深川女房
小栗風葉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)間鴨《あいがも》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今年|幾歳《いくつ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)「え※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
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一
深川八幡前の小奇麗な鳥屋の二階に、間鴨《あいがも》か何かをジワジワ言わせながら、水昆炉《みずこんろ》を真中に男女の差向い。男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳《がんじょう》な二十七八の若者で、花色裏の盲縞《めくらじま》の着物に、同じ盲縞の羽織の襟《えり》を洩《も》れて、印譜散らしの渋い緞子《どんす》の裏、一本筋の幅の詰まった紺博多の帯に鉄鎖を絡《から》ませて、胡座《あぐら》を掻《か》いた虚脛《からすね》の溢《は》み出るのを気にしては、着物の裾《すそ》でくるみくるみ喋《しゃべ》っている。
女は二十二三でもあろうか、目鼻立ちのパラリとした、色の白い愛嬌《あいきょう》のある円顔《まるがお》、髪を太輪《ふとわ》の銀杏《いちょう》返しに結って、伊勢崎の襟のかかった着物に、黒繻子《くろじゅす》と変り八反の昼夜帯、米琉《よねりゅう》の羽織を少し抜《ぬ》き衣紋《えもん》に被《はお》っている。
男はキュウと盃《さかずき》を干して、「さあお光さん、一つ上げよう」
「まあ私は……それよりもお酌《しゃく》しましょう」
「おっと、零《こぼ》れる零れる。何《なん》しろこうしてお光さんのお酌で飲むのも三年振りだからな。あれはいつだったっけ、何でも俺《おれ》が船へ乗り込む二三日前だった、お前《めえ》のところへ暇乞《いとまご》いに行ったら、お前の父《ちゃん》が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕《しろあばた》のある何とかいう清元の師匠が来るやら、夜一夜《よッぴて》大騒ぎをやらかしたあげく、父がしまいにステテコを踊り出した。ね、酔ってるものだからヒョロヒョロして、あの大きな体《からだ》を三味線の上へ尻餅《しりもち》突いて、三味線の棹《さお》は折れる、清元の師匠はいい年して泣き出す、あの時の様子ったらなかったぜ、俺《おら》は今だに目に残ってる……だが、あんな元気のよかった父が死んだとは、何だか夢のようで本当にゃならねえ、一体何病気で死んだんだい?」
「病気も何もありゃしないのさ。いつもの通り晩に一口飲んで、いい機嫌《きげん》になって鼻唄《はなうた》か何かで湯へ出かけると、じき湯屋の上《かみ》さんが飛んで来て、お前さんとこの阿父《おとっ》さんがこれこれだと言うから、びっくらして行って見ると、阿父さんは湯槽《ゆぶね》に捉まったままもう冷たくなってたのさ。やっぱり卒中で……お酒を飲んで湯へ入るのはごくいけないんだってね」
「そうかなあ、酒呑《さけの》みは気をつけることだ。そのくせ俺は湯が好きでね」
「そうね。金さんは元から熱湯好《あつゆず》きだったね。だけど、酔ってる時だけは気をおつけよ、人事《ひとごと》じゃないんだよ」
「大きに! まだどうも死ぬにゃ早いからな」
「当り前さ、今から死んでたまるものかね。そう言えば、お前さん今年|幾歳《いくつ》になったんだっけね?」
「九さ、たまらねえじゃねえか、来年はもう三十|面《つら》下げるんだ。お光さんは今年三だね?」
「ええ、よく覚えててね」と女はニッコリする。
「そりゃ覚えてなくって!」と男もニッコリしたが、「何《なん》しろまあいいとこで出逢《であ》ったよ、やっぱり八幡様のお引合せとでも言うんだろう。実はね、横浜《はま》からこちらへ来るとすぐ佃《つくだ》へ行って、お光さんの元の家を訪ねたんだ。すると、とうにもうどこへか行ってしまって、隣近所でも分らないと言うものだから、俺はどんなにガッカリしたか知れやしねえ」
「私ゃまた、鳥居のところでお光さんお光さんて呼ぶから、誰かと思ってヒョイと振り返って見ると、金さんだもの、本当にびっくらしたわ。一体まあ東京を経《た》ってから今日までどうしておいでだったの?」
「さあ、いろいろ談《はな》せば長いけれど……あれからすぐ船へ乗り込んで横浜を出て、翌年《あくるとし》の春から夏へ、主に朝鮮の周囲《いまわり》で膃肭獣《おっとせい》を逐《お》っていたのさ。ところが、あの年は馬鹿にまた猟がなくて、これじゃとてもしようがないからというので、船長始め皆が相談の上、一番度胸を据《す》えて露西亜《ろしや》の方へ密猟と出かけたんだ。すると、運の悪い時は悪いもので、コマンドルスキーというとこでバッタリ出合《でッくわ》したのが向うの軍艦! こっちはただの帆前船で、逃げも手向いも出来たものじゃねえ、いきなり船は抑えられてしまうし、乗ってる者は残らず珠数繋《じゅずつな》ぎにされて、向うの政府の猟船が出張って来るまで、そこの土人へ一同お預けさ」
「まあ! さぞねえ。それじゃ便りのなかったのも無理はないね」
「便りがしたくたって、便りのしようがねえんだもの」
女は頷《うなず》いて、「それからどうしたの?」
「それから、間もなく露西亜の猟船というのがやって来たんだ。ところが、向うの船は積荷が一杯で、今度は載《の》ッけて行くわけに行かねえからこの次まで待てと言うんで、俺たちはそのまま島へ残されたんだ。今になると残されてよかったので、あの時連れて行かれようものなら、浦塩《うらじお》かどこかの牢《ろう》で今ごろはこッぴどい目に遭《あ》ってる奴さ。すると、そのうちに今度の戦争が押《お》ッ始《ぱじ》まったものだから、もう露西亜も糞もあったものじゃねえ、日本の猟船はドシドシコマンドルスキー辺へもやって来るという始末で、島から救い出されると、俺《おら》はすぐその船で今日まで稼《かせ》いで来たんだが……考えて見りゃ運がよかったんだ。辞《ことば》も何にも分らねえ髭《ひげ》ムクチャの土人の中で、食物もろくろく与《あてが》われなかった時にゃ、こうして日本へ帰って無事にお光さんに逢おうとは、全く夢にも思わなかったよ」
「そうだろうともねえ、察しるよ! 私も――縁起でもないけど――何《なん》しろお前さんの便りはなし、それにあちこち聞き合わして見ると、てんで船の行方《ゆくえ》からして分らないというんだもの。ああ気の毒に! 金さんはそれじゃ船ぐるみ吹き流されるか、それとも沖中で沈んでしまって、今ごろは魚の餌食《えじき》になっておいでだろうとそう思ってね、私ゃ弔供養《といくよう》をしないばかりでいたんだよ。本当にまあ、それでもよく無事で帰っておいでだったね」
男はこの時気のついたように徳利を揮《ふ》って見て、「ははは、とんだ滅入《めい》った話になって、酒も何も冷たくなってしまった。お光さん、ちっともお前やらねえじゃねえか、遠慮をしてねえでセッセと馬食《ぱく》ついてくれねえじゃいけねえ」と言いながら、手を叩いて女中を呼び、「おい姐《ねえ》さん、銚子《ちょうし》の代りを……熱く頼むよ。それから間鴨《あい》をもう二人前、雑物《ぞうもつ》を交ぜてね」
で、間もなくお誂《あつら》えが来る。男は徳利を取り揚げて、「さあ、熱いのが来たから、一つ注《つ》ごう」
女も今度は素直に盃を受けて、「そうですか、じゃ一つ頂戴しましょう。チョンボリ、ほんの真似《まね》だけにしといておくんなさいよ」
「何だい卑怯なことを、お前も父《ちゃん》の子じゃねえか」
「だって、女の飲んだくれはあんまりドッとしないからね」
「なあに、人はドッとしなくっても、俺はちょいとこう、目の縁を赤くして端唄《はうた》でも転《ころ》がすようなのが好きだ」
「おや、御馳走様! どこかのお惚気《のろけ》なんだね」
「そうおい、逸《はぐ》らかしちゃいけねえ。俺は真剣事《しんけんこ》でお光さんに言ってるんだぜ」
「私に言ってるのならお生憎様《あいにくさま》。そりゃお酒を飲んだら赤くはなろうけど、端唄を転がすなんて、そんな意気な真似はお光さんの格《がら》にないんだから」
「あんまりそうでもなかろうぜ。忘れもしねえが、何でもあれは清元の師匠の花見の時だっけ、飛鳥山《あすかやま》の茶店で多勢《おおぜい》芸者や落語家《はなしか》を連れた一巻《いちまき》と落ち合って、向うがからかい半分に無理|強《じ》いした酒に、お前は恐ろしく酔ってしまって、それでも負けん気で『江戸桜』か何か唄って皆をアッと言わせた、ね、覚えてるだろう」
「そうそう、そんなことがあったっけね。あれはこうと、私が十九の春だっけ。あのころは随分私もお転婆だったが……ああ、もうあのころのような面白いことは二度とないねえ!」としみじみ言って、女はそぞろに過ぎ去った自分の春を懐《なつ》かしむよう。
「ははは、何だか馬鹿に年寄り染《じ》みたことを言うじゃねえか。お光さんなんざまだ女の盛りなんだもの、本当の面白いことはこれからさ」
「いいえ、もうこんな年になっちゃだめだよ。そりゃ男はね、三十が四十でも気の持ちよう一つで、いつまでも若くていられるけど、女は全く意気地がありませんよ。第一、傍《はた》がそういつまでも若い気じゃ置かせないからね。だから意気地がないというより、女はつまり男に比べて割が悪いのさね」
「いけねえいけねえ、じきどうも話が理に落ちて……」と男は手酌でグッと一つ干して、「時に、聞くのを忘れてたが、お光さんはそれで、今はどこにいるの、家は?」
「私?」女はちょっと言い渋ったが、「今いるとこはやっぱり深川なの」
「深川は分ってるが、町は?」
「町は清住町、永代《えいたい》のじき傍《そば》さ」
「そうか、永代の傍で清住町というんだね、遊びに行くよ。番地は何番地だい?」
「清住町の二十四番地。吉田って聞きゃじき分るわ」
「吉田? 何だい、その吉田てえのは?」
「私の亭主の苗字《みょうじ》さ」と言って、女は無理に笑顔を作る。
「え※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と男は思わず目を見張って顔を見つめたが、苦笑いをして、「笑談《じょうだん》だろう?」
「あら、本当だよ。去年の秋|嫁《かたづ》いて……金さんも知っておいでだろう、以前やっぱり佃《つくだ》にいた魚屋の吉新、吉田新造って……」
「吉田新造! 知ってるとも。じゃお光さん、本当かい?」
「はあ」と術なげに頷《うなず》く。
「ふむ!」とばかり、男は酔《え》いも何も醒《さ》め果ててしまったような顔をして、両手を組んで差し俯《うつむ》いたまま辞《ことば》もない。
女もしばらくは言い出づる辞もなく、ただ愁《つら》そうに首をば垂《た》れて、自分の膝《ひざ》の吹綿《ふきわた》を弄《いじ》っていたが、「ねえ金さん、お前さんもこれを聞いたら、さぞ気貧《きまず》い女だとお思いだろうが……何しろ阿父さんには死なれてしまうし、便りにしていたお前さんはさっき言う通りで、どうも十中八九はこの世においでじゃなさそうに思われるし、と言ってほかに力になるような親内《みうち》らしい親内もないものだから、私一人ぼっちで本当に困ってしまったんだよ。そこへちょうど吉新の方から話があって、私も最初は煮えきらない返事をしていたんだけど、もう年が年だからって、傍《はた》でヤイヤイ言うものだから、私もとうとうその気になってしまったようなわけでね……金さん、お前さんも何だわ――今さらそう言ったってしようがないけど――せめて無事だというだけでも便りをしておくれだったら……もっとも話のようじゃそれもできなかったか知らないが……」
「そうさ、それが出来るようなら文句はねえんだが……」と遣瀬《やるせ》なさそうに面を挙げて、「そりゃね、お光さんが亭主を持とうとどうしようと、俺がかれこれ言う筋はねえ。ねえけれど……お光さん、お前も俺の胸の内は察してくれるだろう」
「ええ、そりゃもうね」
「せめて何か、口約束でもした中と言うならだが、元々そんなことのあったわけじゃなし、それにお前の話を聞いて見りゃ一々もっともで、どうもこれ、怨《うら》みたくも怨みようがねえ……けれど、俺は理
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