跡なりと云ひ傳ふ。祠に詣づる者、誰か思ひを二千年の昔に馳せざるを得むや。鳥居を後にし、芝生の中を數十間も行けば、懸崖忽ち直下す。鹿野山は、どの方面も傾斜緩漫なるが、こゝのみは峭壁となる。されど、巖にはあらずして、草をさへ帶びたれば、物凄き感は起らず。小絲川の流域は近く露れ、小櫃川の流域は、山の彼方にあり。立ち昇る朝霧に、それと知らる。眼界は百八十度にひろまり、六七里の外に達す。千山奇を爭ひ、萬壑怪を競ふ。近く尖り立てるは高宕山なり。天邊に桃の割れたるが如きは大福山なり。清澄山は烏帽子の如く、富山は二峯に分れ、一峯は草、一峯は樹林を帶びて、恰も獅子の臥するが如し。處々に村落あり、田あり、畑あり。初夏の頃は躑躅の觀、美を極むと聞く。一種パノラマ的風景として、天下にその類ひ稀なるが、われ此處に日の出を見て、其美觀に驚きぬ。月の出を見て、又其美觀に驚きぬ。秋になれば、朝霧一面に大海を現出し、數百の峯尖、島嶼となりて浮ぶの奇觀を呈すとかや。

        六 鳥居崎

鳥居崎にも、老杉の下に掛茶店あり。九十九谷にては見えざりし鋸山、こゝに來れば、近く屹立せるを見る。東京灣脚底に展開し、相模灘
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