこへも来なすったんだと思いまして……いえね、金さんの方じゃ知んなさらねえようだが、私ゃ以前あの人の家のじき近所に小僧をしていて、あの人のことはよく知ってますのさ」
「そう、いつごろのこと?」
「そうですね、もう四五年前のことでしょう、お上さんがまだ島田なんぞ結《い》ってなすったころで」
「へえい、じゃ私のこともそのころ知ってて?」
「ええ、お上さんのことはそんなによく知りませんが、でも寄席《よせ》へなぞ金さんと一緒に来てなすって、あれがお光さんという清元の上手な娘《こ》だって、友達から聞いたことはありますんで……金さんも何でしょう、昔馴染《むかしなじ》みてえので、今でもお上さんが他人のようにゃ思えねえんでしょう」とニヤリ歯を見せて笑う。
お光はサッと顔を赤くしたが、「つまらないことをお言いでないよ! 昔馴染みだとか、他人のように思えないだとか、何か私と厭らしいことでもあったようで、人聞きが悪いじゃないか」
「へへ、誰も人は聞いてやしませんから大丈夫でさ」
「あれ、まだこの人はあんなことを言って! 金さんと私とは、娘の時からの知合いというだけで――それは親同士が近しく暮らしてたものだから、お互いに行ったり来たり、随分一緒にもなって同胞《きょうだい》のようにしてたけど……してたというだけで、ただそれだけのものじゃないか、お前さんもよっぽど廻り気の人だね」
「へへ、そうですかね」と為さんは例のニヤリとして、「私もどうか金さんのような同胞に、一度でいいから扱われて見てえもんですね」
「じゃ、金さんの弟分にでもなるさ」と言い捨てて、お光はつと火鉢を離れて二階へ行こうとすると、この時ちょうど店先へガラガラと俥《くるま》が留った。
俥を下りたのは六十近くの品のいい媼《ばあ》さんで、車夫に銭を払って店へ入ると、為さんに、「あの、私はお仙のお母《ふくろ》でございますが、こちらのお上さんに少しお目にかかりたくてまいりましたので……」
「まあ阿母《おッか》さん、よくまあ!」とお光は急いで店先へ出迎える。
媼さんはニコニコしながら、「とうとうお邪魔に出ましたよ。不断は御無沙汰《ごぶさた》ばかりしているくせに、自分の用があると早速こうしてねえ、本当に何という身勝手でしょう」
「まあこちらへお上んなさいよ、そこじゃ御挨拶も出来ませんから」
「ええ、それじゃ御免なさいましよ、御遠慮なしに」とお光の後について座敷へ通りながら、「昨日あの、ちょいと端書を上げておきましたが……」
「あれがね、阿母さん、遅れてつい今し方着いたんですよ」
「まあ、そうですかよ。やっぱり字の書きようが拙《まず》いので、読めにくくってそれで遅れたんでございましょうね。それじゃお光さんにも読みづらかったでしょう、昔者の私が書いたのですからねえ」
「いいえ、そんなことはありませんよ。私にはよく分りましたけど、全くそういうわけで御返事を上げなかったんですから……さあどうぞお敷き下さい」
お光は蓐《しとね》火鉢と気を利かして、茶に菓子に愛相よくもてなしながら、こないだ上った時にはいろいろ御馳走になったお礼や、その後一度伺おう伺おうと思いながら、手前にかまけてつい御無沙汰をしているお詫《わ》びなど述べ終るのを待って、媼さんは洋銀の細口の煙管《きせる》をポンと払《はた》き、煙をフッと通して、気忙しそうに膝を進める。
「実はね、お光さん、今日わざわざお邪魔に上りましたのもね、やっぱりその、こないだおいで下さいましたあの話でございますがね。どうでしょう、私はもとよりのこと、お仙もぜひお世話が願いたいとそう申しているのですが……向う様のお口振りはどんなでしょう?」
「向うですか……」と言って、お光は黙って考えている。
媼さんは心もとなげに眺めていたが、一段声を低めて、「これはね、ここだけの話ですが――もっとも、お光さんは何もかも知っておいでなさることだから、お談しせずともだけれど、あれも来年はもう二十《はたち》でございますからね。それに御存じの通りの為体《ていたらく》で、一向|支度《したく》らしい支度もありませんし、おまけに私という厄介者《やっかいもの》まで附いているような始末で、正直なところ、今度のような話を取り逃した日には、滅多《めった》にもうそういう口はございませんからね……これはお光さんだけへの話ですけれど、私はどうか今度の話が纏《まと》まるように、一生懸命お不動様へ願がけしているくらいなんですよ」
「ほほほ、阿母さんもあまりそれは、安く自分で落し過ぎますよ。可哀そうにお仙ちゃんは、縹致《きりょう》だって気立てだってあの通り申し分ないんですもの、そりゃ行こうとなさりゃどんなところへでも……」
「いいえ、そんなことを思っていると大間違いです。こないだもね、お光さんがおいで下すった時に、何だかあれが煮えきらない様子でしたから、後で私がそう言って聞かしたことですよ。お前なんぞ年が若いから、もしね、人並みの顔や姿でとんだ自惚《うぬぼ》れでも持って、あの、口なくして玉の輿《こし》なんて草双紙にでもあるようなことを考えてるなら、それこそ大間違い! 妾手掛《めかけてか》けなら知らないこと、この世知辛い世に顔や縹致で女房を貰う者は、唐天竺《からてんじく》にだってありはしない。縹致よりは支度、支度よりは持参、嫁の年よりはまず親の身代を聞こうという代世界《よせかい》だもの、そんな自惚れなんぞ決してお持ちでないって、ねえ、そう言ったことですよ」
「だって、何ぼ今の代世界だって、阿母さんのようにそう一概に言ったものでもありませんよ。随分また縹致や気立てに惚れた縁組も、世間にないとは限りませんもの。阿母さんのように言ってしまった日には、まるで男女《おとこおんな》の情間《じょうあい》なんてものはなさそうですけど、今だって何じゃありませんか、惚れたのはれたのと、欲も得も忘れて一生懸命になる人もあるし、よくそんな話が新聞なぞにも出ているじゃありませんか」とお光は真剣になって弁駁《べんばく》する。
「ええ、それはそうですね。私なぞも新聞を見るたび、どうしてこんなことがと不思議に思うようなことがよくありますからね。それは広い世間ですから、いろいろなこともございますよね」と媼さんはいい加減にあしらって、例の洋銀の煙管《きせる》で一服吸ってから、「それで、何でしょうか、写真は向う様へお見せ下さいましたでしょうか?」
「ええ、それは見せました、こないだ私がお宅から帰ると、都合よくちょうど先の人が来合わせたものですから」
「それで、御覧なさいましてどんなお口振りでした?」
「別にその時は……何しろ急いでいたものですからね、とにかく借してくれってそのまま持って行きましたが……それは、お仙ちゃんのあの縹致ですから、あれを見て気に入らないってことはありますまいよ」とお光は気の乗らぬ笑顔をする。
「ですがね、あの写真は変に目が怖《こわ》く写っていますから……」
「そんなことはありゃしませんよ。けれど、ただね、ちとどうも若過ぎやしないかって……」
「ええ、私もそれを言わないことじゃなかったのですよ、あまりあれじゃはで作りで、どう見ても七か八に見えますもの。正真なところ、二月生まれの十九ですから……お光さんからもそう
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