なら吸盤があるから、ここまで登って来るかもしれないね」
 とわたしは冗談らしく言った。すると東屋氏は、
「いや、この近海のように寒流の影響のある海には、二、三メートルからの巨大なミズタコというやつはいるが……けれども、そんな赤いものではない」
 そう言って、しきりに首をひねり始めた。
 見ればリノリウムを敷き詰めた床《ゆか》の上には、なるほどそのような妖怪の暴れた跡らしく、点々としておびただしいガラスのかけ[#「かけ」に傍点]や血海のほかに、なんとなくぬらぬらした穢《きたな》らしい色の液体が、ところかまわずベタベタと一面にこぼれており、それがまたなんとも言えない生臭いような臭気をさえ、室中に漂わせているのだ。

       三

「……わからん」
 ややあって、東屋氏が投げ出すように言った。
「さっぱりわからん……けれども、これだけのことはわかるね」と腕組みを解きながら、「とにかくわたし達試験所の当直の報告や、あなた方のお話を綜合《そうごう》してみても、……まずこの大石が、玻璃《はり》窓を破って室内に飛び込み、ランプや旋回機を破壊して当直を叩き殺す。でそのとたんに、ランプの回転が止って閃光《せんこう》が不動光になり、間もなくガス管の故障で灯も消える……一方粉砕された旋回機に巻きついていたロープは切れて、回転動力の重錘《おもり》というか分銅というか、とにかくそいつが、この塔の中心を上下に貫いている三十メートルの円筒の底へドシンと落ちて地響きを立てる……当直が断末魔の呻《うめ》き声を上げる……そうだ。そしてそのとき、変な鳴き声を出して、こんな気味のわるい分泌液をたらしながら、幽霊が侵入する……だが、それから先は、さっぱりわからん…………」
「わたしは、こんな目に出合ったのは、生まれて初めてだ!」
 風間老看守が吐き出すように言った。すると東屋所長が老看守に向って、
「とにかくあなたは、この惨劇をみつけてから、どうされたんです」
「わたしはびっくりして、下へ降りて行き途中で、登って来る三田村君に逢《あ》いました」
「無電が通じなかったからです」
 三田村技手が言った。すると風間老人が、
「むこうの鉄柱からこの玻璃窓の前の手すりへはったアンテナが、大石のために切れてしまったからです……で、それから、わたしは小使を起そうと思って下へ、三田村君は現場へと、すぐに別れました。でも、とにかくなんとかしなければなりませんので、しばらく迷ったあげく、三田村君と小使に、とりあえず試験所へご後援を願いに向わせたんです」
「いやそうですか。一向お役にも立ちませんが」と東屋氏が、われに帰ったように言った。「じゃあとにかく、こうしてもいられませんから……そうだ、風間さん、あなたは、現場の証拠品に手をつけないようにして、早速予備灯の支度をなさってはいかがですか。海は、真っ暗ですよ。……それから三田村さんは、アンテナを修繕して、少しも早く通信を始めて下さい。わたし達もお手伝いしましょう」
 そこで二人はしばらく戸惑うようにしていたが、やがて波の音にせき[#「せき」に傍点]立てられるように、そわそわと降りて行った。そしてわたし達は、それぞれにはげしい興奮を押えながら、あらためて取り散らされた室内を呆然《ぼうぜん》と見廻すのだった。
 ところがここで、はからずもわたしは重大な発見をした。それは一丁のなまくらな手斧《ておの》を、室内のうす暗い片隅から拾い上げたのだ。しかもそのにぶい刃先には、なんと赤黒い血がこびりついていた。
 この発見で顔色を変えた東屋氏は、早速かがみ込んで、あらためてしげしげと友田看守の死体を眺め始めた。が、間もなく死人の頭の右耳の上に、この手斧でなぐりつけたらしい新しい致命傷をみつけて立ち上った。
「これアきみ、傷口の血のかたまり工合から見ても、この傷のほうが、先に加えられたほんとうの致命傷らしいね……すると、あの石の飛び込んだときには、もう友田看守は死んでいたんだ……だが、そうすると、あの石の飛び込んだ音の後から聞いたという呻《うめ》き声は、死人のものなどではないことになる……これアだいぶん事情が違ってきた」
「じゃあやっぱりあれも、幽霊の唸《うな》り声?」
 とわたしは思わず声を出した。
 けれども東屋氏は、それには答えないでしきりに苦吟しつづけていたが、やがて語調をあらためて言った。
「ねえきみ……ぼくはまず、なんと言っても、この奇怪な暴れ石の出所のほうが先決問題だと思うよ……ね、この岩片《いし》には、この辺の海岸にはいくらでもいるフジツボやアマガイのような岩礁《がんしょう》生物が、少しもついていないところをみると、どうしてもこいつは、満潮線以下にあったものではないね。といっても、このしめり工合《ぐあい》じゃあ、まさか山の中のものじゃな
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング