「…………」
「ね、お上さん」
「…………」
 答えがないので、為さんはそっと紙門《からかみ》を開けて座敷を覗くと、お光は不断着を被《はお》ったまままだ帯も結ばず、真白な足首|現《あら》わに褄《つま》は開いて、片手に衣紋《えもん》を抱えながらじっと立っている。
「為さん、お前さん本当《ほんと》にそんなことを言ったのかね?」
「ええ」と笑っている。
「言ったってかまわないけど……どんな用事があるか分りもしないのに、遊びに行ったなんて、なぜそんなよけいなことをお言いだね?」
「じゃ、やっぱり金さんのとこへ? へへへへそうだろうと思ってちょっと鎌《かま》かけたんで」
「まあ、人が悪いね?」
「へへへへ。何しろお楽しみで……」と為さんはジリジリいざり寄って来る。
「あれ、そっちへ行っておいでよ! 人が着物着更えてるのに、不躾《ぶしつけ》千万だね」

     六

 医者が今日日の暮までがどうもと小首をひねった危篤の新造は、注射の薬力に辛くも一縷《いちる》の死命を支《ささ》えている。夜は十二時一時と次第に深《ふ》けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内《みうち》の者二人と雇い婆と、合わせて七人ズラリ枕元を囲んで、ただただ息を引き取るのを待つのであった。力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし来たるのを、一同涙の目に見つめたまま、誰一人口を利く者もない。一座は化石したようにしんとしてしまって、鼻を去《か》む音と、雇い婆が忍びやかに題目を称《とな》える声ばかり。
 やがてかすかに病人の唇《くちびる》が動いたと思うと、乾《かわ》いた目を見開いて、何か求むるもののように瞳《ひとみ》を動かすのであった。
「水を上げましょうか?」とお光が耳元で訊ねると、病人はわずかに頷く。
 で、水を含ますと、半死の新造は皺涸《しわが》れた細い声をして、「お光……」と呼んだ。
「はい」と答えて、お光はまず涙を拭いてから、ランプを片手に自分の顔を差し寄せて、「私はここにいますよ、ね、分りましたか?」
「お前には世話をかけた……」
「またそんなことを……」とお光はハラハラ涙を零《こぼ》す。
「阿父さん……」
「阿父さんも皆お前の傍にいるよ。新造、寂しいか?」と新五郎は老眼を数瞬《しばたた》きながらいざり寄る。
「どうかお光の力になってやって……阿父さん、お光を
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