どこも……相変らずズキズキ疼《うず》くだけよ」
「どうかその、疼くだけでも早く医者の力で直らないものかねえ! あまり痛むなら、菎蒻《こんにゃく》でも茹《ゆ》でて上げようか?」
「なに、懐炉を当ててるから……今日はそれに、一度も通じがねえから、さっき下剤《くだし》を飲んで見たがまだ利かねえ、そのせいか胸がムカムカしてな」
「いけないね、じゃもう一度下剤をかけて見たらどうだね!」
「いいや、もう少し待って見て、いよいよ利きが見えなかったら灌腸《かんちょう》しよう」と下腹をさすりながら、「どうだったい、お仙ちゃんの話は?」
「まあ九分までは出来たようなものさ、何しろ阿母《おっか》さんが大弾《おおはず》みでね」
「お母《ふくろ》の大弾みはそのはずだが、当人のお仙ちゃんはどうなんだい?」
「どうと言って、別にこうと決った考えがあるのでもないから、つまり阿母さん次第さ。もっともあの娘《こ》の始めの口振りじゃ、何でも勤人のところへ行きたい様子で、どうも船乗りではと、進まないらしいようだったがね、私がだんだん詳《くわ》しい話をして、並みの船乗りではない、これこれでこういうことをする人だと割って聞かしたものだから、しまいにはいろいろ自分の方から問いを出して考えていたっけ。あの通り縹致《きりょう》はいいし、それに読み書きが好きで、しょっちゅう新聞や小説本ばかり覗《のぞ》いてるような風だから、幾らか気位が高くなってるんでしょう」
「だってお前、気位が高いから船乗りが厭《いや》だてえのは間違ってる。そりゃ三文渡しの船頭も船乗りなりゃ川蒸気の石炭|焚《た》きも船乗りだが、そのかわりまた汽船の船長だって軍艦の士官だってやっぱり船乗りじゃねえか。金さんの話で見りゃなかなか大したものだ、いわば世界中の海を跨《また》にかけた男らしい為事《しごと》で、端《はした》月給を取って上役にピョコピョコ頭を下げてるような勤人よりか、どのくらい亭主に持って肩身が広いか知れやしねえ」
「本当にね、私もそう思うのさ。第一気楽じゃないか、亭主は一年の半分上から留守で、高々三月か四月しか陸《おか》にいないんだから、後は寝て暮らそうとどうしょうと気儘《きまま》なもので……それに、貰《もら》う方でなるべく年寄りのある方がいいという注文なんだから、こんないい口がほかにあるものかね。お仙ちゃんが片づけば、どうしたってあの阿母さんは引き取るか貢ぐかしなけりゃならないのだが、まあ大抵の男は、そんな厄介《やっかい》附きは厭がるからね」
「そうさ、俺にしても恐れらあ。だが、金さんの身になりゃ年寄りでも附けとかなきゃ心配だろうよ、何しろ自分は始終留守で、若い女房を独り置いとくのだから……なあお光、お前にしたって何だろう、亭主は年中家にいず、それで月々仕送りは来て、毎日遊んで食って寝るのが為事としたら、ちょいとこう、浮気の一つも稼いで見る気にならねえものでもなかろう」と腰をさすりさすり病人|厭言《いやごと》を言う。
 お光は済ましたもので、「そうね、自分がなって見ないことにゃ何とも分りませんね」
 と、言っているところへ、階子段《はしごだん》の下から小僧の声で、「お上さん、お上さん」
「あいよ。何だね、騒々しい!」
「お上さん!」
「あいよったら!」
 小僧はついにその返事が聞えなかったと見えて、けたたましく階子段を駈け上って来て、上り口からさらに、
「お上さん!」
「何だよ! さっきから返事をしてるじゃないか」
「そうですか」と小僧は目をパチクリさせて、そのまま下りて行こうとする。
「あれ、なぜ黙って行くのさ。呼んだのは何の用だい?」
「へい、お客様で……こないだ馬の骨を持って来たあの人が……」
「何、馬の骨だって?」と新造。
「いいえ、きっとあの金さんのことなんですよ」
「ええ、その金さんのことなんで」
「金さんだなんて、お前なぞがそんな生意気な口を利くものじゃない!」
「へい」
 お光は新造に向って、「どうしましょう、ここへ通しましょうか?」
「ここじゃあんまり取り散らかしてあるから、下の座敷がいいじゃねえか」
「じゃ、とにかく座敷へ通しましょう」とお光が立ちかかると、小僧は身を返してバタバタと先へ下りて行く。
 店先へ立ち迎えて見ると、客は察しに違《たが》わぬ金之助で、今日は紺の縞羅紗《しまらしゃ》の背広に筵織《むしろお》りのズボン、鳥打帽子を片手に、お光の請ずるまま座敷へ通ったが、後見送った若衆の為さんは、忌々《いまいま》しそうに舌打ち一つ、手拭《てぬぐい》肩にプイと銭湯へ出て行くのであった。
 金之助は座に着くとまず訊ねた、「どうだね、新さんの病気は?」
「どうも相変らずでね」
「やっぱり方々が疼くんだね?」
「はあ。どうかその疼くだけでも留ったらとそう思うんだけどね……自分も苦しいだろうが、どうも見ていて傍《はた》がたまらないのさ」とお光は美しい眉根《まゆね》を寄せてしみじみ言ったが、「もっともね、あの病気は命にどうこうという心配がないそうだから、遅かれ早かれ、いずれ直るには違いないから気丈夫じゃあるけど、何しろ今日の苦しみが激しいからね、あれじゃそりゃ体も痩《や》せるわ」
「まあしかし、直るという当てがあるからいいやな。あまり心配して、お光さんまで体を悪くするようなことがあっちゃ大変だ」
「ありがとう、私ゃなに、これで存外体は丈夫なんだからね」とまずニッコリしながら、「金さん、今日はお前さんいいとこへおいでだったよ。実はね、明日あたりお前さんの方へ出向こうかと思ってたのだが……それはそれは申し分のない、金さんのお上さんに誂え向きといういい娘《こ》が見《め》ッかったんだよ」
「そいつはありがたいね、ははは、金さんに誂え向きの娘《こ》なら、飴《あめ》の中のお多さんじゃねえか」
「あれ、笑談《じょうだん》じゃないんだよ。まあ写真を見せるから……」と立ちかける。
「いや、お光さん、写真も写真だが、今日は実は病気見舞いに来たんだから、まずちょいと新さんに会いてえものだが……」と何やら風呂敷包みを出して、「こりゃうまくはなさそうだけれど、消化《こなれ》がいいてえから、病人に上げて見てくんな」
「まあ、何だか知らないが、来るたび頂戴して済まないねえ。じゃ、取り散らかしてあるが二階へ通っておくれか」
「そうしよう」
 そこで、お光は風呂敷包みをもって先に立つと、金之助もそれについて二階へ上る。
 新造と金之助と一通り挨拶《あいさつ》の終るのを待って、お光は例の風呂敷を解いて夫に見せた。桐《きり》の張附けの立派な箱に紅白の水引をかけて、表に「越《こし》の霙《みぞれ》」としてある。
「お前さん、こんな物を頂戴しましたよ」
「そうか。いや金さん、こんなことをしておくんなすっちゃ困るね。この前はこの前であんな金目の物を貰うしまたどうもこんな結構なものを……」
「なに、そんなに言いなさるほどの物じゃねえんで……ほんのお見舞いの印でさ」
「まあせっかくだから、これはありがたく頂戴しておくが、これからはね、どうか一切こういうことはやめにして……それでないと、親類付合いに願うはずのがかえって他人行儀になるから……そう、親類付合いと言や」とお光を顧みて、「お前、お仙ちゃんの話をしたかい?」
「いえ、まだ詳しいことは……」
「じゃ、詳しく話したらどうだい?」
「はあ、じゃとにかくあの写真を……」とお光は下へ取りに行く。
 後に新造は、「お光がね、金さんにぜひどうかいいのがお世話したいと言って、こないだからもう夢中になって捜してるのさ」
「どうかそんなようで……恐れ入りますね」
「今日ちょうど一人あったんだが……これは少し私《わし》の続き合いにもなってるから、私が賞《ほ》めるのも変なものだけれど、全くのところ、気立てと言い縹致《きりょう》と言いよっぽどよく出来てるので……今写真をお目にかけるが……」と言っているところへ、お光は写真を持って上って来た。
「さあ、金さん」と差し出されたのを、金之助は手に取って見ると、それは手札形の半身で、何さま十人並み勝《すぐ》れた愛くるしい娘姿。年は十九か、二十《はたち》にはまだなるまいと思われるが、それにしても思いきってはでな下町作りで、頭は結綿《ゆいわた》にモール細工の前※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《まえざ》し、羽織はなしで友禅の腹合せ、着物は滝縞の糸織らしい。
「ねえ金さん、それならお気に入るでしょう?」とお光は笑いながら言ったが、亭主の前であるからか辞《ことば》使いが妙に改まっている。
「そうですね、私《わっし》にゃ少し過ぎてるかも知れねえて」
「そんなことはないけど、写真で見るよりかもう少し品があって、口数の少ないオットリした、それはいい娘《こ》ですよ」
「そんないい娘が、私のような乱暴者を亭主に持って、辛抱が出来るかしら」
「それは私が引き受ける」と新造が横から引き取って、「一体その娘の死んだ親父《おやじ》というのが恐ろしい道楽者で自分一代にかなりの身上《しんしょう》を奇麗に飲み潰《つぶ》してしまって、後には借金こそなかったが、随分みじめな中をお母《ふくろ》と二人きりで、少《ち》さい時からなかなか苦労をし尽して来たんだからね。並みの懐子《ふところご》とは違って、少しの苦しみや愁《つら》いくらいは驚きゃしないから」
「それもそうだし、第一金さんのとこへ片づいて、辛抱の出来ないようなそんな苦しいことや、愁いことがあろうわけがなさそうに思われるがね。それとも金さん、何かお上さんが辛抱の出来ないようなことを、これからし出来《でか》そうってつもりでもあるのかね?」
 お光の辞をどう取ったのか、金之助は心持ち顔を赤めて、「馬鹿な! そんな何が、ある理屈はねえけれど……どうもこう、見たところこんなおとなし作りの娘を、船乗りの暴《あば》れ者の女房にゃ可哀そうのようでね」
「だって、先方《さき》が承知でぜひ行きたいと言うんだもの」
「ははは、あんまりそうでもあるめえて、ねえ新さん」
「ところが、先方のお母なぞと来たら、大乗り気だそうだから、どうだね金さん、一つ真面目《まじめ》に考えて見なすったら?」と新造は大真面目なので。
「ええ、そうですね」と金之助も始めて真剣らしく、「じゃ、私もよく一つ考えて見ましょうよ」
「だが金さん、その写真は気に入ったか入らないか……まあさ、それだけお聞かせなね」
「どうもこう詰開きにされちゃ驚くね。そりゃ縹致はこれなら申し分はねえが……」
「縹致は申し分ないが、ほかに何か申し分が……」
「まあま、お光さん、とにかく一つ考えさせてもらわなけりゃ……何しろまだ家もねえような始末だから、女房を貰うにしても、さしあたり寝さすところから拵《こしら》えてかからねえじゃならねえんだからね」

     三

「実は、この間うちからどうもそんなような徴候が見えたから、あらかじめ御注意はしておいたのだが、今日のようじゃもう疑いなく尿毒性で……どうも尿毒性となると、普通の腎臓病と違ってきわめて危険な重症だから……どうです、お上《かみ》さん、もう一人誰かほかの医者にお見せなすったら。もしそれで、私の見立てが違っていたらこれに越したことはない」
 二三日来急に容体の変って来た新造の病気を診察した後で、医者は二階から下りてこうお光に言ったのである。なるほど素人目《しろうとめ》にも、この二三日の容体はさすがに気遣《きづか》われたのであるが、日ごろ腎臓病なるものは必ず全治するものと妄信していたお光の、このゆゆしげな医者の言い草に、思わず色を変えて太胸《とむね》を突いた。
「まあ! じゃその尿毒性とやらになりますと、もうむずかしいんでございますか?」
「だが、私《わし》の見立て違いかも知れんから、も一人誰かにお見せなさい」
「はい、それは見せますにしましても、先生のお見立てではもう……」
「そうです。もう疑いなく尿毒性と診断したんです! しかしほかの医者は、どうまた違った意見があるかも分りません」
「それで何でございましょうか、先生のお見
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