乗り出した。
「では、海の上に、白鮫号は見えませんでしたか?」
すると黒塚氏は、口元に軽く憫《あわれ》むような笑いを浮べながら、
「なにぶん闇夜で、生憎薄霧さえ出ましたからね……」
そこで東屋氏も笑いながら、
「お風邪を召されませんでしたか?」
とそれから急に真顔になって、「ところで、大変あつかましいお願いで恐縮ですが、貴方と洋吉さんのお二人に、一寸お体を拝借したいんですが?」
「よろしいですとも……だが、なにをなさると被仰《おっしゃ》るんです?」
「あの物置の、秤に懸《かか》って戴きたいです」
「と被仰《おっしゃ》ると……いったい又なんのためにそんな事をなさるんですか?」
「ええその、この事件に就いて、少しく愚案が浮びましたので……」
「はて? 少しも合点がいきませんな……我々の体を天秤へ乗っける――?」
「つまりですな……犯行当時の白鮫号に、人間が合計三人以上、正確に云えば、一九〇|瓩《キロ》強の重量が乗っかっていた、と云う私の推定に対する実験のためにです」
「ど、どうしてそんな事が断定出来たのですか?」
「先程拝見しました白鮫号の白い舷側の吃水線から、一様に五|吋《インチ》程の上のところに、水平な線に沿って、茶褐色の泡の跡が残っております。でこの五|吋《インチ》の開きは、正確な計算によりますと、約一九〇・九二〇|瓩《キロ》の積載重量の抵抗、白鮫号の浮力に対する抵抗を証明しているのです」
すると黒塚氏は軽く笑い出した。そして、冷やかな調子で口を入れた。
「成る程ね。しかしわれわれ玄人《くろうと》側から見ると、貴方のそのお考えには、少々異論が出ますな……」
東屋氏の顔が心持緊張した。私もついつり込まれて、思わずテーブルの上へ乗り出した。
「貴方はローリング、つまり横揺れを考慮に入れていない」と黒塚氏が始めた。
「御承知の通り、このローリングは、どんな船でも多少にかかわらず必ず作用するものでしてね。で、この場合、空《から》の白鮫号の吃水線上五|吋《インチ》のところに泡の線が着いていたにしても、それをもって直《ただち》に九〇|瓩《キロ》[#「九〇|瓩《キロ》」はママ]強の重量が積載されていたと断定するのは、甚だ早計な観測だと思うのです。と云うのは、たとえそれだけの重量の抵抗がなかったとしても、ローリングによって船が左右に傾けば、その角度の大小に従って舷側の吃水線は上下します。そしてもしも海上に泡が浮いていたとすれば、幾度か上下した吃水線のうちの最上の線に沿って、その泡は残ります。つまり空の船が水平に浮かされた場合の標準吃水線以上の位置に、貴方の見られた、第二の別な、泡の吃水線が、何にも乗らなくても、ローリングで作られるのです。成る程あの吹き溜りでは、波はなし、岬の陰で風も少い訳ですから、縦揺《ピッチング》などはしないでしょう。が、ローリングは、多少にかかわらず必ずいたします。ですから支那の司馬温公みたいに、池に舟を浮べて象の重さを計るような具合には行きませんぜ。貴方の一九〇|瓩《キロ》説は、少々早計でしたな」
そう云って黒塚氏は、葉巻《シガー》の吸い差しを銀の灰皿の中へポンと投げこんで、両腕を高く組みあげた。
成る程|流石《さすが》に専門家だけあって、論説もなかなか行き届いている。私は急に心配になって東屋氏の形勢を窺った。ところが東屋氏は一向に平気で、安心したように緊張を解くと、静かに始めた。
「大変有力なお説です。だがここでひとつ、私の素人臭い反駁をさして貰いましょう。でその前にもう一度申上げて置きますが、あの泡の吃水線は、白鮫号の船体《ハル》の周囲、舷側全体に亘って同じ高さを持っているのです。つまり泡の吃水線は船首《プラウ》も船尾《スターン》もどの部分も一様に水平であって、少しの高低もないのです。――で、私の考えとしましては、只今被仰ったローリングの作用には、原則として必ず中心となる軸、と云いますか、まあこの場合白鮫号の船首《プラウ》と船尾《スターン》を結ぶ線、首尾線とか竜骨線とか云う奴ですね、とにかくその軸がある筈です。でもし、貴方の被仰《おっしゃ》ったように、あの泡の吃水線が積載された一九〇|瓩《キロ》強の重量の抵抗によって出来たものではなく、ローリングによって標準吃水線以上の位置に出来たものであるとすれば、そのローリングの軸である船首《プラウ》と船尾《スターン》の吃水線は、左右の舷側の吃水線に較べて、必ず低くなければならない筈です。逆に云えば、両舷側の泡の吃水線は、軸の両端の船首《プラウ》と船尾《スターン》を遠去かるに従って高くなる訳です。ところが、再三申上げた通り、白鮫号の吃水線はどの部分にも高低がなく、一様に水平を保って着いているのです。なんでしたなら、これからひとつ実地検分を願っても好いです。で、この論点からして、失礼ですが、あの泡の跡がローリングによって出来たものであると云うお考えを否定しなければなりません。もっとも私は、白鮫号が決してローリングしなかったとは思いません。現在《いま》残っている泡の線を壊さぬ程度の横揺《ローリング》はあったでしょう。しかし、比較的波の多いこちらの海へ漂流して来る間に、ローリングをして尚且つ泡の線が殆んど全体に亘って無事でいられたのは、その吹き溜りで白鮫号が、すっかり空《から》になり、急に軽くなって、吃水が浅くなったからです」
「……ふん、理窟ですな」
黒塚氏は口惜しそうに呟いた。
「では、先程のお願いを、お聞入れ願いたいと思います」
そこでとうとう、二人は秤に懸ってしまった。
先ず黒塚氏が六六・一〇〇|瓩《キロ》。続いて洋吉氏が四四・五八〇|瓩《キロ》。合計一一〇・六八〇|瓩《キロ》。
「義兄《にい》さんの体重も、お知りになる必要があるんでしょう?」
洋吉氏が云った。
「深谷氏のですか? ええ、是非ひとつ」
「恰度いいですよ。姉の『家庭日記』に、一月毎の記録がある筈ですから」
そう云って洋吉氏は、主館《おもや》へ向って大声で女中に命じた。
間もなく上品な装幀の日記帳が届けられた。洋吉氏は早速|頁《ページ》を捲《め》くる。
「ええと、これは先月……これこれ、恰度三日前のが記入してあります」
「ははあ、五三・三四〇|瓩《キロ》ですね……あ、この三八・二二〇|瓩《キロ》と云うのは? ああ奥さんのですな。いやどうも、有難うございました」
東屋氏の語尾が掠《かす》れるように消えると、瞬間、緊張した、気不味い沈黙がやって来た。
東屋氏はそれとなく身を反らして数字をノートへ記入しながら、素早く引算をするらしい。私も戸外を見るような振りをして、大急ぎで暗算を始める。例の一九〇・九二〇|瓩《キロ》から深谷氏の五三・三四〇|瓩《キロ》を引くと……一三七・五八〇|瓩《キロ》――これが例の深谷氏の二人の同乗者の重量だ。ところが黒塚、洋吉両氏の合計は一一〇・六八〇|瓩《キロ》。同乗者の乗量より二六・九〇〇|瓩《キロ》も少い。――昨夜深谷氏と共にヨットへ乗っていたのは黒塚、洋吉の両氏ではない。私は何故か軽い失望を覚えて東屋氏を見た。すると彼は、黙ってノートをポケットへ仕舞って、静かに外の芝生のほうへ歩き出した。
大分風が強くなったと見えて、相変らず足の速い片雲の影が、芝生の上に慌だしい明暗を残して掠《かす》め去る。――何気ない風を装いながらも、あれで東屋氏も私と同じように、失望したに違いない。が、やがて彼は振り返ると、さも平気な様子で、
「如何ですか黒塚さん。白鮫号の泡の跡を御検分なさいますか?」
「もう、それにも及びますまい」
「そうですか。では、警察官が着くまで、暫く白鮫号を、私達にお貸し下さいませんか?」
「どうぞ御自由に」
すると東屋氏は、私の肩を叩きながら、わざと向うへ聞えるような大声で、
「おい、鳥喰崎へ行って見よう」
四
低気圧がやって来ると見えて、海は思ったよりもうねりが高かった。急に吹き始めた強い南風に先の尖った小さな無数の三角波を乗せて、深谷邸のある岬の方へむくむくと押しかけて行く。堪えられないほど陰気な色の雲が、白けた太陽の光を遮る度に、或は濃く或は薄く、水の色が著るしく映え変る。と、横ざまの疾風《はやて》を受けて、藍色の海面は白く光る、小さな風浪《かざなみ》に覆いつくされ、毒々しい銀色にきらめき渡る。白い冷たいその海の彼方には、暗緑の鳥喰崎が、折りからの雲の切れ目を鋭い角度で射通した太陽の点光《スポット・ライト》に照らされて、心持ち赤茶けながらくっきりと映えあがって来た。
私達の乗った白鮫号は、左舷の前方から強き南風を受けて、射るように速くうねりを切って走り続ける。私も東屋氏もヨットの帆走《セイリング》法は心得ていたし、それにこのシックなマルコニー・スループは、恐ろしく船足が軽い。やがて私は、軽く面舵《おもかじ》を入れた。白鮫号の船首《プラウ》は、緩やかな弧を描いて大きく右転しはじめる。鳥喰崎に近附いたのだ。進むにつれて右舷の海中へ、身を曲《く》ねらして躍り出た巨大な怪獣のような鳥喰崎の全貌が、大きくのしかかるように迫り寄る。すると、その出鼻を越して私達の視野の中へ、鏡のような内湾が静かに横わって来た。船は緩やかにその内湾の入口に差し掛る。間もなく私達は、無気味な吹溜りを擁していると云う小さな鉤形の岬を曲り始めた。内湾を左に見て段々私達がその岬を折れ曲るに従い、鳥喰崎の陰鬱な裏側が見え出して来た。確かにそれは陰鬱だった。
水際には少しも岩がなく、それかと云って、何処の浜にでもある砂地とても殆んどなく、一面に黒光りのする岩のような粘土質の岸の処々に、葦《あし》に似た禾本《かほん》科の植物類が丈深く密生して、多少|凸凹《でこぼこ》のある岸の平地から後方鳥喰崎の丘にかけて、棘《いばら》のような細かい雑草や、ひねくれた灌木だの赤味を帯びた羊歯類の植物だのが、遠慮なく繁茂している。そしてその上方には、原始的な喬木の類が重苦しいまでに覆い重なっている。船がこの陰気な小さい入江にはいると、不思議に風がなくなってしまった。少しの横揺れもしない白鮫号は、惰性の力で滑るように動いている。恰度この時、いままで海面にギラギラ反射しながら照りつけていた太陽の光りが、深い雲の影に遮られると、急に辺りが暗く、だが気味悪いほどハッキリして来た。私は思わず水面を見た。
この小さな海の袋小路の上には、どろどろした、濃い、茶褐色の薄穢い泡の群が、夥しく漂っている。そしてそれが、入江の奥へ行くに従ってどんどん密度を増し、とうとう一面の泡の海と化して来た。
「この辺へ着けよう」
東屋氏の言葉に従って重心板《センター・ボード》が海の底へ触れないように、なるべく深味のところを選んで私は船を着けた。
恰度私達が、しっとりした岸の上へ降り立った時に、
「シイッ!――」
と東屋氏が、不意に私を制した。
辺りが恐ろしいほど静かになった。と、その静寂《しじま》を破って、遠く、低い、木の枝を踏みつけるような、或は枝の葉擦れのような、慌だしい跫《あし》音が私の耳を掠《かす》め去った。誰かが大急ぎで、密林の中を山の方へ駈け込んで行くのだ。
「誰れだろう?」
私は東屋氏を振り返った。が、彼はもう跫音などには頓着なく、五|米突《メートル》ほど隔てた岸に立って、黒い粘土の上を指差しながら私へ声を掛けた。
「一寸見に来たまえ」
そこで私は東屋氏の側へ歩み寄って、指差された地上へ眼を落した。水際の粘土質から草地の方へ掛けて、引っこすったような無数の妙な跡がある。確かに足跡を擦り消した跡だ。
「昨晩、キャプテン深谷氏を殺した男達の足跡だよ。それを、いま密林へ逃げ込んで行った男が消したわけさ」
「追っ駈けて捕えよう」
私は思わずいきまいた。
「もう駄目だよ。こんな勝手の知れない山の中では、僕等の負けにきまってる」
「ふん……じゃあ怪しい奴は、まだうろうろしてたんだな」
私は口惜しそうに云った。
「そんなことはきまってるさ」
と東屋氏は、それから意外なことを云
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング