雲峡は石狩川の有する一大偉観なるが、その鬼神の楼閣と思わるる巌峰は、大雪山の腰なれば、大雪山の有する一大偉観なりといいても可也。
鬼神の楼閣を下より眺めたるのみにては、普通遊覧の域也。山水に徹底せむには、その楼閣の上に登りて、大雪山の頂を窮めざるべからず。しかるに塩谷温泉の人々とても、ここより登りたることなし。さすがの嘉助氏もここよりは登らず。よしよし、楼閣の割れ目の沢を登らば、登られぬことなしと見当を付け、昨日の一行に、榊原与七郎氏という測量家と人夫とが加わりてまさに発せんとせしに、水姓吉蔵氏|※[#「馬+風」、第4水準2−92−39]然《はんぜん》として来る。留辺志部小学校の校長なるが、幾度も登攀して大雪山を我庭園の如くに思えり。余が大雪山の登攀を企つと聞き、嘉助氏という豪の者を伴えりとは思いもかけず、あるいは目的を達すること能わざるべきかと危ぶみ、自から進んで嚮導とならんとする也。余好意を謝してその容貌を見るに、魁偉《かいい》にして筋骨|逞《たくま》しく、磊落《らいらく》にして豪傑肌なる快男児也。いよいよ心強く覚ゆ。氏とても塩谷温泉より登りたることなきが、どの沢でも登らば登らるべしとて、余らと同じ考え也。
塩谷温泉より数町下りて、左の沢に入り込む。はじめの程は小さき平流なりしが、間もなく渓壑《けいがく》迫りて、薬研《やげん》を立てたるようになり、瀑布連続す。水姓氏は四、五貫の荷物を負えるに、危険なる処に至れば、先んじて登攀して、後より来る者を引き上ぐ。余一行に尾す。急がずして余力を存し、かつ静かに風景を味う也。一瀑を登りしに、また一瀑あり。その間の渓流の中に、孤巌頭を出し、その巌尖に一蛇とぐろを巻く。在来多く蛇を見たれども、そのとぐろを巻けるを見るは、これが始じめて也。珍らしと見入りて、憐れに思いぬ。この蛇|活《い》きてはおるが、半死までの様子となりて、その身もいたく痩せたり。思うに薬研の壑中に陥りて、出るに出られず、食うに物なく、弱り果てて力なき身を渓流の中の膚寸《ふすん》の地に托するものなるべし。空しく死を待つよりは、今一度活路を求めて見よとて、杖にてとぐろを解きて、下の瀑に落しぬ。
渓流二つに分れて、右は狭けれども、水量多く、左は広けれども、水量少なく、傾斜急也。余心の中に右渓を取らざるべからずと思いながらも、一行の左渓を取れるに尾して行くに、果して絶壁に行きつまる。ともかくもと午食して右渓に下り、瀑また瀑を攀《よ》じ登りしに、終に十余丈の大瀑に行きつまる。これは見事と見とれしが、攀ずべくもあらざれば、引きかえし、右崖を攀じて峰稜を行く。根曲り竹の藪を三時間もかかりて潜り抜け、偃松帯に取付きて、ほっと一と息つく。時計を見れば、午後四時十五分也。そろそろ野宿の用意を為さざるべからず。上り上りて、果して水を得るや否や。数町下に水ある処ありき。上らんか、下らんかと、問いて見たるに、誰れも下ることを肯《がえ》んぜず。水姓氏右手の直径二十町とも見ゆるあたりに、雪田あるを見出し、今夜はあの雪田に水を得て野宿せんという。一同賛成す。水姓氏先んじて、数町ばかり行きしに、水ありありと喜声を発す。うれしや、偃松の林裂けて、幅十間長さ四十間ばかりの小池あり。蛙の子の棲《す》めるを見て、毒水にあらざるを知る。偃松の余したる処、一面の御花畑也。苔桃、巌香蘭《がんこうらん》、岩梅、ちんぐるま草、栂桜、岩髭、千島竜胆《ちしまりんどう》など生いて、池中の巌石にも及べり。偃松の中は、数百千年の落葉つもりつもりて、厚さ三、四尺に達し、これを踏むに、あたかも弾機の如し。山上の寒さは挙ぐる火に消えたり。鍋の飯も出来たり。下戸は先ず食う。上戸は酔うて陶然たり。十九夜の月出ず。火炎高く昇れるが、火炎の中に数十条の赤線直上し、その末火花となりて、半天に四散し、下界の煙火などには見られざる壮観を呈するに、酒ますます味を加う。天幕は張らずに敷きて、一同その上に臥《ふ》す。焚ける火が一同の掛布団也。
三 大雪山の第二夜
塩谷温泉の連中は、日帰りの出来るぐらいに思いて、食物も十分に用意せず、草鞋《わらじ》も代りを持たず。さしあたり草鞋を作らざるべからずとて、材料を求むるに、綱、縄などのみにても間に合わず、我一行より不用なる手拭、風呂敷などを与えたるに、嘉助氏と温泉の人夫とが、四足の草鞋を作れり。いざとて偃松帯を上る。根曲り竹ならば、押分け押分けて上らるべし。偃松は押分くること能わず。手にてその枝を攫《つか》み、足にてその枝を踏みて、斜に上るの外なし。上るに従って、偃松小さくなり、傾斜|緩《ゆるやか》なる処に至りて、低く地に偃《ふ》す。その上を踏みて行くを得べし。うれしや、偃松を踏みて行くを得るようになれば、頂上は遠からざる也。四面の眺望も開けたり。
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