氏だ。
「何んだって?」
「何んでもないさ」と東屋氏が始めた。
「つまり、ピッタリ合うから、違うんだ。判るだろう?……成る程、君の算術には間違いはない。が、君は、算術と現実とをゴッチャにしてしまった。だからいけないんだ。ね、考えて見給え。僕達は、昨夜犯行当時の白鮫号の中味を、そっくりそのまま秤に懸けたわけじゃあないんだ。今日になってから、しかもあっちこっちバラバラの寄せ集め式計算だ。おまけに、浮力の実験に際しても、厳密に云えば必ず多少の不正確さは免れなかった筈だし、搭乗者の服装やその他の細かな変化も、多少とも見逃しているのだ。だから一九〇・九二〇|瓩《キロ》と云う数字は、いや、深谷氏の数字もこの荷物の数字も、凡て犯人推定の引算のために、なくてはならぬ大事な数字には違いないが、それはあくまで大体の数字であって、その大体の数字に依る計算の現実の結果が、ピッタリ合う筈はない!……だから、いま、引算の結果が黒塚氏の体重にピッタリ合った時には、僕は全くびっくりした。実に見事な偶然だよ。余りに見事過ぎて、君は罠に引っ掛かったのだ」
「じゃあいったい、犯人は誰です」
 司法主任が云った。
 東屋氏は私の手からノートを取ると、
「六五・二〇〇|瓩《キロ》の下男の早川です」
 すると司法主任は浮き腰になり、
「下男?――失敗《しま》った。そいつは私達の着く前に、町の郵便局まで出掛けたそうです」
「郵便局?」
 今度は東屋氏が乗り出した。
「飛んでもない。――この岬から西南の海岸一帯に亙って、非常線を張って下さい。山も木立も、それから鳥喰崎も……あいつの『郵便局』はその辺にあるんです」
 と私の方をチラッと見て、
「現に僕達は、先刻《さっき》鳥喰崎の端っぽで早川氏の跫音を拝聴したんだ」
 司法主任は直ぐに飛び出して行った。
 東屋氏も立上った。
「さあ、忙しくなって来たぞ」
 やがて東屋氏は主館《おもや》の玄関《ポーチ》へやって来ると、そこで急に騒ぎ出した警官達を見ながら女中と二人でうろうろしていた深谷夫人を捕えて、早速切り出した。
「奥さん。凶悪な犯人が判りました。下男の早川です」とそれから驚いている夫人へ丁寧に改まって、「時に、甚だ済みませんが、一寸御主人の船室《ケビン》を拝見さして戴きたいのですが――」
「ああ書斎でございますか?」
 と夫人は一寸躊躇の色を見せたが、直ぐに、
「畏《かしこ》まりました」
 そう云って奥へはいって行った。が、間もなく戻って来ると、小さな銀色の鍵を東屋氏に渡しながら、
「どうぞご自由に、お調べ下さいまし」
 やがて私達が再び別館《はなれ》の前まで来ると、東屋氏は、物置の秤台に置かれた桁網の中からマベ貝を二ツ三ツ掴み出して来て、キャプテン深谷の船室《ケビン》へ這入った。
 けれどもその室《へや》は、ただ船室《ケビン》式に造られていると云うだけで、中は割に平凡なものだった。海に面して大きく開いている棧《さん》のはまった丸窓の横には、立派な書架《しょだな》が据えられ、ギッシリ書物が詰っている。総じて渋い装幀の学術的なものが多い。書架と並び合って、大きな硝子戸棚が置かれてあり、その中には、わけのわからぬ道具や品物がいっぱい詰っていたが、黄色い硝子のはまった大きなひとつの吊りランプが私の眼を惹いた。部屋の中央には、およそこの部屋に不似合な一脚の事務机が据えられてあり、その上の隅には、書類用の小箪笥が乗せてある。
 東屋氏はひと亙り室内を見渡すと、机の上へマベ貝を置いて、椅子に腰掛け、暫くジッと考え込んでいたが、やがて書架の前へ歩み寄ると、鼻先を馬のように蠢《うごめ》かしながら、なにか盛んに書物を漁り始めた。私は、ふと自分達の乗って来た馬のことを思い出した。この邸《やしき》へ来た時に日蔭へ縛りつけたなり、まだ一度も水をやってない――で、急に心配になった私は、そのままそそくさと船室《ケビン》を出た。
 冷たい水を馬に飲ませている間に、私は、天候がひどく悪化した事に気付いた。辺りはますます暗く、恐ろしい形相の黒雲は、空一面に深く低く立ち迷って、岬の端の崖の下からは、追々に高くなった波鳴りの音が、足元を顫わせるように聞えて来る。
 私は玄関《ポーチ》の横の長く張り出された廂《ひさし》の下を選んで、馬を廻した。これらの仕事を、随分手間取ってやっと為《な》し終えた時に、東屋氏がやって来た。
「君、多分この家の電話は、長距離だったね? 済まないがひとつ交換局を呼び出してくれ給え。そして三重県へ掛けたいのだがね、番号が判らないんだ。多分、鳥羽《とば》の三喜山《みきやま》海産部で好いと思うが、ま、そう云って問い合して見てくれ給え。そして、大急ぎでそいつを呼び出すんだ」
 東屋氏はそのままホールの方へ這入って行った。私は廊下の電話室で、命令通り交換局へ問合した。そしてその呼び出しを依頼して電話室を出ると、廊下伝いにホールの方へやって来た。
 そこでは深谷夫人と黒塚を相手にして、東屋氏が何か尋ねているところだった。
「――すると御主人は、十年前に日本商船をお退《ひ》きになると、直ぐにこちらへお移りになったんですね」
「左様でございます」
 夫人が答えた。
「で、下男の早川は何年前にお雇いになりましたか?」
「恰度その頃からでございます」
「お宅でお雇いになる以前に、早川は何処にいたかご存じですか?」
「あの男の雇入れに関しては、全部主人の独断でございましたので、私は少しも存じませんが――」
「ああそうですか」と東屋氏は頷きながら、
「ところで、あの船室《ケビン》の前の白い柱《マスト》の尖端《さき》へ、御主人が燈火《あかり》をお吊るしになったのは、度々のことではないですね?」
「ええ、それはもうほんの、年に一度か二度のことでございます」
「ではもうひとつ、これは、妙なことですが、昨晩お宅では、ニュースの時間に、ラジオを掛けてお置きになりましたか?」
「ええ、あれはいつでも掛っております」
「有難うございました」
 東屋氏は紙巻《シガーレット》に火を点けて、ソファの肘掛けに寄り掛った。
 恰度この時電話室の方でベルが聞え、やがて女中がやって来た。
「どなたか、鳥羽へお電話をお掛けになりましたか?」
「ああ僕です。有難う」
 東屋氏は立ちあがって、そそくさとホールを出て行った。
 私達はさっぱりわけがわからないので、ホールの中でキョトンと腰掛けたまま、ろくに話しも出来ずに東屋氏の帰りを待っていた。
 が、十分程すると東屋氏は、折から後続の警官達が着いたと見えて、私とは顔馴染の警察署長を連れてやって来た。そして満面に、軽い和やかな微笑を湛えながら、
「さあ。これでどうやら、この事件も解決が出来ました。これからひとつ説明を致します。どうぞ別館《はなれ》の船室《ケビン》へお出で下さい。あちらの方に色々材料が揃っておりますから――」
 そこで私達はホールを出た。深谷夫人は頭が痛むと云うので主館《おもや》に居止り、東屋氏と私と黒塚、洋吉の両氏、そして署長を加えた五人は、強い疾風の吹き荒《すさ》ぶ中庭を横切って、別館の船室《ケビン》――キャプテン深谷の秘密室《ブラック・チェンバー》へ走り込んだ。

          六

 とうとう、嵐がやって来た。
 私達が深谷氏の船室《ケビン》へはいると間もなく、海に面した丸窓の硝子《ガラス》扉へ、大粒な雨が、激しい音を立てて、横降りに吹き当り始めた。
 高く、或は低く、唸るような風の音が、直ぐ眼の下の断崖から、岩壁に逆巻く磯浪の咆哮に反響して、物凄く空気を顫わせ続ける。
 私達を前にして椅子に腰掛けた東屋氏は、劈《つんざ》くような嵐の音の絶え間絶え間に、落着いた口調で事件の真相を語りはじめた。
「まず、兇行の行われた当時の模様を、大体私の想像に従って、簡単に申上げましょう。――昨晩の十二時頃、恰度満潮時に、海流瓶で殴り殺された深谷氏の屍体と、加害者の早川と、例の奇妙な荷物を乗せた白鮫号は、あの無気味な鳥喰崎の吹溜りへ着きます。船底の重心板《センター・ボード》は粘土質の海底に接触し、舵板《ラダー》の蝶番には長海松《ながみる》が少しばかり絡みつき、そして舷側《ふなべり》の吃水線には、一様に薄穢い泡が附着します。さて、そんな事も知らないで下男の早川は、荷物を岸に投げ降ろし、深谷氏の屍体を海中へ投げ込んで船尾《スターン》へロープで結びつけます。そして、岸伝いに白鮫号を引張って入江の口までやって来ると、帆《セイル》と舵を固定して、船を左廻りに沖へ向けて放流します。それから早川は元の場所に戻って、荷物を引きずって草地へ這入ります。草地の奥の小さな池の岸にアセチリン・ランプを置き、池の中へ桁網に詰めたマベ貝を浸すと、犯人はそのまま陸伝いにこっそり深谷邸へ帰ります。一方、深谷氏の屍体を引張った白鮫号は、一旦沖へ走り出しますが、御承知の通り昨晩は凪《なぎ》でしたので、犬崎から折れ曲って逆流している黒潮海流の支流に押されて、この岬の附近まで漂って来ます――」
 ここで東屋氏は一寸|語《ことば》を切った。
 外の嵐は益々激しさを増して来た。遠く、掻きむしるように荒れ続ける灰色の海の水平線が、奇妙に膨れあがって、無気味な凸線《とつせん》を描きはじめる。多分|颶風《ぐふう》の中心が、あの沖合を通過しているに違いない。東屋氏は再び続ける。
「――只今申上げた通りで、一通りの犯行の過程はお判りになったと思います。が、まだ皆さんの前には、不思議な理解し難い幾つかの謎が残っている筈です。そしてその謎は、最初この事件の解決に当って、割合に単純なこの殺人事件を頗る複雑化したところの代物なんです。例えばまず第一に、不明瞭なこの事件の動機です。そして昨晩ラジオの演芸時間の始まる頃から、急に変られた深谷氏の妙な態度――しかも夫人は、深谷氏の怯えるような独言を聞かれました。いったい深谷氏は『明日の午後』つまり今日のこの午後までに、なにを待ち恐れていたのでしょう? そして又桁網にいっぱい詰ったマベ貝――しかも早川は、私達にそれを見られることをひどく恐れていました――。更に又、夜中にヨットへ乗る深谷氏の奇癖。そして、むっつりした邪険な、それでいてひどく海には執心のあった妙な生活。白い柱《マスト》の尖端《さき》の信号燈――等々です。で、これらの謎を解くために、最も常識的な順序として、ただ一つの現実的な手掛かりであり、私の最も興味を覚えた品である、このマベ貝の研究にとりかかりました。この方面で生活している私が、いまさらマベ貝の研究などを始めたんですから、全くお恥かしい次第です。ところが、そうして色々ひねくり廻しているうちに、私はふとこの貝が近頃人工真珠養殖の手段として、少しづつ実用化されるようになって来た事実を思い出したんです。これはマベ貝が、普通の真珠貝、つまりアコヤガイに比較して、大型の真珠を提供するからですが、で、ふと軽い暗示に唆《そその》かされた私は、早速このマベ貝を一つ打ち砕いて見ました。私の予感は適中しました。これをご覧下さい」
 そう云って東屋氏は、ポケットから一粒の大きな美しい真珠を取り出した。そして、驚いている私達の眼の前の机の上へ、そっと転がしながらなおも語り続けた。
「御覧の通り、これは立派な人工真珠です。ところが、皆さんの御承知の通り、人工真珠の養殖は特許になっています。三重県の三喜山氏が特許権の所有者です。従ってこの真珠は、特許を冒《おか》して密造されたものになります。そして同時にその密造者は、養殖技術をも特許権の所有者から盗み出した事になるのです。ではその密造者は誰か? 深谷氏か? 下男の早川か? それとも二人の共謀か? 私は大きさから見て、殆んど直感的に深谷氏と早川の共謀である事を知りました。そして私は、三重県の三喜山養殖場へ、早川が十年前に何等かの関係があったかどうかを電話で照会して見ました。すると果して、十年前に早川を解雇した事があるとの返事です。そこで、今度は、ひとつこれを見て下さい」
 東屋氏は、書式張った商業書類ら
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