、そうしちゃいられないの、まだほかへ廻らなきゃならないから……」とお光は身支度しかけたが、「あの、こないだの写真は空《あ》いてて?」
「持ってくかい?」
「え、あれはほかでちょいと借りたんだから」

     五

 お光の俥は霊岸島からさらに中洲《なかず》へ廻って、中洲は例のお仙親子の住居を訪れるので、一昨日《おととい》媼さんがお光を訪ねた時の話では、明日の夕方か、明後日の午後にと言ったその午後がもう四時すぎ、昨日もいたずらに待惚《まちぼ》け食うし、今日もどうやら当てにならないらしく思われたので。
「今まで来ないところを見ると、今日も来ないんだろう、どうも一昨日行った時のお光さんの様子が――そりゃ病人を抱えていちゃ、人のことなんぞ身にも人らなかろうけれど――この前家へ来た時の気込みとはまるで違ってしまって、何だか話のあんばいがよそよそしかったもの」と娘を対手に媼さんが愚痴っているところへ、俥の音がして、ちょうどお光が来たのであった。
 親子は裁縫の師匠をしているので、つい先方《さきかた》弟子の娘たちが帰った後の、断布片《たちぎれ》や糸屑がまだ座敷に散らかっているのを手早く片寄せて、ともかくもと蓐《しとね》に請ずる。請ぜられるままお光は座に就《つ》いて、お互いに挨拶も済むと、娘は茶の支度にと引っ込む。
「一昨日はどうも……御病人のおあんなさるとこへ長々と談《はな》し込んでしまいまして、さぞ御迷惑なさいましたでしょうねえ。どうでございますね? 御病人は」
「どうも思わしくなくって困ります」とお光は辞寡《ことばすくな》に答えて、「昨日はお待ちなすったでしょうね。出よう出ようと思っても、何分にも手が空《あ》けられないものですから……今日やッと出抜けて今向うへ廻ってすぐこちらへ参ったのですよ」
「まあねえ、お忙しいとこを本当に済みませんね、御病人のお世話だけでも大抵なとこへ、とんだまたお世話をかけまして……」
「あれ、私の方から持ち込んだ話ですもの、お世話も何もありゃしませんけど……」と口籠《くちごも》るところへ、娘のお仙は茶を淹《い》れて持って来た。
 例の写真ではとても十九とは思われぬが、本人を見れば年相応に大人びている、色は少し黒いが、ほかには点の打ちどころもない縹致で、オットリと上品な、どこまでも内端《うちわ》におとなしやかな娘で、新銘撰の着物にメリンス友禅の帯、羽織だけは着更《きか》えて絹縮《きぬちぢみ》の小紋の置形、束髪に結って、薄く目立たぬほどに白粉をしている。
「お仙ちゃん、どうぞもうかまわずにね、お客様じゃないんだから」
「え、何にもかまやしないことよ」
「かまいたくも、おかまい申されないのでございますからね」と媼さんは寂しげに笑う。
「でも、この間伺った時にゃ大層御馳走になってしまって……」と今さらに娘の縹致を眺めて、「本当に、お仙ちゃんはいつ見ても美しいわね」
「あら、厭な姉さん!」
「だって、本当なんだもの。束髪も気が変っていいのね」
「結いつけないから変よ」
 媼さんが傍から、「お光さんこそいつ見ても奇麗でおいでなさるよね。一つは身飾《みだし》みがいいせいでもおありでしょうが、二三年前とちっともお変りなさいませんね」
「変らないことがあるものですか、商売が商売ですし、それに手は足りないし、装《なり》も振りもかまっちゃいられないんですもの、爺穢《じじむさ》くなるばかりですのさ」
「まあ、それで爺穢いのなら、お仙なぞもなるべく爺穢くさせたいものでございますね……あの、お仙やお前さっきの小袖を一走り届けておいでな、ついでに男物の方の寸法を聞いて来るように」
「は、じゃ行って来ましょう……姉さん、ゆっくり談していらっしゃいな、私じき行って来ますから」とお仙は立って行く。
 格子戸の開閉《あけたて》静かに娘の出て行った後で、媼さんは一膝進めて、「どうでございましょう?」
「少しね、話が変って来ましてね」
「え、変って来ましたとは?」と気遣わしそうに対手を見つめる。
「始めの話じゃ恐ろしく急ぎのようでしたけど、今日の口振りで見ると、まず家でも持って、ちゃんと体も落ち着いてしまって、それからのことにしたいって……何だかどうも気の永い話なんですよ」
「ですが、家をお持ちなさるぐらいのことに、別に手間も日間も要らないじゃございませんか」
「それがなかなかそうは行かないんですって。何しろこれまで船に乗り通しで、陸《おか》で要る物と言っちゃ下駄一足持たないんでしょう、そんなんですから、当人で見るとまた、私たちの考えるようにゃ行かないらしいんですね」
「ですがねえ。私なぞの考えで見ると、何も家をお持ちなさるからって、暮に遣《つか》う煤掃《すすは》きの煤取りから、正月飾る鏡餅《かがみもち》のお三方《さんぼう》まで一度に買い調えなきゃならないというものじゃなし、お竈《へッつい》を据えて、長火鉢を置いて、一軒のお住居をなさるにむつかしいことも何もないと思いますがね」
「それに何《なん》なんでしょう、今はまだ少し星が悪いんでしょう。そんなことも言ってましたよ」
「じゃ、話だけでも決めておいていただいたら……」
「え、それは私も言ったんですがね、向うの言うのじゃ、決めておくのはいいが、お互いにまたどういう思いも寄らない故障が起らないとも限らないから、まあもう少しとにかく待ってくれって、そう言うものですからね」
「お光さん」と媼さんは改まって言った、「どうかね、遠慮なしに本当のことを言っておくんなましよね。ほかのこととは違って、御縁のないものならしかたがないのでございますから、向う様がお断りなさいましたからって、私はそれをどうこう決して思やしませんから」
「あれ、阿母さん、私ゃ本当《ほんと》のことを言ってるんですよ、全く向うの人はそう言ってるんですよ」
「つまりそれじゃ、体《てい》よくそう言ってお断りなさいましたんでしょう?」
「そんなことがあるもんですか」と言ったが、媼さんの顔を見るといかにも気の毒そうで、しばらく考えてから、「断ったのなら、写真も返しそうなものですけど、あれはもう少し借りときたいと言ってるんですから」
「もう少し借りときたいって?」媼さんも幾らか思い返したようで、「そうすると、お断りなすったわけでもありませんかね」
「そうですとも」と言って、お光はそっと帯の上を撫《な》でる。
「けれど、いつまで待ってくれとおっしゃるのだか、それも分らないのでしょうねえ。あれも来年は二十でございますからね、もう一だの二だのという声がかかった日にゃ、それこそ縁遠いのがなお縁遠くなりますからねえ」
「阿母さんもまあ! 何ぼ何だって、そんなに一年も二年も待たされてたまるもんですか。ですからね、向うの話は向うの話にしておいて、ほかにまた話がありゃそれも聞いて見て、ちっとでもいい方へ片づけてお上げなさりゃいいじゃありませんか」
「そんなにどこから話があるものですか」
「阿母さんはじきそんなことをお言いだけど、お仙ちゃんのようなあんないい娘《こ》を……誰だって欲しがるわ。私もまだほかにも心当りがあるから、その方へも談して見ましょう。今度のもそれは悪くはないけど何しろ船乗りという商売はあぶない商売ですからね、それにどこか気風の暴《あら》ッぽい者ですから、お仙ちゃんのようなおとなしい娘には、もう少しどうかいう人の方がとそうも思うんですよ」
 ところへ、娘は帰って来た。あたりはいつか薄暗くなって、もう晩の支度にも取りかかる時刻であるから、お光はお仙の帰ったのを機《しお》に暇《いとま》を告げたのである。時分時《じぶんどき》ではあり、何もないけれど、お光さんの好きな鰻《うなぎ》でもそう言うからと、親子してしきりに留めたが、俥は待たせてあるし、家の病人も気にかかるというので、お光は強《た》って辞し帰ったのであった。
 中洲《なかず》を出た時には、外はまだ明るく、町には豆腐屋の喇叭《らっぱ》、油屋の声、点燈夫の姿が忙しそうに見えたが、俥が永代橋を渡るころには、もう両岸の電気燈も鮮《あざ》やかに輝いて、船にもチラチラ火が見えたのである。清住町へ着いたのはちょうど五時で、家の者はいずれも夕飯を済まして茶を飲んでいるところであった。
「婆やさん、私が出てから親方はどんなだったね?」
「別に変った御様子も見えませんでございますよ。ウトウト睡《ねむ》ってばかりおいでなさいましてね、時々|床瘡《とこずれ》が痛いと言っちゃ目をお覚《さ》ましなさるぐらいで……」
「お上さんが出なさるとね、じき佃の親方が見えましたよ」と若衆の為さんが言った。
「おや、そう。それでいつ阿父さんは帰ったね?」
「つい今し方帰っておいででした。何ですか、昨日の話の病人を佃の方へ移すことは、まあ少し見合わせるように……今動かしちゃ病人のためにもよくなかろうし、それから佃の方は手広いことには手広いが、人の出入りが劇《はげ》しくって騒々しいから、それよりもこっちで当分店を休んだ方がよかろうと思うから、そう言ってたとお上さんに言えってことでした。明日は朝からおいでなさるそうです」
 お光は頷《うなず》いて、着物着更えに次の間へ入った。雇い婆は二階へ上るし、小僧は食台《ちゃぶだい》を持って洗槽元《ながしもと》へ洗い物に行くし、後には為さん一人残ったが、お光が帯を解く音がサヤサヤと襖越《ふすまご》しに聞える。
「お上さん」と為さんは声をかける。
「何だね?」と襖の向うでお光の返事。
「お上さんはどこへ行ったんだって、佃の親方が聞いてましたぜ」
「…………」
「私《わっし》ゃ金さんてえ人のとこへ遊びにおいででしょうって、そう言っときましたぜ」
「…………」
「ね、お上さん」
「…………」
 答えがないので、為さんはそっと紙門《からかみ》を開けて座敷を覗くと、お光は不断着を被《はお》ったまままだ帯も結ばず、真白な足首|現《あら》わに褄《つま》は開いて、片手に衣紋《えもん》を抱えながらじっと立っている。
「為さん、お前さん本当《ほんと》にそんなことを言ったのかね?」
「ええ」と笑っている。
「言ったってかまわないけど……どんな用事があるか分りもしないのに、遊びに行ったなんて、なぜそんなよけいなことをお言いだね?」
「じゃ、やっぱり金さんのとこへ? へへへへそうだろうと思ってちょっと鎌《かま》かけたんで」
「まあ、人が悪いね?」
「へへへへ。何しろお楽しみで……」と為さんはジリジリいざり寄って来る。
「あれ、そっちへ行っておいでよ! 人が着物着更えてるのに、不躾《ぶしつけ》千万だね」

     六

 医者が今日日の暮までがどうもと小首をひねった危篤の新造は、注射の薬力に辛くも一縷《いちる》の死命を支《ささ》えている。夜は十二時一時と次第に深《ふ》けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内《みうち》の者二人と雇い婆と、合わせて七人ズラリ枕元を囲んで、ただただ息を引き取るのを待つのであった。力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし来たるのを、一同涙の目に見つめたまま、誰一人口を利く者もない。一座は化石したようにしんとしてしまって、鼻を去《か》む音と、雇い婆が忍びやかに題目を称《とな》える声ばかり。
 やがてかすかに病人の唇《くちびる》が動いたと思うと、乾《かわ》いた目を見開いて、何か求むるもののように瞳《ひとみ》を動かすのであった。
「水を上げましょうか?」とお光が耳元で訊ねると、病人はわずかに頷く。
 で、水を含ますと、半死の新造は皺涸《しわが》れた細い声をして、「お光……」と呼んだ。
「はい」と答えて、お光はまず涙を拭いてから、ランプを片手に自分の顔を差し寄せて、「私はここにいますよ、ね、分りましたか?」
「お前には世話をかけた……」
「またそんなことを……」とお光はハラハラ涙を零《こぼ》す。
「阿父さん……」
「阿父さんも皆お前の傍にいるよ。新造、寂しいか?」と新五郎は老眼を数瞬《しばたた》きながらいざり寄る。
「どうかお光の力になってやって……阿父さん、お光を
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