屈はなしに怨めしいんで……」
「…………」
「何もお光さんで見りゃそんな気があって言ったんじゃあるめえが、俺がいよいよ横浜《はま》へ立つという朝、出がけにお前の家へ寄ったら、お前が繰り返し待ってるからと言ってくれた、それを俺はどんなに胸に刻んで出かけたろう! けれど、考えて見りゃ誰だってそのくらいのことはお世辞に言うことで……」
「金さん!」と女は引手繰《ひったく》るように言って、「お世辞なんてあんまりだよ! 私ゃそんなつもりじゃない。そりゃなるほど、口へ出しては別にこうと言ったことはないけれど、私ゃお前さんの心も知っていたし、私の心もお前さんは知っていておくれだったろう。それだのに、今さらそんな……」
「まあいいやな」と男は潔《いさぎよ》く首を掉《ふ》って、「お互いに小児《がき》の時から知合いで、気心だって知って知って知り抜いていながら、それが妙な羽目でこうなるというのは、よくよく縁がなかったんだろう! いや、こうなって見るとちと面目ねえ、亭主持ちとは知らずに小厭《こいや》らしいことを聞かせて。お光さん、どうか悪く思わねえでね、これはこの場|限《ぎ》り水に流しておくんなよ」
「どうもお前さんが、そう捌《さば》けて言っておくれだと、私はなおと済まないようで……」
「何がお光さんに済まねえことがあるものか、済まねえのは俺よ。だが、そんなことはまあどうでもいいとして、この後もやっぱりこれまで通り付き合っちゃくれるだろうね?」
「なぜ? 当り前じゃないかね?」
「だって、亭主がありゃ、もう野郎の友達なんざ要《い》らねえかと思ってさ」と寂しい薄笑いをする。
「はばかりさま! そんな私じゃありませんよ」と女はむきになって言ったが、そのまま何やらジッと考え込んでしまった。
男はわざと元気よく、「そんなら俺も安心だ、お前とこの新さんとはまんざら知らねえ中でもねえし、これを縁に一層また近しくもしてもらおう。知っての通り、俺も親内《みうち》と言っちゃ一人もねえのだから、どうかまあ親類付合いというようなことにね……そこで、改めて一つ上げよう」
差さるる盃を女は黙って受けたが、一口附けると下に置いて、口元を襦袢《じゅばん》の袖で拭《ぬぐ》いながら、「金さん、一つ相談があるが聞いておくれでないか?」
「ひどく改まったね。何だい、相談てえのは?」
「ほかではないがね、お前さんに一人お上さんを取り持とうと思うんだが……」
「女房を? そうさね……何だか異《おつ》りきに聞えるじゃねえか、早く一人押ッ付けなきゃ寝覚《ねざ》めが悪いとでも言うのかい?」
「おや、とんだ廻《まわ》り気《ぎ》さ。私はね、お前さんが親類付合いとお言いだったから、それからふと考えたんだが……お前さんだってどうせ貰わなきゃならないんだから、一人よさそうなのを世話して上げたら私たちが仲人というので、この後も何ぞにつけ相談|対手《あいて》にもなれようと思って、それで私はそう言って見たんだが……どうだね、私たちの仲人じゃ気に入らないかね?」
「なに、そんなことはねえ、新さんとお光さんの仲人なら俺にゃ過ぎてらあ。だが、仲人はいいが……」と言い半《さ》して、そのまま伏目になって黙ってしまう。
「仲人はいいが、どうしたのさ?」
男は目を輝かせながら、「どうだろう? お光さん」
「え?」
「せめてお光さんの影法師ぐらいのがあるだろうか?」
「何だね、この人は! 私ゃ真面目で談《はな》してるんだよ」
「俺も真面目さ」
「まあ笑談は措《お》いて、きっとこれから金さんの気に入ろうというのを世話するから、私に一つお任せなね」
「そりゃ任せようとも、お前に似てさえいりゃ俺の気に入るんだから」
「およしよ、からかうのは。私のようなこんな気の利かないお多福でなしに、縹致《きりょう》なら気立てなら、どこへ出しても恥かしくないというのを捜して上げるから、ね、今から楽しみにして待っておいでな」
「まあその気で待っていようよ。おいお光さん、談してばかりいて一向やらねえじゃねえか。どうだい酒が迷惑なら飯をそう言おう」
「いえ、もうお飯《まんま》も何もたくさん。さっきから遠慮なしに戴いて、お腹が一杯だから」
「だって、一膳ぐらいいいだろう? 俺も付き合う」
「お前さんはまだお酒じゃないか、私ゃ本当にたくさんなの。それにあんまり遅くなっても……」
「なるほど、違えねえ、新さんが案じてるだろう」
「癪《しゃく》をお言いでないよ! だが、全くのことがね、この節内のは体が悪くて寝てるものだからね」
「そうか、そいつはいけねえな」
二
永代橋傍の清住町というちょっとした町に、代物《しろもの》の新しいのと上さんの世辞のよいのとで、その界隈《かいわい》に知られた吉新という魚屋がある。元は佃島の者で、ここへ引っ越して来てからまだ二年ばかりにもならぬのであるが、近ごろメッキリ得意も附いて、近辺の大店《おおたな》向きやお屋敷方へも手広く出入りをするので、町内の同業者からはとんだ商売|敵《がたき》にされて、何のあいつが吉新なものか、煮ても焼いても食えねえ悪新だなぞと蔭口《かげぐち》を叩《たた》く者もある。
けれど、その実吉新の主《あるじ》の新造というのは、そんな悪《わる》でもなければ善人でもない平凡な商人で、わずかの間にそうして店をし出したのも、単に資本《もとで》が充分なという点と、それに連れてよそよりは代物をよく値を安くしたからに過ぎぬので、親父《おやじ》は新五郎といって、今でもやっぱり佃島に同じ吉新という名で魚屋をしていて、これは佃での大店である。
で、店は繁昌するし、後立てはシッカリしているし、おまけに上さんは美しいし、このまま行けば天下泰平吉新万歳であるが、さてどうも娑婆《しゃば》のことはそう一から十まで註文《ちゅうもん》通りには填《は》まらぬもので、この二三箇月前から主はブラブラ病《わずら》いついて、最初は医者も流行感冒《はやりかぜ》の重いくらいに見立てていたのが、近ごろようよう腎臓病と分った。もっとも、四五年前にも同じ病気に罹《かか》ったのであるが、その時は急発であるとともに三週間ばかりで全治したが、今度のはジリジリと来て、長い代りには前ほどに苦しまぬので、下腹や腰の周囲《まわり》がズキズキ疼《うず》くのさえ辛抱すれば、折々熱が出たり寒気がしたりするくらいに過ぎぬから、今のところではただもう暢気《のんき》に寝たり起きたりしている。帳場と店とは小僧対手に上さんが取り仕切って、買出しや得意廻りは親父の方から一人|若衆《わかいしゅ》をよこして、それに一切任せてある。
今日は不漁《しけ》で代物が少なかったためか、店はもう小魚一匹残らず奇麗に片づいて、浅葱《あさぎ》の鯉口《こいぐち》を着た若衆はセッセと盤台を洗っていると、小僧は爼板《まないた》の上の刺身の屑《くず》をペロペロ摘《つま》みながら、竹箒《たけぼうき》の短いので板の間を掃除している。
若衆は盤台を一枚洗い揚げたところで、ふと小僧を見返って、「三公、お上さんはいつごろ出かけたんだい?」
「そうだね、何でも為さん(若衆の名)が得意廻りに出るとじきだったよ」
「それにしちゃ馬鹿に遅いじゃねいか。何だかこの節お上さんの様子が変だぜ、店の方も打遣《うっちゃ》らかしにして、いやにソワソワ出歩いてばかりいるが……」
「なあにね、今日は不漁《しけ》で店が閑《ひま》だから、こんな時でなけりゃゆっくり用足しにも出られないって」
「へ! 何の用足しだか知れたものじゃねえ、こう三公、いいことを手前に訓《おし》えてやらあ、今度お上さんが出かけるだったらな、どうもお楽しみでございますねって、そう言って見や、鼻薬の十銭や二十銭黙ってくれるから」
「おいらはそんなことを言わなくたって、お上さんにゃしょっちゅう小使いを貰《もら》ってらあ」
「ちょ! 芝居気のねえ野郎だな」と独言《ひとりご》ちて、若衆は次の盤台を洗い出す。
しばらくするとまた、「こう三公」
「何だね? 為さん」
「そら、こないだお上さんのとこへ訪ねて来た男があるだろう……」
「為さんはまたお上さんのことばっかり言ってるね」
「ふざけるない! こいつ悪く気を廻しやがって……なあ、こないだ金之助てえ男が訪ねて来たろう」
「うむ、海に棲《す》んでる馬だって、あの大きな牙《きば》を親方のとこへ土産《みやげ》に持って来たあの人だろう」
「あいつさ、あいつはあれ限《ぎ》りもう来ねえのか?」
「来ねえようだよ」
「偽《うそ》つけ! 来ねえことがあるものか」
「じゃ、為さん見たのか?」
「俺は手前、毎日得意廻りに出ていねえんだもの、見やしねえけれど大抵当りはつかあ」
「そうかね」
「そうとも。きっと何だろう、店先へ買物にでも来たような風をして、親方の気のつかねえように、何かボソボソお上さんと内密話《ないしょばなし》をしちゃ、帰って行くんだろう。なあ、どうだ三公、当ったろう?」
小僧は怪訝《けげん》な顔をして、「俺《おいら》はそんなとこを見たことはねえよ。だって、あれからまだ一度も来たのは知らねえもの」
「本当か?」
「ああ、本当に!」
「そんなはずはねえがな」と若衆は小首を傾《かた》げたが、思い出したように盤台をゴシゴシ。
十分ばかりもゴシゴシやったと思うと、またもや、「三公」
「三公三公って一々呼ばなくても、三公はここにいるよ」
「お上さんのとこへ、この節郵便が来やしねえか?」
「郵便はしょっちゅう来るよ」
「なあに、しょっちゅう来るのでなしに、お上さんが親方へ見せずに独りで読むのが?」
「どうだか、俺《おいら》はそんなことは気をつけてねえから……や! お上さん」
「え※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と若衆も驚いて振り返ると、お上さんのお光はいつの間にか帰って背後《うしろ》に立っている。
「精が出るね」
「へへ、ちっともお帰んなすったのを知らねえで……外はお寒うがしょう?」
「何だね! この暖《あった》かいのに」と蝙蝠傘《こうもりがさ》を畳む。
「え、そりゃお天気ですからね」と為さんこのところ少《すこ》てれの気味。
お光は店を揚《あが》って、脱いだ両刳《りょうぐ》りの駒下駄《こまげた》と傘とを、次の茶の間を通り抜けた縁側の隅《すみ》の下駄箱へ蔵《しま》うと、着ていた秩父銘撰《ちちぶめいせん》の半纏《はんてん》を袖畳みにして、今一間茶の間と並んだ座敷の箪笥《たんす》の上へ置いて、同じ秩父銘撰の着物の半襟のかかったのに、引ッかけに結んだ黒繻子の帯の弛《ゆる》み心地なのを、両手でキュウと緊《し》め直しながら二階へ上って行く。その階子段《はしごだん》の足音のやんだ時、若衆の為さんはベロリと舌を吐いた。
「三公、手前お上さんの帰ったのを知って、黙ってたな?」
「偽《うそ》だよ! 俺はこっちを向いて話してたもんだから、あの時まで知らなかったんだよ」
「俺の喋ってたことを聞いたかしら?」
「聞いたかも知れんよ」
「ちょ! どうなるものか」と言いさまザブリと盤台へ水を打《ぶ》っ注《か》けて、「こう三公、掃除が済んだら手前もここへ来や。早く片づけて、明るいうちに湯へ行くべえ」
後は浪花節《なにわぶし》を呻《うな》る声と、束藁《たわし》のゴシゴシ水のザブザブ。
二階には腎臓病の主《あるじ》が寝ているのである。窓の高い天井の低い割には、かなりに明るい六畳の一間で、申しわけのような床の間もあって、申しわけのような掛け物もかかって、お誂《あつら》えの蝋石《ろうせき》の玉がメリンスの蓐《しとね》に飾られてある。更紗《さらさ》の掻巻《かいまき》を撥《は》ねて、毛布をかけた敷布団の上に胡座《あぐら》を掻いたのは主の新造で、年は三十前後、キリリとした目鼻立ちの、どこかイナセには出来ていても、真青な色をして、少し腫《むく》みのある顔を悲しそうに蹙《しか》めながら、そっと腰の周囲《まわり》をさすっているところは男前も何もない、血気盛りであるだけかえってみじめが深い。
差し向って坐ったお光は、「私の留守に、どこか変りはなかったかね?」
「別に
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