死の快走船
大阪圭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)前方《まえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|玩具《おもちゃ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)水びたし[#「びたし」に傍点]
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一
太い引きずるような波鳴りの聞えるうらさびた田舎道を、小一時聞も馬を進ませつづけていた私達の前方《まえ》には、とうとう岬の、キャプテン深谷《ふかや》邸が見えはじめた。
藍碧の海をへだてて長く突出《つきだ》した緑色の岬の端には、眼の醒めるような一群の白堊館が、折からの日差しに明々《あかあか》と映えあがる。向って左の方に、ひときわ高くあたかも船橋《ブリッジ》のような屋上露台《テラス》を構えたのが主館《おもや》であろう。進むにつれて同じように白い小さな船室《ケビン》風の小屋が見えはじめ、小屋の傍らにはこれも又白く塗られた細長い柱《マスト》が、海近く青い空の中へくっきりと聳えだした。邸《やしき》の周囲には一本の樹木もなく、ただ美しい緑色の雑草が、肌目《きめ》のよい天鵞絨《びろうど》のようにむっちりと敷き詰って、それが又|玩具《おもちゃ》のような白い家々に快い夢のような調和を投げかける。が私達が岬へ近づくに従って、それは雑草ではなく極めてよく手入れの行き届いた見事な芝生であることが判って来た。
深谷邸の主人と云うのは、なんでも十年ほど前まで某商船会社で、欧洲航路の優秀船の船長《キャプテン》を勤めていたと云い、相当な蓄財《たくわえ》もあるらしく退職後はこうして人里はなれた美しい海岸に邸を構えて、どちらかと云えば隠遁的な静かな生活をしていた謂わば隠居船長なのであるが、永い間の海の暮しが身について忘れかねたのか、まるで大海の中のような或は絶海の孤島のような荒れ果てたこの地方の、それも海の中へ突出した船形の岬の上へ、しかもまるでそれが船の上の建物ででもあるかのような家を建てて日ねもす波の音を聞き暮すと云う。不幸にして、私はまだ一度もこの隠居船長に面識を持たないのであるが、そしていま又こうして夫人の重大な招きの電話を受けて始めて深谷邸を訪れる機会を持ちながらもいまはもう会おうにも会えない事情に立ち至ったのであるが、かつて私のところへ二、三度薬を取りに来たこの家の召使の言葉に依れば、なんでも深谷氏のこの奇妙な海への憧れは己れの住《すま》う家の構えや地形のみではあきたらず、日常生活の服装から食事にまでも海の暮しをとりいれて、はては夫人召使から時折この家を訪なう外来の客にいたるまで己れを呼ぶにキャプテンの敬称を強要すると云う、それはまるで海の生活を殆んどそのまま地獄の果までも引っ提げて行こうほどの激しいひたむきな執念だった。されば既に還暦を越した老紳士で人柄としては無口な穏かな人でありながら、家庭と云うものにかけてはまことに冷淡で、わけてもひとつの妙な癖を持っていてしばしば家人を困らしていたとのこと。それはひとくちに云えば並はずれたヨット狂で、それも朝から晩まで附近の海を我がもの顔に駈け廻ると云う程度のものではなく、夜になって辺りが闇にとざされる頃から青白い海霧《ガス》が寒《さ》む寒《ざ》むと立てこむ夜中にかけて墨のような闇の海を何処《どこ》をなにしにほっつき廻るのか家人が気を揉んで注意をしても一向に聞きいれないとのこと。もっとも私のところへ取りに寄来《よこ》した薬と云うのが凡て主人の使うもので、それが皆一種の解熱剤であるのを見ても、大分《だいぶん》無理な夜更しでもするらしいのは判っていたのだが、それならば私がその折召使に伝言《ことづけ》した忠告も、恐らく家人の注意と同じように聞き捨てられたに違いない。可哀想に、年老いた頑《かたく》なキャプテン深谷氏は、そうして我れと我が命を落すような怪我《あやまち》をしでかしたのではあるまいか。老人がそのような夜更しをするさえ既に危険であるのに、殊にこの辺りの海は夜霧が多く話に聞けば兇悪な大|鱶《ふか》さえも出没すると云う。私は、夫人の慌だしい招きの電話を思い出しながら、きっとこの予感は外れていないように思われるのだった。ともあれ私達は急がねばならない。
やがて私達は石ころの多い代赭《たいしゃ》色の、美しい岬の坂道にかかった。ちょうど日曜日で久々に訪ねてくれた水産試験所の東屋三郎《あずまやさぶろう》氏は、折角計画した遠乗りのコースをこのような海岸に変更されて最初のうち少からず鬱《ふさ》いでいたのだが、けれども途々キャプテン深谷氏に関する私の貧弱な説明を聞き、いま又こうして奇妙な岬の深谷邸を眺めるに及んで、はやくも心中にいつもの好奇の病が首を起したのか、いまはもう私の先に立って進みはじめた。
私達の乗った馬は、倶楽部中で一番優れたものだったし、岬の坂道は思ったよりも緩やかだったので、それから十分としないうちに私達は深谷邸の玄関《ポーチ》に辿りついた。折から待ち構えていた下男の手によって、間もなく私達の馬は建物の日蔭の涼しいところへ繋がれ、やがて私達は明るい船室《ケビン》風の応接室で、キャプテン深谷氏の夫人に面会することが出来た。
地味な黒い平服を着て銀のブローチを胸に垂れた深谷夫人は、まだ四十を幾つも越さぬらしい若々しさだ。大粒な黒眼に激しい潤《うるお》いを湛えて、沈鬱な口調で主人の上にふりかかった恐ろしい災禍について語るのだった。
私は夫人の話すところを聞くうちに、先程私の抱いた予感が見事に適中しているのに驚いた。夫人の語るところによれば、キャプテン深谷氏は昨夜《ゆうべ》もあの奇妙な帆走《セイリング》に出掛けたと云う。そして今朝はもう冷たい骸《むくろ》となって附近の海に愛用のヨットと共に漂っていたのだ。私は医師としての職責を果すために、直《ただち》に夫人を促して、別室に置かれた深谷氏の屍体の検査をしなければならなかった。けれどもそこで私は、この事件をかくも異様な恐るべき物語にしてしまったところの驚くべき最初の事実を発見しなければならなかった。
キャプテン深谷氏の屍体は、片足を鱶《ふか》にもぎとられた見るも無残な痛ましいものであったが、検死を進めるに従って、はからずも頭蓋の一部にビール瓶様の兇器で殴りつけられた、明かに他殺の証跡が残されているのを発見した。
私は驚きに顫《ふる》えながらも、つとめて平常を装うようにして、静かに夫人に訊ねた。
「御主人の屍体は、ヨットの中にありましたか?」
すると夫人は私の顔色を見取ってか、急に不審気なおどおどした調子で答えた。
「いいえ、船尾《スターン》の浮袋へ、差通されたように引っかかって、ロープで船に引かれるように水びたし[#「びたし」に傍点]になっておりました」
「ヨットは最初誰が見つけましたか?」
私は再び訊ねた。
「下男の早川《はやかわ》でございます。あれは、白鮫号《しらさめごう》を見つけますと、すぐに泳いで、連れて来てくれました。でも先生、なぜでございます」
「奥さん、これは、大変重大な事件でございます。――御主人は、昨晩何時頃にお出掛けになりましたか?」
「さあ……」と夫人は蒼褪《あおざ》めて小首を傾《かし》げながら不安気な様子で、「いつの間に出掛けましたか……なんでも今朝の七時に主人の寝室に参りました時、始めてそれと気づいたほどでございますので……それに、主人が夜中に帆走《セイリング》をいたすことなぞ、それほど珍らしくもございませんので……」
この時東屋氏が、怺《こら》えかねたように傍らから口を入れた。
「失礼ですが、御主人は、なぜ夜中になぞ帆走《セイリング》をなさるのですか?」
すると夫人は困ったように、
「……あれが、あの人の、道楽なのでございます」
そう云って淋しそうに、笑うとも泣くとも判らぬ表情《かお》をした。
「いつも御主人は、お独りで帆走《セイリング》されるんですか?」
私が訊ねた。
「はい……でも、時々家人を誘いますので、そのような時には、下男に供をさせることにいたしておりました。でも――」
「昨晩は?」
「昨晩は一人でございましたが――」
恰度この時、二人の紳士が室内へはいって来た。私達は満たされぬ思いでひとまず口を噤《つぐ》んだ。深谷夫人は立上って、二人の紳士を私達へ紹介した。
「こちらが、主人の友人で黒塚《くろづか》様と被仰《おっしゃ》います。こちらが、私の実弟で洋吉《ようきち》と申します。どうぞ宜《よろ》しく」
キャプテン深谷氏の友人黒塚と云うのは、見たところまだ四十を五つと越していない、かっぷく[#「かっぷく」に傍点]のいい隆としたアメリカ型の紳士で、夫人の実弟洋吉と云う方は、黒塚氏に較べて体も小さく年も若く色の白い快活そうな青年だ。二人共同じような純白の三つ揃いを着て、どことなく洒脱な風貌の持主だった。
形ばかりの簡単な挨拶を済ますと、私は早速夫人へ、前の続きを切り出した。
「失礼ですが、只今こちらの御家族は?」
「家族、と申してはなんですが、只いまのところ、この方達も加えまして、女中のおきみと下男の早川と、妾《わたし》達夫婦の六人でございます」
私は二人の紳士へ訊ねた。
「失礼ですが、御二人とも永らく御滞在ですか?」
「ええ、いや」と洋吉氏が引きとって答えた。「僕はずっと前からいますが、黒塚さんは、昨夜着かれたばかりです」
「昨夜、ああ左様ですか」と今度は夫人へ、「ではもう一度お訊ねしますが、昨晩御主人は、お独りで帆走《セイリング》に出られたんですな?」
「ええそれはもう」
夫人はそう云って、もどかしそうに私を見た。そこで私は思い切って乗り出すと、
「では申上げますが、実は皆さん……どうもこれは、私の力だけではお役に立たないことになりました。御主人の死は、御自身の過失によるものではありません。一応警察のほうへ、御電話して戴かねばなりません」
すると今まで私の執拗な質問に、先程から何故か妙に落着のない不安気な様子を見せていた深谷夫人は、どうしたことか急に眼の前の空間を凝視《みつ》めたまま、声も出さずに小さく顫えだした。
二人の紳士は、さても面倒なことになったと云う様子で、暫く手を揉み合わせていたが、やがて荒々しく室を出ていった。
居残った私達三人の間には、妙に気不味《きまず》い沈黙がやって来た。が、まもなく夫人は、なにか意を決したように顔をあげると、訴えるような様子で私達へ云った。
「……こんなことにでもならなければ、と思っていたのですが……実は、あの……昨晩から、主人の様子が、いつもと変っていたのでございます」
「と被仰《おっしゃ》ると?」
私は思わず訊き返した。
「はい、それが、あの……あれはなんでも、ラジオの演芸が始まる頃でしたから、宵の七時半か八時頃と思いますが、その頃から、なにかあったのか急に主人は落着きを失いまして、ひどくそわそわしはじめたのでございます……」
夫人が一寸言葉を切ると、東屋氏が口を入れた。
「失礼ですが、その頃に御来客はなかったですか?」
「ございませんでしたが」
夫人が眉を顰《ひそ》めた。すると東屋氏は、扉《ドア》の方を顎で指しながら、
「只今の黒塚さんと被仰《おっしゃ》る方は?」
「あの方のお出《いで》になったのは、九時頃でございます」
「ああ左様《そう》ですか。ではその前、つまり御主人がそのようになられる前に、御主人と話をされたような御来客はなかったですな?」
「ええ、お客様はおろか、昨日《きのう》は郵便物もございませんでした。もっとも、いつだって、此処《ここ》を訪ねて下さる方は、滅多にございませんが――」
夫人はそう云って先程のあの淋しげな顔色をチラッと見せた。が、すぐに次を続けた。
「……でも確かに、なにかひどく心配なことが起きたに違いございません。それは心配、なぞと云いますよりも、いっそ恐怖とでも申しましょうか……こう、ひどく困った風であちらの別館《はなれ》の方の船室《ケビン》の書斎へ籠りまして、暫く悶えてでもいたようでございましたが、恰度心
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