を覚えさせない程度のそれであって到るところに快いスムースなカーブがあり、ジッグザッグがあり、S字型、C字型、U字型等々さまざまの曲線が無限の変化を見せて谷に面し山頂に沿って蜿蜒《えんえん》として走り続ける。
 けれどもこの愉快な有料道路《ペイ・ロード》も、夜となってはほとんど見晴らしが利かない。わけても今夜のように雲が低くのしかかったむし暑い闇夜には、遠く水平線のあたりにジワジワと湧き出したような微光を背にして夥しい禿山の起伏が黒々と果しもなく続くばかりでどこかこの世ならぬ地獄の山の影絵のよう。その影絵の山の頂を縫うようにして紳士と怪我人を乗せた自動車は、いましも有料道路《ペイ・ロード》の真ン中あたりをものに追われるように馳け続けていた。
「そういえば、なんだか見たことのある自動車《くるま》だと思いましたよ」
 ハンドルを切りながら運転手が云った。
「君は堀見氏を知ってる?」隣席の紳士だ。
「いいえ、新聞の写真で見ただけです。でも、あの人の熱海の別荘は知ってます。山の手にあります」
「いま熱海にいるのかね? 堀見氏は」
「さア、そいつは存じませんが……とにかく、車庫《ギャレージ》つきの別荘ですよ」
 紳士は煙草に火をつけて、満足そうに微笑みながら、
「一台も自動車《くるま》には行き逢わなかったね。……もうあのクーペ、いま頃は関所止めになって、箱根口でうろうろしているだろう」
 遙かに左手の下方にあたって、闇の中に火の粉のような一群の遠火が見える。多分、三島の町だろう。
 やがて自動車は、ゴールにはいるランナーのように、砂埃《さじん》を立てて一段とヘビーをかけた。直線コースにはいるに従って、白塗の停車場《スタンド》がギラギラ光って見えはじめた。
「おやッ?」紳士が叫んだ。
「いないですね!」同時に運転手の声だ。
 全く、道の真ン中には遮断機が下りているだけでクーペの姿はどこにも見えない。そこへ事務員らしい黒い男が飛び出して来て、大手を拡げて道の真ン中に立塞《たちふさ》がった。
 紳士は飛び下りて、バタンと扉《ドア》を締めると同時に叫んだ。
「電話が掛ったろう?」
「掛りました」
「それに、何故通したのだ!」
「えッ?」
「何故|自動車《くるま》を通したと云うんだ!」
「……?」
 事務員はひどく魂消《たまげ》た様子だ。バタバタ音がして、事務所のほうからもう一人の男が出て来た。紳士は二人を見較べるようにしながら、重々しい調子で云った。
「――僕は、刑事弁護士の大月《おおつき》というものだが、たとえあのクーペが有名な実業家の自動車《くるま》であろうと、いやしくも人間一人を轢《ひき》逃げにするからは、断じて見逃さん。君達は、自分の良心に恥じるがいい」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 あとから出て来た事務員が乗り出した。額の広い真面目そうな青年だ。
「お言葉ですが、ハッキリお答えします。――この箱根口の停車場《スタンド》へは、貴方《あなた》がたの自動車《くるま》以外に、クーペはおろか猫の仔一匹参りません!」

          四

 それから数分後――電話を掛ける大月氏のうわずった声が、ベルの余韻に押かぶさるようにして、停車場《スタンド》の中から聞えて来た。

 ――ああ、もしもし――十国峠の停車場《スタンド》ですか?……箱根口です、先刻《さっき》の怪我人を乗せた自動車の者だがね、そちらへあのクーペが戻って行かなかったかね?……え?……なに、行かない……やっぱり、そうか……ううん、こちらにもいない……本当にいないんだ、全々《ぜんぜん》来ないそうだ、途中で?……むろん、逢わなかったさ……うん大変だよ、よしよし、ありがとう……。

 ――ああ、もしもし、熱海署ですか?……当直の方ですか?……僕は大月弁護士ですが、誰れかいませんか?……夏山《なつやま》さん?……いいです、代って下さい……。
 ――夏山警部補ですか?……大月です……いや、却って失礼しました……ところで突然ですが、一寸妙な事件が起きましてね……実は箱根口の有料道路《ペイ・ロード》の停車場《スタンド》にいます……ええ、自動車の轢逃げなんですがね、それがとても妙なんです、ただの轢逃げ事件だけじゃアないらしいんです……ええ……、そうです……ええ、……むろん、追ッ馳けましたよ……両方の停車場《スタンド》を閉塞して、有料道路《ペイ・ロード》へ追い込んだんです……ところがいないんです……本当ですとも……え?……ええ、ええ、お待ちしてます……そうですか、じゃあ大急ぎで来て下さい……ああ、それからね、オート・バイでなしに、自動車で来て下さい……ええ、僕の自動車《くるま》は、怪我人を乗せて、箱根へやっちまったんです……なんしろ大怪我ですからね……じゃあ後ほど、さようなら……。

 ――ああ、もしもし……もしもし……そちらは、熱海の堀見さんですか? いや、どうも、晩《おそ》くから済みません……失礼ですが、貴女《あなた》は?……ああ、そうですか、私は、弁護士の大月と云うものですが、一寸火急の用件が出来まして……御主人は御在宅ですか?……え?……お留守?……東京の御本宅の方?……じゃアどなたか御家族の方はいらっしゃいませんか?……なに、え? お嬢さん? 鎌倉へ行かれた?……他にどなたも、いらっしゃいませんか?……え? え? お客様が一人?……お客様じゃア仕様がない……じゃアね、変なことをお訊ねしますが、お宅の車庫《ギャレージ》には、自動車がありますか?……え? 有る? そうですか、いや妙ですなア……実は、つい今しがた、箱根の近くで、お宅の自動車にお目にかかったんですよ……乗ってた人は判りませんが、間違いもなくクリーム色のクーペです、嘘だと思ったら、車庫《ギャレージ》を調べて下さい……え? そうですか、お睡《ねむ》いところを済みませんな、じゃア待ってますからな早く調べて下さい……。
 ――やア、どうも済みませんでした……で、車庫《ギャレージ》のほうはどうでした? やっぱり車庫《ギャレージ》は藻抜《もぬ》けの空《から》、それで……それで……なに、なんだって? お客さまが殺されている※[#感嘆符疑問符、1−8−78]……
 ガチリと大月氏は、受話器を叩き落した。そして、なにか身構えるような恰好で、後から駈込んだ事務員達を、黙って真《ま》ッ蒼《さお》い顔をしながら睨め廻した。氷のような沈黙が流れたが、直ぐに大月氏は、気をとりなおすと、ベルを鳴らし、再び慌しく受話器をとり上げた。

 ――熱海署だ!……ああ、もしもし熱海署ですか?……夏山さんはもう出られましたか?……なに、いま出るとこ?……大変なんだ、直ぐ代ってくれ……。
 ――ああ、夏山さん……いやどうも、大変なんです……ええ、さっきの自動車なんですがね、ところがね、その自動車《くるま》は、ほら、あの岳南鉄道の堀見さんのものなんです、で、早速いま、そちらの別荘の方へ電話したんです、すると、すると、別荘に人が殺されてるってんです……ええ、そうそう、殺した奴が自動車《くるま》で逃げたわけです……さあ、その乗ってた犯人が誰だか、そいつア判らんですが、とにかく私は、逃げられないように、両方の停車場《スタンド》を厳重に監視してますから、あなたは別荘へ廻って、そこを調べたら、直ぐにこちらへ来て下さい……じゃアお願いします……。

          五

 堀見氏の別荘は、熱海でも山の手の、静かなところに建っていた。主人の堀見夫妻は、もう夏の始めから東京の本宅へ引挙げていた。その代り、一人娘の富子《とみこ》が、外人の家庭教師と二人で、この十日ほど前からやって来ていた、が、その二人も、今日の午後になって、大嫌いな客がやって来ると、そそくさと逃げるようにして鎌倉の方へ飛び出して行った。殺されたのは、その客であった。押山英一《おしやまえいいち》と云い、富裕な青年紳士だった。
 いったい堀見亮三氏は、岳南鉄道以外にも幾つかの会社に関係していた錚々《そうそう》たる手腕家なのだが、この数年来|二進《にっち》も三進《さっち》も行かない打撃を受けて、押山の父から莫大な負債を背負わされていた。そうした弱味を意識してかしないでか、英一は、まだ婚期にも達しない若い富子を、なにかと求め、追いまわすのだった。
 むろん富子は、押山を毛虫のように嫌っていた。それで、英一がやって来ると、家庭教師のエヴァンスと二人で、落着きもなく別荘をあとにしたのだった。エヴァンスは、まだ富子が子供の頃から、堀見家と親しくしているアメリカ生れの老婦人だった。富子が女学校に這入る頃から、富子の家庭教師ともなって富子に英語を教えて来た。彼女は富子を、自分の娘のようにも、孫のようにも愛していた。
 別荘には、留守番をする母娘《おやこ》の女中がいた。大月氏の慌しい電話を受けて、最初に深い眠りから醒《さま》されたのは母の方のキヨだった。
 睡《ねむ》い眼をこすりながら電話口に立ったキヨは、相手の異様な言葉に驚かされて直ぐに戸外に出て見たのだが、車庫《ギャレージ》にあるべき筈の自動車がなく、表門が開け放されているのをみつけると、なんて物好きなお客さまだろうと思いながら、客室の扉《ドア》を開けてみたのだが、開けてみてそこのベッドの横にパジャマのままの押山が、朱《あけ》に染って倒れているのを見ると、そのまま電話口へ引返した。
 大月氏への返事を済すと、キヨは直ぐに警察へ掛けた。掛け終ってそのまま動くことも出来ずに、顫えながら電話室に立竦《たちすく》んでいた。
 夏山警部補は、重なる電話にうろたえながらも、とりあえず一部の警官を有料道路《ペイ・ロード》へ走らせ、自分は部下を連れて堀見氏の別荘へ駈けつけて来た。続いてやって来た警察医は、押山の死因をナイフ様の兇器で心臓へ二度ほど突き立てた致命傷によるものと鑑定した。二つの傷の一つは、突きそこなったのか横の方へ引掻くようにそびれていた。殺されてからまだ一時間もたっていない死体だった。
 夏山警部補は、キヨをとらえて、とりあえず簡単な訊問を始めた。すっかりあが[#「あが」に傍点]ってしまって、少からずへどもどしながらもキヨは、事の起ったままをあらまし答えて行った。
「……なんでもそんなわけでして、昨晩《ゆうべ》押山様は、大変遅くまで外出なさり、お酒を召してお帰りのようでしたが、それから私達はグッスリ眠りましたので、大月様とかからお電話を頂くまでは、なんにも知らなかったんでございます」
 キヨがそう結ぶと、夏山警部補は、玄関から外へ出て見たが、そこで車庫《ギャレージ》の方へ歩きながら警部補は、懐中電燈の光で、地面の上の水溜りの近くに、車庫《ギャレージ》の方へ向って急ぎ足についている女の靴の跡を、二つ三つみつけ出した。
 車庫《ギャレージ》には自動車《くるま》はなくて、油の匂いが漂っていた。
 夏山警部補は、暫くの間、空《から》の車庫《ギャレージ》をあちこちと調べていたが、やがて「ウーム」と呟くように唸ると、屈みながら顫える手でハンケチをとり出し、そいつで包むようにしながら、床のたたきの上からキラリと光るものを拾いあげた。
 血にまみれたナイフだった。それも、見たこともないような立派なナイフだった。見るからに婦人持らしい華奢な形で洒落《しゃれ》た浮彫りのある象牙の柄《え》には、見れば隅の方になにか細かな文字が彫りつらねてある。警部補は、片手の電気を近づけ、覗き込むようにして見た。
(第十七回の誕生日を祝して。1936. 2. 29)
 警部補は見る見る眼を輝かしながら、そおっとナイフをハンケチに包むようにしてポケットへ仕舞い込み、そのまま急いで母屋《おもや》のほうへやって来ると、そこでまごまごしていたキヨをとらえて早速切りだした。
「時に、あんたは、歳《とし》はいくつだ? もう五十は越したな?」
「いいえ、まだ、わたし恰度でございます。恰度五十で……」
「ふむ。では、あんたの娘さんは?」
「敏《とし》やでございますか? あれは十八になりますが……」
「じゃア、エヴァンスさん
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