層雲峡の楼閣脚底に落ちて、留辺志部平原も見ゆ。偃松いつしか尽きて、ここに黒岳の一峰の上に立てり。さても大雪山の頂上の広きこと哉。南の凌雲岳、東の赤岳、北の黒岳の主峰など、ほんの少しばかり突起するだけにて、見渡す限り波状を為せる平原也。その平原は一面の砂石にして、処々に御花畑あるのみにて、目を遮《さえぎ》るものなきのみならず、足を遮るものもなし。少し下り、凌雲岳を右にして行くに、お花畑連続す。千島竜胆は紫也。雪間草は白也。小桜草は紅也。兎菊は黄也。梅鉢草、岩桔梗、四葉塩釜など一面に生いて、足を入るるに忍びざる心地す。石原の処には、駒草孤生す。清麗にして可憐なる哉。これが高山植物の女王なるべしといえば、水姓氏|頷《うな》ずき、嘉助氏も頷ずく。広義の高山植物は樹木をも含めるが、狭義の高山植物は草花也。その草花の長さ一、二寸、大なるも四、五寸を出《い》でず。その割に花は大にして、その色の鮮麗なること、底下界の花に見るべくもあらず。余は大雪山に登りて、先ず頂上の偉大なるに驚き、次ぎに高山植物の豊富なるに驚きぬ。大雪山は実に天上の神苑也。
大雪山群峰の盟主ともいうべき北鎮岳の頂に達して、さらに驚きぬ。周回三里ばかりの噴火口を控えたり。その噴火口は波状の平原に連《つらな》れるが、摺鉢《すりばち》の如くには深く陥《おちい》らず、大皿の如くにて、大雪山の頂上は南北三里、東西二里もあるべく、その周囲には北鎮岳、凌雲岳、黒岳、赤岳、白雲岳、熊ヶ岳、など崛起《くっき》し、南に連りて旭岳孤立す。南に少し離れて忠別岳あり、化雲岳あり、その末一段高まりて戸村牛岳となる。その奥右に十勝岳あり、左に石狩岳あり。北は天塩北見界の峻峰群起して我れと高さを競わんとす。気澄まば、旭川も見ゆべく、北海道の東部に雄視せる阿寒岳も見ゆべく、西部に雄視せる羊蹄山も見ゆべく、日本海も見ゆべく、太平洋も見ゆべし。飲める口の水姓氏には酒を分ち、飲めぬ口の塩谷氏には氷砂糖を分ちて、一行二分す。旭川よりの四人は残り、層雲峡よりの五人は下れり。
残れる四人も北鎮岳に残らむとするに非ず。南に下りて、雲の平を行く。この雲の平のみを以てするも、数十万人を立たしめて、なお余あるべし。白雲岳を目ざして行く程に、濃霧襲い来りて、日も暮れむとす。濃霧やや解けたる方角に雪田あるを見たれば、下りてその雪田に就く。微雨至りければ、天幕を張る。火を熾《さかん》にすれば、雨にも消えざるもの也。今夜も焚火に山上の寒さを忘れたるが、天幕に雨を避くることとて、焚火を掛布団とすることは出来ず。九人が四人に減じて、何となく寂し。殊に我らは天幕を有するも、温泉の連中は天幕を有せず。下りとはいえ、路もなき天下の至険なれば、下ることかえって上るよりも遅く、昨日にぎやかに野宿せしあたりにて、雨に濡れながら夜を明かすなるべしとて、心落付かず。心配しても仕方なしと思いながらも、なお心配せしが、終に疲れて眠れり。
四 大雪山の第三夜
昨日は他所事と思いしに、今日は我らも一足分の草鞋が欠乏しそう也。綱は以て草鞋の経とすべきが、緯になるものは、温泉の連中に与え尽したり。思案するまでもなく、余は六尺|褌《ふんどし》を解く。我もとて、嘉助氏も六尺褌を解く。碧洋と義三郎氏とは解こうとせず。西洋人の真似して、猿股を着けおれるなるべし、猿股にては、緊褌《きんこん》一番ということも出来ず。変に処して、何の役にも立たずと、気焔を吐けど、二氏は何ともいわず、ただ二褌を比べ見て、にやにや笑う。余の褌は新しくして白く、嘉助氏の褌は古くして黒き也。
砂の急斜面を登りて、火口丘に達し、幾度も上下して火口丘をつたい、兜岳とて、巌のみの重なり合える峰に突き当り、右折して火口丘を下る。お花畑の連続にて、傾斜も緩也。蝦夷はこよもぎあり。大雪山中ここのみに生ず。白|竜胆《りんどう》あり。これもここのみに生ずと、嘉助氏いえり。駒草もこのあたりに多し。白雲岳に取り付けば、これも巌ばかりの山也、刀の刃《やいば》に似たる頂上をつたいつたいて、最高処に至る。この岳は大雪山の東南端に位して、外側に火口を有す。その火口は十数町四方、底平らかになりて、一面の御花畑也。大雪山ここに一頓して忠別岳に連《つらな》り、その先に化雲岳の臥《ふ》し、またその先に戸村牛岳|起《た》つ。戸村牛岳の左に石狩岳樹を帯び、その右に硫黄岳煙を噴く。眼を西に転ずれば、旭岳と北鎮岳とが近く相対峙す。在来の書物には旭岳よりも北鎮岳を高しとせるが、距離は旭岳が遠しと思わるるに、我が目には北鎮岳よりも高く見ゆ。陸地測量部のこのあたりの五万分図は未だ世に発行するに至らざるが、測量は既に終れり。その測量を聞き合せて、余の見る所の誤っておらざるを知れり。旭岳は七千五百五十八尺、北鎮岳は七千四百十尺、旭岳の方
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