層雲峡より大雪山へ
大町桂月

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大《おおい》さ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)群峰|攅《あつま》って

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(例)※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]
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    一 層雲峡の偉観

 富士山に登って、山岳の高さを語れ。大雪山に登って、山岳の大《おおい》さを語れ。
 大雪山は北海道の中央に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》して、七、八里四方の地盤を占め頂上の偉大なること、天下に比なく、群峰|攅《あつま》って天を刺し、旭川の市街を圧す。最高峰は海抜七千五百五十八尺、ただに北海道の十国島に冠たるのみならず、九州になく、四国になく、中国になく、近畿になく、奥羽になし。信濃を中心とする諸高山には劣るも、緯度高きを以て、山上の草木風物は、信濃附近の一万尺以上の高山と匹敵する也。
 路伴《みちづ》れは田所碧洋とて、蛮骨稜々たる快男児、旭川市を根拠として嚮導を求めしに、成田嘉助氏という豪の者を得たり。植木を業とせるが、年来盆栽になるべき珍木を巌壁の間に求めんとて、数日の糧を齎らし、ただ一枚の油紙を雨具とし、鉈《なた》の外には、何も利器を持たずして、単身熊の巣窟に入り、険を踏み、危を冒して、偃松《はいまつ》の中に眠り、大雪山は言うに及ばず、化雲《かうん》岳を窮め、忠別《ちゅうべつ》岳を窮め、戸村牛《トムラウシ》岳を窮め、石狩《いしかり》岳を窮め、硫黄《いおう》岳を窮め、十勝《とかち》岳を窮めて、北海道の中央に連亙せる高山には足跡到らぬ隈もなし。今一人と求めしに、前川義三郎氏とて、豆腐屋を業とせるが、山登りが好きなれば、人夫賃を雇賃に充てて、豆腐を製造する人を雇い、喜び勇んで、我が人夫となれり。
 旭川中学校より天幕を借り、数日の米を用意して、旭川駅を発し、比布《ぴっぷ》駅に下りて徒歩するに、路は真直にして、その尽くる所を知らず。家は見えずして、きりぎりすの声左右に満つ。下愛別に至れば、小市街を成す。三人の幼児の乗りたる箱車を牽《ひ》く犬もあり。石狩川の水を引ける掘割の傍に宿屋ありけるが、小熊を鉄鎖にて木に繋げり。大人も小児も打寄りて見物す。その小熊ぐるぐる廻りて、時々ちゅうちゅうと掌を嘗《な》む。熊は大熊とても、何となく可愛らしくして、獅虎の如くに猛獣とは見えず。小熊はなおさら可愛らしく見ゆ。この小熊の行末は動物園の檻に入れらるるか、それとも撲殺せらるるか、いずれにしても人に捕えられたる以上は、もがいても、あせっても、泣いても、叫んでも、熊としての天分を全うする能わざるべしと、本人の小熊は知らざるべきが、人から見れば憐れ也。人とても、無形の鎖に繋がれて、もがきあせり、泣き、叫ぶは、なお一層憐れなりとて、暫《しば》し見物す。目には小熊を見、心には人を見る也。中愛別に午食して、留辺志部《るべしべ》の旅店に投ず。人家四、五十相接し物売る店もありて、附近に農家散在す。石狩川平原の中を貫き大雪山の数峰面に当る。石狩川は下流に石狩平原を有し、中流に旭川平原を有し、上流に留辺志部平原を有す。留辺志部平原が、石狩川の有する最後の平原にして、これより、いよいよ山の中也。比布より下愛別へ三里、下愛別より中愛別へ一里半、中愛別より留辺志部へ三里半、今日は八里の路を歩けり。
 真勲別に至りて、山の根に取りつき、層雲別に至りて、いよいよ層雲峡に入る。魚槍を肩にし、創口《きずぐち》より血なお滴《したた》れる鱒を提《さ》げたる男、霧の中より露われ来る。掘立小屋に酔うて歌うものあり。旧土人なりといえり。石狩川は名だたる大河、中流にて神居《かむい》山脈を貫き、上流にて大雪山の腰を貫く。いずれも貫くに急湍を以てせずして、平流を以てす。神居山脈を貫く処に神居古潭《かむいこたん》あり。大雪山の腰を貫く処、即ち層雲峡也。神居古潭は北海道の勝地として世に知られたるが、深さの非凡なる外には格別の風致もなし。層雲峡はいまだ世に知られざるが、天下の絶勝也。石狩川ここにておよそ五里の間、高きは二千尺、低きも千尺を下らざる絶壁に挟まる。川の幅は、三、四十間より漸次狭くなりて、終に十間内外となる。水は浅くして、ほとんど音なし。石狩川も神居古潭あたりは濁れり。旭川あたりも澄まず。層雲峡に至りては、澄みて底石数うべし。両岸の絶壁は、相距《あいへだた》ること、始めは十町内外、五、六町となり、一、二町となり、終に十間内外となる。その絶壁の頂は一様に平かなるに非ず。巌峰の連続にして、支渓おりおり単調を破る。その巌峰は流紋岩にして、柱
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