やうなことゝなるが、實はさうではない。藝術は又一面に於て、何うしても人格の顯はれを隱す譯には行かない。自然界は此人格を通じて表はれて來る。ミレーのものは貴族でも其間に質朴なる百姓の面影を宿し、バンダイクが描くと、百姓でも貴族の風格が備はる。私が米國に留學中に極く纎弱な優美な、恰かもシャンペン酒の看板にでもなりさうな美人の繪を手本にして畫を描いたことがあるが、ブリッヂマンといふ教師はそれを見て、之れならば全然洗濯女である。お前は到底《とて》も此樣な纎弱《デリケート》なものには適しないといはれたことがあるが、何うしても其の人の人格は隱す譯にはゆかぬ。であるから、到底私共には、彼の所謂美人の彫刻をやらうとしてもそれは不可能のことである。唯自然界における何ものにも、最も嚴肅にして深酷なる觀察を下して、私の目に映り來るところの生命を寫すところに美を認めるのである。
で、美人の彫刻と稱せられるものは頗る多い。然しそれは直ちに彼の所謂美人ではない。埃及のルーブルに於ける木彫の「若き女」の如き、最近の佛蘭西のメヨルのものゝ如き、何れも美人として名高いものではあるが、然し見たところで決して其顏は所謂輪
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
荻原 守衛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング