で漂って来る間に、柔かな泡は、すっかり波に洗われちまってる筈だからね」
「うむ。全くだ。判った、判った。つまり深谷氏の屍体が、その泡の浮いているところで水中に投げ込まれ、船尾《スターン》へロープで繋がれたんだな」
「そうだ。だがそれだけじゃあない。ただ深谷氏の屍体が船外に投げ出されただけではなく、深谷氏よりももっと重かった筈の彼以外の重量――人間なら二人の大人だ。そうだ。深谷氏の親愛なる二人の同乗者――それも、恰度その個所で船から降りてしまったのだ。つまり白鮫号はすっかり空《から》になったわけさ。ね、いいかい、深谷氏の体重が一つ減った位では、とても白鮫号はそんなに軽く浮かないからね。試みに――」
 云いかけて東屋氏は岸に飛び上った。
「それご覧。舷側の吃水線と、君の所謂泡の行列って奴との間隔を注意してくれ給え。僕が一人降りたって、二|吋《インチ》とは隔てが出来ないだろう……キャプテン深谷氏だって、僕と大した違いはない筈だ。従ってそればかしの間隔は、船が漂っている内に、殆んど波に犯されてしまうべきだ。殊にヨットは、人が乗っていたりすると、揺れ易いからね。――さあ今度は、皆んな降りてみて下さい」
 で私達は、早速岩の上へ飛び上った。
 するとヨットは急に軽く浮き上って、泡の線と吃水線の間には、平均五|吋《インチ》ほどの隔たりが出来てしまった。成る程これでは、小さな浪ぐらいでは、とても全部の泡を消すことなど出来っこない。東屋氏は再び続ける。
「つまり深谷氏の二人の同乗者は、その泡の浮いた粘土質の底の海岸で、深谷氏の屍体を船尾《スターン》へ繋ぎ、白鮫号をすっかり空《から》にして自分達も降りてしまったわけだ。ところで、この茶褐色の粘り気のある泡は、普通の潮や波の泡ではない。もっと複雑な空気中の、或いは水中の埃その他無数の微粒子によって混成されているのだ。そしてこの種の泡は、広い海面よりも、入江や、彎曲した吹き溜りと云うような岸近い特殊な区域に溜っているものだよ。――ところで、この邸には秤《はかり》がありますか?」
 東屋氏は下男に訊ねた。
「あります。自動台秤の大型な奴が、別館《はなれ》の物置の方に」
「結構、結構。――さあ、もうこれで、いまこの白鮫号へ乗った全部の重量と、深谷氏の体重を計りさえすれば、二人の同乗者の目方も判ると云うわけだ。極く簡単な引算でいい」
「こりゃあ面白くなって来た」
 私は思わず呟いた。東屋氏は笑いながら、
「いやどうも有難う……ではもう、この位でいいだろう。引揚げよう。おっと、この二枚の帆の装置と云うか、トリムと云うか、固定された方向だね。こいつは、右舷の前方から吹き寄せる風に、ひとりでに押されるように仕掛けられた訳だ。そして、左寄り約十度に固定された舵――ははあ、つまり、船を自然に大きく左廻りに前進させようと云う――泡のある吹溜りで深谷氏の同乗者が仕掛けたテクニックだな。よし。さあ出掛けよう。君、その石を持ってくれ給え」

          三

 東屋氏は大きな方の石を、私は小さな方の石を、お互に重そうに抱えて、崖道を登りはじめた。軽く吹き始めた潮風が、私達の頬を快く撫で廻す。下男の早川は、ヨットの艫綱《ともづな》を岩の間の杭に縛りつけたり、船小屋からシートを取り出してヨットの船体《ハル》へ打掛けたりしていたので、私達よりもずっと遅れてしまった。
 私達が崖道を半分ほども登った時に、深谷家の女中が馳け下りて来て、仕度が出来たから昼食を認《したた》めるよう申出た。
 ところが東屋氏は、早速彼女をとらえて短刀直入式に質問を始めた。
「こちらの御主人は、いつも夜中に海へ出て、いったい何をされるんですか?」
「さあ……」
 と彼女は驚いたように眼を瞠《みは》りながら、
「でも、夜中にヨットへお乗りになるのは、キャプテンの御趣味なんですもの……」
「随分変った趣味ですね……貴女《あなた》も、お供をしたことがありますか?」
「ええ、暫く以前のことですが、一度ございます……綺麗な、お月夜でございました」
「ただこう、海の上を帆走《はし》り廻るだけですか?」
「ええ。でも素晴らしい帆走《セイリング》ですわ」
「お月様でも出ていればね」
 と東屋氏は話題を変えて、「時に、昨日の夕方、他所《よそ》からのお客さんはありませんでしたか?」
「夕方ですか? ええございませんでした」
「黒塚さんは?」
「あの方は九時過ぎでした」
「電話は?」
「電話? ええ、掛りません。あの電話は、殆んど飾りでございますわ」
「昨夜御主人は、なにを心配して見えたんですか?」
「え?……さあ、少しも存じません。なんでも大変、お顔の色は悪うございましたが――」
 彼女は不審気に東屋氏を見た。
「では昨夜は、誰れと一緒にヨットへ乗られたんですか?」
「いいえ、キャプテンお独りだけでございました」
「何時《いつ》頃出られたんです」
 東屋氏は益々執拗だ。
「さあ、存じませんが……早川さんと私は、それぞれお先へ寝《やす》まして戴きましたので――」
「ではどうして、キャプテン独りで出られたのが判ったのです?」
「それは……」と彼女は明かに困った風で、「でも、ヨットは今朝、キャプテン独りだけで漂っていましたので」
 東屋氏は一息つくと、改めて云った。
「キャプテンは、随分変った方でしたね?」
「ええ。風変りでいらっしゃいました。……そして、なんでも『これは儂《わし》の趣味じゃ』と被仰《おっしゃ》るのが口癖でございました」
 やがて私達は、崖道を登り詰めた。
「物置のある別館《はなれ》と云うと、あれなんですね?」東屋氏は岬の最尖端の船室《ケビン》造りの建物に向って、歩きながら言葉を続けた。
「もう少し、私と話をして下さい」
「はい」
 彼女は仕方なさそうについて来た。
「あの黒塚さんと云う方は、どう云う人ですか?」
「ああ黒塚様ですか」と彼女は幾分元気づいた様子で、「なんでもあの方は、以前キャプテンの乗っていらした汽船で事務長をなさっていらっしゃるとかで、休航毎にああしてお遊びに来られます」
「御年配は?」
「さあ、四十位? と思いますが……まだお独身《ひとり》で、快活なお方ですから、キャプテンよりもむしろ奥様や洋吉様とお親しい様子で……」
「ああその洋吉さんと云う方は、奥さんの御舎弟ですってね」
「ええそうです。チョコレートのお好きな、随分モダーンな方で、この春大学を御卒業なさってから、ずっとこちらにいらっしゃいますわ」
「チョコレートが好き?」
 私は瞬間、先程の下男の言葉を思い出して、思わず口を入れた。「それで、昨夜何時頃に寝《やす》まれましたか? 洋吉さんは」
「昨夜ですか? 存じません。なんでも黒塚様と御一緒に、久し振りだからって随分遅くまで御散歩のようでしたので――」
 恰度この時、下男の早川が私達に追いついて来た。そしてもう別館《はなれ》の物置の入口まで来ていた私達へ、
「秤は此処にございます。一寸お待ち下さい」
 そう云ってポケットから鍵を取り出した。
 東屋氏は女中へ云った。
「いや、もう結構です。有難う」
 そこで彼女は、ほっとしたように急いで、主館《おもや》の方へ引返《ひっかえ》して行った。そして間もなく私達は物置の中へはいって、銘々《めいめい》に秤へ懸りはじめた。
 先ず東屋氏が五六・一二〇|瓩《キロ》、次に私が五五・〇〇〇|瓩《キロ》、下男の早川が六五・二〇〇|瓩《キロ》。二つの石は合せて一四・六〇〇|瓩《キロ》。そして合計一九〇・九二〇|瓩《キロ》。――
 東屋氏は、以上の数字をノートへ記入しながら、
「合計一九〇・九二〇|瓩《キロ》と、さあよし。つまりこれが、昨夜の白鮫号に加えられた、最高の重量と云うわけだ。……じゃあここらで、昼食にありつくとしようか」
 そこで私達は物置の外に出た。けれども東屋氏は、物置の直ぐ右隣のスマートな船室《ケビン》風の室《へや》を見ると、思いついたように早川へ云った。
「これが、キャプテンの書斎ですね?」
「ええそうです。船室《ケビン》、船室《ケビン》と呼んでいる特別の室でございます。やはりキャプテンの御趣味に従って七、八年前に建てられたものでして、お許しがなくては誰でも這入れないことになっております」
「成る程、じゃあもう、永久に這入れないわけですね」
 東屋氏は皮肉を云いながら歩き出した。

「ローンジを兼《かね》た美しい主館《おもや》の食堂では、窓に近い明るい場所にテーブルを構えて、深谷夫人と黒塚、洋吉の三人が、悲嘆のうちにも、もう和やかな食事を始めていた。そこで私達も席について気不味さを避けるように窓の外の美しい景色を眺めながら、人々の仲間に加わった。
 ここから見ると、海の姿は一段と素晴らしい。遠く左の方には薄紫色の犬崎が、私達の通って来た海岸へ続くのであろう、この大きな内海を抱きこむようにして、漂渺たる汀《みぎわ》を長々と横えている。向って右側には、油を流したような静かな内湾地帯だ。幾つもの小さな岬が重なり合った手前には、ひときわ目立って斑《まだら》な禿山のある美しい岬が、奇妙に身を曲《く》ねらして海の中へ飛出している。凡て右側の湾の多い陸地は、深い山が櫛の歯のように海に迫り、蜘蛛の子を散らしたような磯馴松《いそなれまつ》が一面に生い茂っている。この邸以外には人家らしいものとてなく、見渡す限り渺茫たる海と山との接触だ。青い、ぼかし絵のようなその海を背にして、深谷氏の船室《ケビン》が白々と輝き、風が出たのか白い柱《マスト》の上空を、足の速い片雲が夥しく東の空へ飛び去っていた。
 やがて食事が済むと、紅茶のカップを持ったまま、窓の外を見ながら東屋氏が口を切った。
「あの柱《マスト》は、何になさるのですか?」
「あああれは、汽船《ふね》の気分――を出すためとか申しまして」
 夫人が物憂げに答えた。「あれも主人の、趣味でございます」
「尖端《さき》の方に妙な万力が吊るしてありますな?」
「ええ、そう云えば、時にはあの尖端《さき》に燈火《あかり》を点けることもございました……年に一度か二度のことですが、なんでも、いつもより少し遠く、沖合まで帆走《セイリング》する時の、目標《めじるし》にするとか申しまして……」
「ははあ」
 と東屋氏はいずまいを改めて、
「いや、随分いい眺望《ながめ》ですなあ」
「お気に召しましたか?」
 洋吉氏が口を入れた。
「いや、全く美しいです。こんな美しい海岸でしたら、穢い泡などが浮き溜っているようなところはないでしょうなあ?」
 すると洋吉氏は、
「いや。ところがあるんですよ」
 と窓の外を指差しながら、「ほら、あそこに、静かな内湾のこちらに、妙に身を曲《く》ねらした、処々に禿山のある岬が見えますね。あの岬は鳥喰崎《とりくいざき》と呼ばれていますが、あの先端《さき》の向う側が、一寸鉤形に曲っていて、そこに小さなよどみ[#「よどみ」に傍点]と云いますか、入江になった吹き溜りがあります。その吹き溜りには、濃い茶褐色の泡が平常《いつも》溜っています……去年の夏水泳をしながらあの中へはまり込んで、随分気味の悪い思いをしましたから、よく覚えていますよ」
「ああそうですか。……時に貴方は、大変チョコレートがお好きだそうですな?」
 このぶっきら棒な質問には、明かに洋吉氏も驚いたと見えて、複雑な表情《かお》をして東屋氏を見返した。
「ああ、いや」と東屋氏は妙な独り合点をしながら、「実は今朝、ヨットの中にチョコレートのチューブがあったそうですので、私はまた、貴方が昨晩……」
「冗談じゃあない」
 洋吉氏が流石《さすが》に色をなして遮った。「成る程私は、チョコレートが好きです。が、あれは、昨日の午後に、姉と二人で帆走《セイリング》した時の残りものです。昨夜は、僕は黒塚さんと一緒に、おそくから山の手を散歩していたんです」
「ははあ、ではその御散歩中、ひょっと怪しげな人間に逢いませんでしたか?」
「逢いませんでしたよ」
 と今度は、いままで黙って巻葉《シガー》を燻らしていた黒塚氏が
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