配してこっそり様子を見に参りました私は、そこで主人の、物に怯えるような独言《ひとりごと》を聞いたのでございます」
「どんなことです?」
私は思わず急《せ》き込んだ。
「はい、あの、恰度私の聞きましたのは、なんでも主人が、こう卓を叩いて、うわずった声で、『明日《あす》の午后《ひる》だ、明日の午后《ひる》までだ』と、それから低い声で、怯えるように、『きっとここまでやって来る』とそれだけでございますが……それから急に主人は、さもじっとしていられないように立上って室《へや》を出て来たのでございますが、恰度そこに立っていました私を見つけますと、一層不機嫌になりまして、いままでついぞ口にしたこともないような卑しい口調で、お前達の知ったことではないと云うように叱りつけるのでございます……でも先生。まさかこのようなことになろうなぞとは、存じもよりませんでしたので、それに……こんなことを申上げるのもお恥かしい次第でございますが、あのひとは、平常《ふだん》から邪険な、変った人でございますので、逆らわないに限ると思いまして、心ならずもそのまま自室《へや》へ下って、先に寝《やす》んだのでございます……それが、もう今朝は、こんなことになりまして……」
夫人はここで始めて眼頭に光るものを見せると、堪え兼ねたように面《かお》を伏せてしまった。
私達は、顔を見合せて、席を外すことにした。
廊下に出ると、私は東屋氏に寄りそうようにして云った。
「……驚いたねえ……大変なことになったものだ」
すると東屋氏は、考え深そうに、小声で云った。
「深谷氏の怖れていた奴が、明日の午後、つまり今日、でなくて昨夜やって来たわけだな」とそれから急に改まって、「君、警察の連中が此処へ着くまでには、まだまだ時間があるよ。遠い凸凹《でこぼこ》道だから、三時間は充分かかる。ね、ヨットを見せて貰おう。昨夜深谷氏が乗ったと云うその問題のヨットだ。……僕はなんだか、ひどくこの事件に興味を覚えるよ」
そう云って彼は、私の肩に手をかけた。
本来私は、余り好事家《ものずき》のほうではないつもりだが、東屋氏にこう誘われると、どうしたものか理性より先に口のほうが「うん、よし」と返事をしてしまった。
そこで私達は来合せた洋吉氏に断って玄関《ポーチ》へ出ると、下男に案内を頼み、岬の崖道を下って岩の多い波打際に降り立った。
二
恰度これから午後にかけて干潮時と見え、艶《つや》のある引潮の小波《さざなみ》が、静かな音を立てて岩の上を渫《さら》っていた。
キャプテン深谷氏のヨット、白鮫号は、まだ檣柱《マスト》も帆布《セイル》も取りつけたままで、船小屋の横の黒い岩の上に横たえてあった。最新式のマルコニー・スループ型で、全長約二十|呎《フィート》、檣柱《マスト》も船体《ハル》も全部白塗りのスマートな三人乗りだ。紅《あか》と白の派手なだんだら縞を染め出した大檣帆《メンスル》の裾は長い檣柱《マスト》の後側から飛び出したトラベラーを滑って、恰度カーテンを拡げたように展ぜられ、船首《プラウ》の三角帆《ジブ》と風流に対して同じ角度を保たせながらロープで止められたままになっている。舵は浮嚢《うきぶくろ》を縛りつけたロープで左寄り十度程の処へ固定され、緑色の海草が、舵板《ラダー》の蝶番へ少しばかり絡みついていた。
東屋氏はロープの端の浮嚢を指差しながら下男に訊ねた。
「御主人の屍体はこの浮嚢へ通されて船尾《スターン》に結びつけてあったんですね?」
「ええ、そうです」
下男が答えた。
東屋氏は頷きながら、
「きっと、鱶《ふか》に片附けさすつもりだったんだな……ところで貴方《あなた》は、昨夜御主人のお供をしなかったのですね?」
「はい、いつでもキャプテンのお召しがない限り、お供はしないことになっております」
この物堅いハッキリした下男の答は、ひどく私を喜ばした。東屋氏はなおも続ける。
「いったいキャプテンは、何《な》にしに夜中になぞ、ヨットへ乗るんですか?」
「ただ帆走《はし》り廻られるだけです。あれが、キャプテンの御趣味なんです」
「結構な御趣味ですね」
東屋氏は皮肉に笑いながら、今度はヨットの中へ乗り込んだ。
「君、警察官が来るまでは、余り現場に触れないほうがいいんだよ」
けれども彼は私の忠告などには耳もかさず、大童《おおわらわ》になってあれこれと船中を物色していたが、やがて檣柱《マスト》の側へ近附くと、大檣帆《メンスル》の裾の一部を指でこすりながら、
「血が着いているよ。やっぱり深谷氏は、このヨットの中で殺されたんだな」
私も東屋氏の言葉につい動かされて、近附いて見た。成る程紅白だんだら縞のところに血痕らしい飛沫の痕がある。東屋氏は一層乗気になってヨットの床を調べはじめたが、やがて今度は狭い棧《さん》の間から、硝子瓶の缺《かけ》らしいものを拾い上げて私に見せた。で私は、
「やっぱり兇器は、ビール瓶だろう」
すると彼は私の肩を叩きながら、
「駄目だよ先生、これをビール瓶だなんて云っちゃあ。こいつは海流瓶だよ、まあビール瓶とよく似ているがね。この中へ葉書やカードを密封して、人目につきやすいように、ほら、外側をこんな風にエナメルで着色して、海流の方向速度等を知るために、海の中へ投げ込む原始的な漂流手段だよ」
そう云って東屋氏は、今度は下男へ、
「この邸には、勿論海流瓶なぞいくつもあったでしょうな?」
「はい。やはりキャプテンの御趣味でして」
けれども東屋氏はそれには答えないで、
「まずこれで、兇器も現場も確かめられたわけだ、時に貴方が、今朝この船に泳ぎ着かれた時に、この他に何か船中に残っていませんでしたか?」
「別に、ございませんでしたが……食卓用の、ソフト・チョコレートのチューブが一つ落ちていました」
「それはどうしました?」
「空でしたから、海の中へ捨ててしまいました」
「捨てた?」
東屋氏は呆れたように苦笑いしながらヨットを降りかけたが、ふと船尾《スターン》寄りの小さな船艙に眼をつけて、再び戻ると、その蓋を開けて中を覗き込んだ。が、やがて身をかがめてその中へぐっと上半身を突込むと、黒い大きな貝をひとつ拾いあげた。
「おや、面白い貝だね」私は覗き込むようにして云った。「恰度鳥の飛んでいるのを横から見たような恰好だね。なんと云う貝だろう?」
「マベ貝だよ。穢《きたな》い貝さ」
東屋氏が云った。すると下男が、
「この附近には、そんなものはいくらもあります」
けれども東屋氏は暫く黙ってマベ貝を弄《いじ》っていたが、やがて面白くもなさそうに再び貝を船艙に戻しながら、
「……どうも確かに、深谷氏と云うのは、変り者だね。よくよく海と縁が深いらしい……」
云いながら彼は、片手を船縁《ふなべり》に掛けるようにしてヨットから飛び降りた。そして今度は白く塗られた船体《ハル》の外側に寄添って、船底の真ん中に縦に突き出した重心板《センター・ボード》の鉛の肌を軽く平手で叩いて見ながら、
「いいヨットだなあ。バランスもよさそうだ」
と急に重心板《センター・ボード》の下端部を、注意深く覗き込みながら、
「こりゃ君、粘土が喰っ附いてるじゃあないかね?」
私と下男は、云い合したように東屋氏の側へ寄って覗き込んだ。
成る程|重心板《センター・ボード》の下端部の、鉛と木材の接ぎ目の附近に、薄く引っこすったように柔かな粘土が着いている。
「この白鮫号は、今朝水から上げたなり、まだ一度も降ろさないですね?」
「ええそうです」
下男が答えた。
「するとこの粘土質の泥は新しいものだし、この附近は岩ばかりだし……」と東屋氏は私の方へ笑いながら、
「つまり昨晩深谷氏の乗ったこの白鮫号は、一度何処か粘土質の岸に繋がれた訳だね。そして、この重心板《センター・ボード》が船底から余分に突出しているために、船底のどの部分よりも一番早く、一番激しく、粘土質の海底と接触する……」
「ふむ」
「そしてその海底には、ほら、その舵板《ラダー》の蝶番に喰っ附いている海草が、それは長海松《ながみる》と云うんだが、そいつが、一面に繁茂しているに違いない。その種の海草は、水際の浅いところに多く繁殖するからね」
私も下男もこの推論には、ただ恐れ入るより他なかった。全く海のことにかけては、私などなんにもならない。
東屋氏は重心板《センター・ボード》を離れると、今度は横たえられた白鮫号の船体《ハル》に噛りついて、スマートな舷側に沿って注意深く鋭い視線を投げかけながら、透したり指で触って見たりしていたが、不意に私達を振り返った。
「一寸見に来給え」
そこで私達も船体《ハル》に寄り添って、東屋氏の指差す線に眼を落した。
なんのことはない。半分|乾枯《ひから》びかかった茶褐色の泡の羅列が、船縁《ふなべり》から平均一|呎《フィート》ほどの下の処に、船縁に沿って、一様に船をぐるっと取り巻くようにして長い線を形造っているだけだ。何処にでも見受けられるありふれた現象だ。例えば、潮の引いてしまった岩の上にでも、砂の上にでも――。
「なんだ、泡の行列か……」
思わず云いかけた私も、しかし意味ありげな東屋氏の視線に合って、直《ただち》に彼の云おうとしている意味を汲み取った。
「ああなるほど、君は底に粘土質の泥と長海松の生えている海岸の水面に、この茶褐色の泡が浮いていた、と云うんだね?」
「うむ、だが僕は、もっと素晴らしい事実に気がついたんだ」
そう云って今度は下男に向って、
「この辺は、波は静かでしょうね?」
「ええ、ま大体……」
「昨夜は?」
「海霧《ガス》があったほどですから、無論|凪《なぎ》でしたでしょう」
「よし、ともかく船を出そう」
東屋氏は進み出た。
この速製の探偵屋に最初のうち少からず危気《あぶなげ》を覚えていた私も、いまはもう躊躇するところなく、下男と力を合わせて白鮫号を水際へ押し出した。
やがてヨットが静かな磯波に乗って軽く水に浮ぶと、東屋氏は元気よく飛び乗った。そしてなにかひどく自信ありげに、
「さあ。これから、一寸興味ある実験を始める。船の水平を保つように、各自の位置を平均して取ってくれたまえ」
東屋氏は上機嫌で船縁に屈み込むと、子供のように水と舷側の接触線を覗き込んでいたが、不意に立上って私をふん捉《づかま》えた。
「君、何貫ある?」
「何貫って、目方かね?」
「そうだ」
「よく覚えていないが、五十|瓩《キロ》内外だね」
「ふむ。よし」
と今度は下男に向って、
「君は?」
「私もよく覚えていませんが、六十|瓩《キロ》以上は充分ありましょう」
「成る程。――僕が約五十六|瓩《キロ》と……一寸君達、そのままでいてくれ給え」
そう云って両手で抑えるように私達を制すると、そのまま岸に飛びあがって行った。が、間もなく大きな石を二つ程重そうに抱えて来て、船に積み込ませた。
「さあ、もう一度船の水平を保つために、各自の位置に注意して。いいですか」
そう云って東屋氏は、前と同じように屈み込んで舷側を覗《のぞ》き込んでいたが、間もなく微笑みながら立上って云った。
「よし。これで恰度よい――。ところで、先程僕が面白い発見をしたと云ったのは、これなんだよ。つまり、僕と君とそれから下男《あなた》と、そしてこの大小二つの石と、合計しただけの重量が、一層正確に云えばいまこの白鮫号に乗っかっているだけの重量と同じだけの重量が、そうだ、人間なら大人三人位の重量が、昨夜この泡のある海面に浮いていた同じ白鮫号の中に乗っかっていたのだ。つまり深谷氏は、昨夜一人だけでヨットへ乗っていたのではない。誰かと一緒に乗っていたのだ」
「成る程」
「そしてだ。その重量は、泡のある海面で、この白鮫号の上から、消えてなくなったのだよ」
「どうして?」
私は思わず問い返した。
「だって、もしもそうでなかったなら、いま僕は、こうしてこんな発見をすることは出来ないよ。その泡の海から、波にびたつかれ[#「びたつかれ」に傍点]ながら白鮫号がここま
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