白妖
大阪圭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幌型自動車《フェートン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)以上|喋《しゃべ》れない
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]
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一
むし暑い闇夜のことだった。
一台の幌型自動車《フェートン》が、熱海から山伝いに箱根へ向けて、十国峠へ登る複雑な登山道を疾走《はし》り続けていた。S字型のジッグザッグ道路で、鋸《のこぎり》の歯のような猛烈なスイッチバックの中を襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》のように派出する真黒な山の支脈に沿って、右に左に、谷を渡り山肌を切り開いて慌しく馳け続ける。全くそれは慌しかった。自動車それ自身は決してハイ・スピードではないのだが、なんしろ大腸の解剖図みたいな山道だ。向うの山鼻で、ヘッド・ライトがキラッと光ったかと思うと、こちらの木蔭で警笛がなると、重苦しい爆音を残して再びスーッと光の尾が襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》の向うへ走り去る。同じところをグルグル廻っているようだが、それでいて少しずつ高度を増して行く。
タクシーらしいが最新型のフェートンだった。シェードを除《と》った客席では、一人の中年紳士が黒革の鞄を膝の上に乗せて、激しく揺《ゆら》れながらもとろとろとまどろみ続ける。背鏡《バックミラー》で時どきそれを盗み見ながら、ロシア帽子の運転手は物憂い調子でハンドルを切る。
この道はこのままぐんぐん登りつめて、やがて十国峠から箱根峠まで、岳南《がくなん》鉄道株式会社の経営による自動車専用の有料道路《ペイ・ロード》に通ずるのだ。代表的な観光道路で、白地に黒線のマークを入れた道路標識が、スマートな姿体で夜目にも鮮かに車窓を掠《かす》め去る。
やがて自動車は、ひときわ鋭いヘヤーピンのような山鼻のカーブに差しかかった。運転手は体を乗り出すようにして、急激にハンドルを右へ右へと廻し続ける。――ググググッと、いままで空間を空撫《からな》でしていたヘッド・ライトの光芒《ひかり》が、谷間の闇を越して向うの山の襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》へぼやけたスポット・ライトを二つダブらせながらサッと当って、土台の悪い幻燈みたいにグラグラと揺れながら目まぐるしく流れる。と、その襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》の中腹にこの道路《みち》の延長があるのか、一台の華奢なクリーム色の二人乗自動車《クーペ》が、一足先を矢のようにつッ走って、見る見る急角度に暗《やみ》の中へ折曲ってしまった。
「チェッ!」運転手が舌打ちした。
退屈が自動車《くるま》の中から飛び去った。速度計は最高の数字を表わし、放熱器《ラジエーター》からは、小さな雲のような湯気がスッスッと洩れては千切れ飛んだ。車全体がブーンと張り切った激しい震動の中で、客席の紳士が眼を醒《さま》した。
「有料道路《ペイ・ロード》はまだかね?」
「もう直《じき》です」
運転手は振向きもしないで答えた。とその瞬間、またしても向うの山の襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》へ、疾走するクーペの姿がチラッと写った。
「おやッ」と紳士が乗り出した。「あんなところにも走ってるね? ひどくハイカラな奴が……いったいなに[#「なに」に傍点]様だろう?」
「箱根の別荘から、熱海へ遠征に出た、酔いどれ紳士かなんかでしょう」
運転手が投げ出すように云った。
「追馳《おっか》けてみようか?」
「駄目ですよ。先刻《さっき》からやってるんですが……自動車《くるま》が違うんです」
紳士は首を屈《かが》めて、外の闇を覗き込んだ。――急に低くなった眼の前の黒い山影の隙間を通して、突然強烈な白色光が、ギラッと閃《ひらめ》いて直ぐに消えた。紳士はなにやら悲壮な尊い力を覚えて、ふと威儀を正した。
その瞬間のことだった。不意に自動車《くるま》がスピードを落し、ダダッと見る間に彼は前のめりになって、思わず運転手の肩に手を突いた。――急停車だ。
二
見れば、ヘッド・ライトの光に照らされて、前方の路上に人が倒れている。首をもたげてこっちへ顔を向けながら、盛んに片手を振っている。
運転手はもう自動車《くるま》を飛び降りて馳けだして行った。紳士もあたふたとその後《うしろ》に続いた。倒れていたのは、歳をとったルンペン風の男だった。ひどい怪我だ。
「……いま行った……気狂い自動車《やろう》ですよ……」
怪我人が喘ぎ喘ぎ云った。紳士は早速運転手に手伝わせて怪我人を抱き上げ、自動車《くるま》の中へ運び込んだ。
「……すみません……」怪我人が苦しげに息づきながら云った。「……わっしア、ご覧の通り……夜旅のもんです……あいつめ、急に後ろから来て……わっしが、逃げようとするほうへ……旦那……なにぶん、お願いします……」
怪我人はそう云って、もうこれ以上|喋《しゃべ》れないと云う風に、クッションへぐったりと転《ころが》って、口を開け、眼を細くした。
紳士は大きく頷いて見せると、鞄を持って運転手の横の助手席へ移った。
「さあ出よう。大急ぎだ。箱根までは、医者はないだろう?」
「ありません」
自動車は、再び全速力で走りだした。
とうとう峠にやって来た。
道が急に平坦になって、旋回している航空燈台の閃光が、時々あたりを昼のように照し出す。もう此処《ここ》までやって来ると、樹木は少しも見当らない、一面に剪《か》り込んだような芝草山の波だ。
と、向うから自動車が一台やって来た。ヘッド・ライトの眩射が、痛々しく目を射る。――先刻《さっき》のクーペだろうか?
だがその自動車《くるま》は[#「自動車《くるま》は」は底本では「自転車《くるま》は」]、似ても似つかぬ箱型《セダン》だった。客席には新婚らしい若い男女が、寝呆《ねぼ》け顔をして収まっていた。
「いま、クーペに逢ったろう?」
徐行しながら運転手が、向うの同業者へ呼びかけた。
「逢ったよ。有料道路《ペイ・ロード》の入口だ!」
そう叫んで、笑顔を見せながら、新婚車は馳け去って行った。
間もなく有料道路《ペイ・ロード》の十国峠口が見えだした。
電燈の明るくともった小さな白塗のモダーンな停車場《スタンド》の前には、鉄道の踏切みたいな遮断機が、関所のように道路を断ち切っている。
その道の真中に二人の男が立って、遮断機の前でなにやらしていたが、自動車《くるま》が前まで来て止まると、その内の一人は事務所を兼ねている出札口へ這入って行った。
紳士は真ッ先に飛び降りて、出札口へ馳けつけた。そして蟇口《がまぐち》から料金を出しながら、切符とは別なことを切り出した。
「いま私達より一足先に、クリーム色の派手なクーペが通ったでしょう?」
「通りました」出札係が事務的に答えた。
「どんな男でした? 乗ってたのは……」
「見えませんでした」
「見えなかった? だって切符を買いに来たでしょう?」
「いえ、来ません。あれは大将の自動車《くるま》です」
「なに、大将?」紳士は急《せ》き込んだ。
「はい」事務員は切符に鋏《はさみ》を入れて出しながら、「この会社の重役で堀見《ほりみ》様の自動車《くるま》ですから、切符なぞ売りません」
「なに、堀見?……ははア、あの岳南鉄道の少壮重役だな。じゃあ、クーペの操縦者は、堀見氏だったんだね?」
「さあ、それが……」
「二人乗ってたでしょう?」
「いいえ、違います。一人です。それは間違いありません」
紳士の態度を警察官とでも感違いしたのか事務員は割に叮寧になった。
「いずれにしても」紳士が事務員へ云った。「大変なんだ。実は、あのクーペが、歩行者を一人|轢《ひき》逃げしたんだ」
「轢逃げ?」事務員が叫んだ。「で、怪我人は?」
「僕の自動車《くるま》へ収容して来た」
「大丈夫ですか?」
「それが、とてもひどい……恐らく、箱根まで持つまい」
こう話している内にも、事務員は明らかに驚いたらしく、見る見る顔色が蒼褪《あおざ》めて来た。
「……そうでしたか……道理で可怪《おか》しいと思いました……いや、申上げますが、実は、此処でも変なことがあったんです」
「なに、変なこと?」紳士が乗り出した。
「ええ、それが、なんしろ、重役の自動車《くるま》ですから、其処《そこ》で止まったと思うと、直ぐに私は飛出して、遮断機を上げ掛けたんです。すると、余程急ぐとみえてまだ私が遮断機を全部上げ切らないうちに、自動車《くるま》はスタートして、アッと思う間に前部の屋根でこの遮断機を叩きつけたまま、気狂いみたいに馳け出してしまったんです」と表の道路の方を顎で差しながら、「……いままで二人して、応急の修理をしていたところです」
こんどは紳士のほうが驚いたらしい。
「ふうむ、とにかく僕は、これから直ぐに箱根へ行くのだが――おッと、ここには電話があるだろう?」
「あります」
「よし。箱根の警察へ掛けてくれ給え。いま行ったクーペを直ぐにひっ捕えるように。いいかね。よしんば重役でも、社長でも、構わん」
「そんなら、とてもいい方法がありますよ。向うの箱根峠口の、有料道路《ペイ・ロード》の停車場《スタンド》へ電話して、遮断機を絶対に上げさせないんです」
「そいつア名案だ。だが、いまの調子で、遮断機をぶち破って行ってしまいはせんかな?」
「大丈夫です。遮断機には鉄の芯がはいっていますから、私みたいに上げさえしなければ絶対に通れません」
「そうか。いや、そいつア面白い。つまり関所止め、と云う寸法だね。まだクーペは、向うへは着かないだろうね?」
「半分も行かないでしょう」
「よし。じゃあ直ぐ電話してくれ給え。絶対に遮断機を上げないようにね」
事務員は停車場《スタンド》の中へ馳け込んで行った。
間もなく電話のベルが甲高く鳴り響き、壊れかかった遮断機が上って、瀕死の怪我人を乗せた紳士の幌型自動車《フェートン》は、深夜の有料道路《ペイ・ロード》を箱根峠めがけてまっしぐらに疾走しはじめた。
三
さて、読者諸君の大半は、箱根――十国間の自動車専用有料道路《ドライヴィング・ペイ・ロード》なるものがどのような性質を持っているか、既に御承知の事とは思うが、これから数分後に起った異様な事件を正確に理解して戴くために、二、三簡単な説明をさして戴かねばならない。
いったいこの有料道路《ペイ・ロード》の敷設されている十国峠と箱根峠とを結ぶ山脈線は、伊豆半島のつけ[#「つけ」に傍点]根を中心に南北に縦走する富士火山脈の主流であって、東に相模灘《さがみなだ》、西に駿河湾を俯瞰しつつ一面の芝草山が馬の背のような際立った分水嶺を形作っているのだが、岳南鉄道株式会社はこの平均標高二千五百|呎《フィート》の馬の背の尾根伝いに山地を買収して、近代的な明るい自動車道《ドライヴ・ウェイ》を切り開き、昔風に言えば関銭を取って自動車旅行者に明快雄大な風景を満喫させようという趣向だった。だから南北約六|哩《マイル》の有料道路《ペイ・ロード》は独立した一個の私線路であって、十国口と箱根口との両端に二ヶ所の停車場《スタンド》があるだけで枝道一本ついてない。しかもその停車場《スタンド》には前述のように道路の上に遮断機が下りていて番人の厳重な看視の下《もと》に切符なしでは一般に通行を許さない。だから途中からこの有料道路《ペイ・ロード》へ乗り込んで走り抜ける訳にも行かなければ、又途中から有料道路《ペイ・ロード》を抜け出して走り去ることも出来っこない。
もっとも尾根伝いの一本道とは云っても、数|哩《マイル》ぶっ通しの直線道路ではなく、主として娯楽本位の観光道路だから、直線そのものの美しさも旅行者に倦怠
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