ない。これは然し私には受取りかねる。ロダンは「生命は美である」(Life is beauty.)といつてる通り、唯に形其まゝを寫したゞけでは美ではあるまい。必ずや、最も深酷なる觀察を下して、其内部に充實して居る生氣を十分に遺憾なく發輝したところに必ず美の觀念が起つて來るものと思ふ。今いふた通り、ミローのヴィナスは實に一點非難するところのない美人である。といつたところが、これは強《あなが》ち、彼のやうな美人を作らうとして色々と想像を廻ぐらして遣つたものではあるまいと思ふ。必ずや其當時の希臘婦人といふものはあのやうに美に富んで居つて、それを其まゝに内容や、精神までも遺憾なく寫された故に、自ら彼のやうな美人となつたのである。生命の十分に働いてるところには、如何なるものにも美は自らにして備はり、自らにして認めらるべきものである。つまり自然界といふものは、作られてあるものである。完全なる形となつて存在するものである。だから、我々も此自然界以上の何物をも作ることは出來ない。唯自然界を寫すに止まるもの、表はすに止まるものである。
 かくいふと全く一種の自然主義となつて、全然主觀なるものを沒却して了ふ
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