は?」
「あの方はもう、六十をとっくにお越しです」
「富子さんは?」
「お嬢様は、今年十七でいらっしゃいます」
「有難う」夏山警部補は満足そうにニヤリと笑うと、「ではもう一つ、他でもないが、堀見家の人々は、皆んなこの別荘の合鍵を持っているね?」
「はい」
「むろんお嬢さんも?」
「はア、多分……」
「有難う」とそれから傍らの部下を振返って、元気よく云った。「さア、もうこれでここはいいよ。裁判所の連中が来るまでは、警察医《せんせい》に残っていて貰うことにして、これから直ぐに有料道路《ペイ・ロード》へ出掛けるんだ」
六
夏山警部補が有料道路《ペイ・ロード》の十国峠口へ着いた時には、もう大月氏は、先に廻された警察自動車で箱根口から引返して、そこの停車場《スタンド》で一行を待ちうけていた。
両方の停車場《スタンド》には、先着の警官達が二手に分れて監視していた。大月氏は、警部補を見ると直ぐに口を切った。
「もう別荘のほうは、済みましたか?」
「済むも済まぬもないですよ。なんしろ犯人は此処へ逃げ込んだって云うんですから、大急ぎでやって来たわけです……が、まア、だいたい目星はつきましたよ」
「もう判ったんですか? 誰です、いったい、犯人は?」
「いや、誰れ彼《か》れと云うよりも、まだその、問題の自動車《くるま》はみつからないんですか?」
すると大月氏は、いらいらと手を振りながら、
「いや、それですがね。どうもこれは、谷底へでも墜落したとより他にとりようがないんです」
「私もそう思いますよ。探しましょう」
「いや、その探すのが問題なんですよ。私もいま、こちらへ来ながら道の片側だけは見て来ましたが……この闇夜で、しかも……この有料道路《みち》の長さが六|哩《マイル》近くもあるんですから、それに沿った谷の長さもなかなかあるんですよ。おまけに路面が乾燥していて、車の跡もなにもありゃアしないんだから、大体の墜落位置の見当もつきませんよ」
「しかし愚図愚図してるわけにもいきませんよ」
「そうですね。じゃア、とにかく残った片側を探して見ましょう。……だが、いったい犯人は誰なんです?」
「犯人?……堀見氏の令嬢ですよ」
云い捨てるように警部補は自動車《くるま》に乗り込んだ。そのあとから、唖然《あぜん》たる一行が乗込む。自動車はバックして、箱根口へ向って走り出した。時速十|哩《マイル》の徐行だ。
けれどもこの捜査の困難さは、半|哩《マイル》と走らない内に、人々を焦躁のどん底へ突き落した。谷沿いの徐行だから、ヘッド・ライトの光の中には、谷に面した道路の片端がいつも見えているのだが、路面は全く乾燥していて、何処から滑り落ちたか車の跡さえ判らない。せめて道端に胸壁でもあって、それが壊れていれば墜落個所の見当はつくのだが、この道は人の通らない自動車専用の道路だから、そのような胸壁や駒止めも、白塗のスマートな奴が処々《ところどころ》装飾的に組まれてあるだけで、とんと頼りにならない。
無意味な、憂鬱な捜査が暫く続いて、やがて自動車《くるま》は、胸壁のない猛烈なS字型のカーブに差しかかった。警部補は苛立《いらだ》たしげに舌打ちする。自動車はクルリとカーブを折れて、いままでの進路と逆行するように、十国峠の方を向いて走りだした。
S字カーブの尻は、大きな角張ったC字カーブになっている。Lの字を逆立ちさせたような矢標《やじるし》のついた道路標識を越して、二十|米突《メートル》も走った時だった。なにを見たのか大月氏は不意にギクッとなって慌しく腰を浮かしながら、
「止めて下さい!」
――巡査は直ぐにブレーキを入れた。
大月氏は扉《ドア》を開けてステップの上へ立ち上ったまま中の巡査へ云った。
「この向きで、このままバックして下さい……そう、そう……もっと、もっと……よろしい、ストップ!」
人々には、サッパリわけが判らない。
大月氏は助手席へ就くと、以前の姿勢に戻って云った。ひどく緊張した顫え声だ。
「さあ、もう一度今度は前進して下さい。最徐行で頼みます――おっと、問題のクーペは、ルーム・ランプが消えていたんだ。室内が明るくちゃアいかん。消して下さい」
自動車は灯を消して動き出した。
「いったい、どうしたんです?」
暗《やみ》の中で警部補が堪兼《たまりか》ねたように叫んだ。
「いや判りかけたんです。真相が判りかけたんです。いまに出ますよ」
「何が出て来るんです?」
「直ぐですから待って下さい」
自動車は先刻《さっき》の位置へ徐行を続ける。C字カーブの終りの角の直前だ。道がグッと左に折れ[#「左に折れ」に傍点]ているので、ヘッド・ライトの光の中には、真黒《まっくろ》な谷間の澄んだ空間があるだけだ。
前を見ていた大月氏が、突然叫んだ。
「そら出た。止めて!」
「なにが出たです?」警部補だ。
「もう消えました。直ぐまた出ます。そこでは見えません。ずッとこちらへ来て下さい」
警部補は乗り出して、操縦席の大月氏の横へひょいと顔を出して前を見た。
「何も見えませんよ」
「いや。直ぐ出ます。……そら! 出たでしょう。いや、自動車《くるま》の外じゃあない。直ぐ眼の前の硝子《ガラス》窓です」
「ああ!」
――直ぐ眼の前の窓|硝子《ガラス》の表面には、L字を逆立ちさせたような、有り得べからざる右曲り[#「右曲り」に傍点]の矢標《やじるし》を書いた標識が、明るく、近く、ハッキリと写った。が、直ぐにそれは、吸い込まれるように闇の中へ消えてしまった。
眼前の道路は左に折れているのだが、幻の標識は右曲りだ!
七
「いや、あなたが硝子《ガラス》に写ったものを見て、直ぐに後ろの窓を振返ったのは、正しいです」
やがて大月氏は、そう云って感心したように、警部補の肩を叩くのだった。
――全く、座席の後ろの四角い硝子《ガラス》窓からは、テール・ランプに照らされて仄赤《ほのあか》くぼやけた路面が、直ぐ眼の下に見えるだけで、あとは墨のような闇だったのだが、直ぐにその闇の中に、何処からか洩れて来る強烈な光に照らされて、いま自動車が通り越したばかりの道端の道路標識が、鮮やかにも浮きあがるのだ。そしてその幻のような闇の中の標識は浮きあがるかと見れば直ぐに消え、やがてまた浮きあがり直ぐに消え、見る人々の眼の底に鮮やかな残像をいくつもいくつもダブらせて行くのだった。
「偶然の悪戯《いたずら》ですよ」大月氏が云った。「あれは、直ぐ横の小山の向うから、斜めに差し込む航空燈台の閃光です。つまりこちらから見ると、向うの左曲りのカーブを教えるために正しく左曲りを示している暗《やみ》の中の標識が、閃光に照らされた途端に、後ろの窓を抜けて、前のこの硝子《ガラス》窓へ右曲りの標識となって、写るんです。……クーペはルーム・ライトを消してたし、前の谷が空気は清澄で、ヘッド・ライトは闇の中へ溶け込んでいます。おまけにこの硝子《ガラス》は、少しばかり傾斜していますので、反射した映像は、操縦席で前屈みになっている人でなくては見えません。……でも、それにしても、ふッと写ったこの虚像を、本物と見間違えて谷へ飛び込むなんてただの人間[#「ただの人間」に傍点]じゃアないですね」
「よく判りました。とにかく、早速下りて見ましょう」
警部補の発言で、人々は自動車《くるま》を捨てて谷際《たにぎわ》へ立った。ヘッド・ライトの光の中へ屈み込んで調べると、間もなく道端の芝草の生際《まぎわ》に、クーペが谷へ滑り込んだそれらしい痕がみつかった。
「この辺《あたり》なら下りられますね。傾斜《スロープ》は緩《ゆる》やかなもんですよ」
夏山警部補はそう云って、山肌へ懐中電燈をあちこちと振り廻しながら、先に立って下りはじめた。
「夏山さん」後から続いて下りながら、大月氏が声を掛けた。「それにしても、犯人が堀見氏のお嬢さんだって、なにか証拠があるんですか?」
「兇器ですよ」警部補は歩きながら投げ捨てるように云った。「婦人持ちの洒落《しゃれ》たナイフに、十七回誕生日の記念文字が彫ってあるんです。しかも、今年の春の日附まで……そして、お嬢さんの富子さんは、今年十七です」
大月氏は黙って頷くと、そのまま草を踏付けるようにしながら、小さな燈《あかり》をたよりに山肌を下りて行った。が、やがてふと立止った。
「夏山さん……生れて、二つになって、第一回の誕生日が来る。三つになって、第二回の誕生日が来る……そうだ、今年十七の人なら、十六回の誕生日ですよ」
「えッ、なに?」
警部補が思わず振返った。
「夏山さん……十七回の誕生日なら、ナイフの主は十八ですよ」
「十八?……」と警部補は、暫く放心したように立竦んでいたが、直ぐに周章《あわ》ててポケットからノートをとり出し、顫える手でひろげると、「いやどうも面目ない。全くその通りですよ。それに……ちゃんと十八の娘があるんです」
「誰です、それは?」
「女中の敏やです!」
恰度この時、警官の懐中電燈に照らされて、山肌の一寸平らなところに、ほぐくれたような大きな痕がみつかった。
「あそこでもんどり[#「もんどり」に傍点]打ったんだな。自動車が……」
大月氏が叫んだ。
「もう直ぐだ。急ぎましょう」
人々は無言でさまよいはじめた。このあたりから、茨《いばら》や名も知らぬ灌木が、雑草の中に混りはじめた。やがて大月氏が枯れかかった灌木の蔭で、転っていたクーペの予備車輪を拾いあげた。人々は益々無言で焦《あせ》り立った。小さな光が山肌を飛び交して、裾擦れの音がガサガサと聞える。と、警部補がギクッとなって立止った。
直ぐ眼の下の窪地に、まがいもないクリーム色のクーペが、真黒な腹を見せて無残な逆立ちをやっている。
警部補も大月氏も無言で窪地へ飛び下りると、クーペの扉《ドア》を逆さのままにこじ[#「こじ」に傍点]開けた。
「おやッ」と警部補が叫んだ。
自動車《くるま》の中は藻抜けの空《から》だ。けれどもやがて大月氏は、屈み込んで、操縦席の後のシートの肌から、血に穢《よご》れて異様にからまった、長い、幾筋かの白髪《しらが》を掴みあげた。
全く無残なクーペの姿だった。硝子《ガラス》と云う硝子《ガラス》は凡《すべ》て砕け散り、後部車軸は脆《もろ》くもひん[#「ひん」に傍点]曲って、向側の扉《ドア》は千切り取られて何処かへはね飛ばされていた。細々《こまごま》とした附属品なぞ影も形もない。
けれども間もなく人々は、その千切り取られた扉口から向うの雑草の上にまで、点々として連らなる血の痕をみつけた。犯人は、負傷こそすれ奇蹟的に助かっているのだ。人々は直ぐに血の痕をつけはじめた。
「こりゃア、髪の白い娘――と云うことになったね……ふン、いったいあなたは、どんな証拠を押えたんです? そのナイフと云うのを見せて下さい」
大月氏の言葉に、歩きながら警部補は、不機嫌そうにポケットからハンケチに包んだ例のナイフをとり出した。
大月氏は、歩きながらそのナイフを受取って、電気の光をさしつけながら象牙の柄に彫られた文字を読みはじめた。がやがてみるみる眼を輝かせながら立止ると、警部補の肩をどやしつけた。
「あなたは、この日附が見えなかったんですか? まさか盲じゃアあるまいし……ね、二月二十九日に誕生日をする人は二月二十九日に生れたんでしょう。ところが二月二十九日は閏年《うるうどし》にあるんで……だからこの人の誕生日は四年に一度しか来ないわけで。その人が十七回の誕生日を迎える時には、幾つになると思います。……六十過ぎですよ」
「判った」
警部補があわてて馳け出そうとすると、大月氏は不意に手を上げて制した。
直ぐ眼の前のひときわ大きな灌木の茂みの向うで、ガサガサと慌しげな葉擦れの音がした。人々は足音を忍ばせて近寄った。茂みの蔭を廻ったところで、警部補が懐中電燈の光をサッと向うへ浴びせかけた。
思ったよりも小さな、黒い、四つン這いになったものが、苦しそうにチンバをひきながら、それでも夢中で草
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