しい紙片を数枚取り出しながら、
「これは、この戸棚の書類金庫から一寸拝借したものです。頗る略式化した一種の商品受領証と云ったようなものですね。欧文です。で、文中商品の項に青提灯とか、赤提灯とかしてありますが、勿論これは真珠を指し示しているのです。そして、この下の処に、T・W・W――としてあるのが、荷受人のサインです。お判りになりますか? つまり深谷氏は、早川と共謀して、外人相手に真珠の密造並に密売をしていられたんです。そして、この七枚の書類の日附けを、深谷夫人にそれぞれ辿って頂いたならば、きっと御夫人は、その各《おのおの》の日の夜遅く、あの白い柱《マスト》の尖端に黄色い信号燈が挙がっていた事を思い出されるでしょう。そしてまさにその時、この海の暗い沖合遙かに一艘の怪し気な汽船の姿を、皆さんは想像する事が出来るでしょう――」
 東屋氏は一息ついた。
 いつの間にか知らない内に、崩れるような激しい嵐は消え去って、風雨は忘れたように遠去かり、追々に、元の静けさが蘇えって来た。
 やがて東屋氏が、
「最後に、私は、キャプテン深谷氏のあの奇妙な、怯えるような独言に就いて――」
 と、この時である。
 主館《おもや》の露台《テラス》の方で、女中の、悲しげな、鋭い絶望的な叫び声が、不意に私達の耳に聞えて来た。
「まあ!……いったいどうしたんだろう。海の色が、まるで血のようだ……」
 私達は、驚いて窓の硝子扉《ガラスど》を、力一杯押し開けた。
 と――今までの灰色の、或は鉛色の、身を刺すような痛々しい海の色は、いつの間にか消え去って、陰鬱な曇天の下に、胸が悪くなるような、濃い、濁った褐色の海が、気味悪い艶《つや》を湛えて、一面に伸び拡がっていた。そして見る見る内にその色は、ただならぬ異状を加えて行く。最初は、ただ濃い褐色だった海が、瞬く内に、暗い血のような毒々しい深紅色の海と化して来た。
 不意に東屋氏が力強い声で始めた。
「これです! この物凄い赤潮です。こいつを深谷氏は恐れていたのです。皆さんもきっとお聞きになったでしょう? 昨晩のラジオのニュースで、黒潮海流に乗った珍らしく大きな赤潮が、九州沖に現れ執拗な北上を始めたと云う事を。そしてそのために、沿海の漁場、殊に貝類の漁場は、絶望的な損失を受けていると云うニュースをですね――。深谷氏もそれを聞いたのです。そしてこの、赤褐色の無数の浮漂微生物の群成に依る赤潮が、真珠養殖に取っての大敵である事を思い出したのです。だから深谷氏は、九州沖からこの附近までの間に於ける黒潮海流の平均速度を、二十四時、つまり一昼夜五〇|浬《カイリ》乃至八〇|浬《カイリ》と見て、赤潮の来襲を、今日の午後までと、大体の計算をしたのでしょう。そして今日の午後までに、昨日にしてみれば『明日の午後まで』に、真珠《まべ》貝の移殖を行わなければならない。そこで深谷氏は、用意を整え、下男――実は共謀者の早川を連れて、ひそかに邸《やしき》を出帆したのです。そして、第何回目かの作業を終った時に、早川の胸裡に恐ろしい野心が燃えあがったのでしょう。恐らくその作業場と云うのは、あの鳥喰崎の向うの、美しい、静かな、鏡のような内湾に違いないです。――だが、もうこれで、あのキャプテン深谷氏の秘密人工真珠養殖場のマベ貝は、完全に全滅です――」
 東屋氏は云い終って、煙草の煙を、ぐっと一息深く吸い込んだ。
 私達は一様に深い感慨を以て、血のような鳥喰崎の海を見た。斑《まだら》な禿山の上には、何に驚いたのか鴉の群が、折からの日差しの中に慌だしく舞い上り、そしてその岬の彼方の沖合には、深谷氏の片足をもぎ取った奴であろう、丈余に亙る暗灰色の大|鱶《ふか》が、時々濡れた背中を鋭く光らしながら、凄じい飛沫を蹴立てて疾走していた。
[#地付き](「新青年」昭和八年七月号、「白鮫号の殺人事件」を改題、改稿)



底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「死の快走船」ぷろふいる社
   1936(昭和11)年
初出:「新青年」博文館
   1933(昭和8)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「白鮫号の殺人事件」で、「死の快走船」ぷろふいる社(1936(昭和11)年)収録時「死の快走船」と改題、かつ大幅な加筆訂正が加えられた。また、探偵役も「青山喬介」から「東屋三郎」に変わった。
入力:大野晋
校正:川山隆
2009年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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