った。
「君は、深谷氏を殺した男達が、外部から来たと思っているのかい?」
 全く私は、先程の秤の実験に失敗してから、今更深谷氏の妙な独言を思い直して、深谷氏の恐れていたのは黒塚ではなく、全く別の、外部《そと》から来た男だと考え始めていた矢先きだったので、東屋氏のこの言葉には少からず驚いた。
「そりゃあ僕だって」と東屋氏は笑いながら、「君と同じように、黒塚と洋吉を臭いなと思ったが、先刻《さっき》のあの実験に失敗してからは、どうやら犯人は我々の知らない全々別の外部の者だな、と思っていたさ。けれども、いまはもう違う。何故って、この消された足跡を見給え。もしも犯人が外部の者だったなら、何故僕達が鳥喰崎へ来ることを早くも知ったり、足跡を消したりなぞしたんだ。……犯人は、間違いもなく、深谷家に現在《いま》いる人々の中にある」
「成る程。じゃあやっぱり、現在深谷家にいる人々の中に、昨夜深谷氏の恐れていた奴がいるんだね?」
「そう考えるから六《むつ》ヶ|敷《し》くなるんだよ。なにも深谷氏の恐れていた奴が、必ずしも犯人だとは限るまい」と東屋氏は改まって、「……とにかく、この辺に、白鮫号の重心板《センター・ボード》が喰い込んだ跡がある筈だ」
 そこで私達は、恰度干潮で薄穢い泡を満潮線へ残したまま海水の引いてしまった水際へ屈み込んで、どろどろした泡を両手で拭い退けはじめた。この仕事は確かに気持が悪かった。が、間もなく私達は、干潮線の海水に三分の一程|浸《ひた》った幅一|吋《インチ》程の細長い窪みを発見した。そしてその窪みから一|呎《フィート》程のところに、海の底が岩になっていて、深緑色の海草、長海松《ながみる》の先端が三四本|縺《もつ》れたようにちょろちょろと這い出ていた。
「これで見ると、この重心板《センター・ボード》の窪みは、昨晩の満潮時につけられたものだね。昨晩の満潮時と云うと、恰度十二時頃だ。さあこれでよし。今度は、足跡の方向を尋ねて見ようか」
 私達は、掻き消された足跡を辿って、草地の方へ歩き出した。二回程海岸と草地の間を往復したらしく、消された足跡は、外《は》み出したり重複したりして沢山着いていた。そして、その足跡の列の左側に、処々足跡をオーバーして、重い固体を引きずったような幅の広い線が、軽く着いているのに私達は始めて気附いた。
「なんだろう? 深谷氏の屍体を運んだ跡だろうか?」
 私は東屋氏へ声を掛けた。
「うむ、だがしかし、そうとすると、深谷氏は船中で殺されそのまま船尾《スターン》へロープで縛って海中へ投げ込まれたと云う僕の考えは、一応覆えされることになる……」
 東屋氏は考え込みながら草地の処までやって来た。足跡の消された跡は、そこから見えなくなってしまった。昨晩踏みつけられ、又重い物を引きずられた時には、きっと草も敷き倒されたに違いない。が、時間を経ているためにもう、皆んな生々と伸びあがっている。
 やがて処々に生い茂った灌木の間を縫うようにして、草地を歩き廻っていた私達は、ひときわ高く密生した木蔭の内側で、小さな池を発見した。そしてその細かい草の敷かれた岸辺には、大型のアセチリン・ランプが一つ転がっていた。そしてもっと私達の注意を惹いたことには、先程海岸の土の上で私達が見たと全く同じな重い物を引きずったような跡が、池の中から出たらしく岸の小石を濡して草地の中へ、しかもいま私達がやって来た海岸の方とは反対に、山の方へ向けて着いていた。重い品物は、ほんの数分間前に池から上げられて引きずられたと見え、草は敷き倒されたままびっしょりと、一面に濡れていた。
 私達は昂奮しながら、それでも黙って跡を辿りはじめた。やがて細長い草地が行き詰って、密林に立ち塞がれた前方の、今私達が辿っている奇妙な跡の延長線上に、恰度大きな黒犬が蹲《うずくま》った位の、訳の判らぬ品物が見えて来た。私達は心を躍らしながら、大急ぎで駈け寄った。
 が、再び私達を驚かしたことには、その黒い品物と云うのは、貝類採取用の小さな桁網《けたあみ》に、先程深谷邸で白鮫号の浮力の実験をした時に東屋氏が発見したと同じなマベ貝の兄弟達が、ギッシリ詰っていた。網の口は、中味が零《こぼ》れないように縛りつけてある。私達は立ち竦《すく》んでしまった。
「……やっぱり深谷氏の屍体なぞではなくて、こいつだったんだな。だが、いったいこれはどうしたことだろう? こんな貝を、しかもこんなに沢山集めて、何んにしようと云うのだろう? そしてなによりも、何故|先刻《さっき》この木立を逃げて行った人間は、我々にこんなものを見られたくなかったのだろう?……」
 東屋氏は、そのまま暫く考え込んでしまった。が、やがて因ったように顔を上げると、急に元気のない調子で、
「……どうも僕は、いままで大変な感違いをしていたらしい」
「と云うと?」
「いや……後で話そう。とにかく、もう此処はこれで沢山だ。引き揚げよう」とそれからマベ貝の詰った桁網の上へ屈みながら、
「済まないが、君も手伝ってくれ給え。こいつは大事な証拠品だから」
 私はなんのことだか判らぬながらも、取敢《とりあえ》ず彼の申出に従った。やがてひどく重いその荷物を二人してやっとこ提《さ》げながら先程の小池の岸へ出て来た私達は、其処でアセチリン・ランプをも荷物の中へ加えて、間もなく元の海岸へ出た。
 重い荷物を白鮫号に積み込んだ私達は、この吹き溜りには風がないので、岸伝いに白鮫号の艫綱《ともづな》を引っ張って、風のある入江の口までやって来た。
「此処で昨晩の加害者も、帆《セイル》や舵の位置を固定して、白鮫号を放流したのだよ。見給え。ほら、やっぱり擦り消された足跡が、ずっと続いて着いている」
 東屋氏にそう云われて、始めて私はそれに気がついた。こちらの足跡は最初上陸した附近の足跡よりも先に消したと見えて、消し方がずっと丁寧である。
「さあ。僕等もこの辺で出帆しよう。大分風も強くなって来た」
 私達は船に乗り込んだ。大きな大檣帆《メンスル》は暫く音を立ててはためいていたが、やがてその位置を風向きに調節されると、白鮫号は静かに走り出した。
 東屋氏は紙巻《シガーレット》に火を点けると、舵手の私に向って口を切った。
「やっぱりそうだ。僕は今まで大変な誤謬を犯していたよ。つまり、先刻《さっき》この浮力の実験をした時に、僕は、昨夜この白鮫号に深谷氏も加えて三人の人間が乗っていたと断定したね。あれがそもそも過失なんだ。勿論重量の一九〇|瓩《キロ》強と云うのは間違ってはいないさ。ただ人間の頭数だ。人間の頭数が三人ではないと云うんだ。では何人か? 二人だ。勿論、一九〇|瓩《キロ》と云う重量は、二人の人間の重量としてはひどく重過ぎる。そこで僕等は、こいつを思い出せば好いんだ。このマベ貝やらアセチリン・ランプやらの重量をね。確かにこれらの荷物が、昨夜、深谷氏と加害者の二人に加わってこの白鮫号に乗っていたと云う事は、もはや誰にだって理解出来る筈だ。つまり犯人は二人でなくて一人なんだ。で、僕はここ数十分後に、犯人の大体の体重を知る事が出来る。つまり、一九〇・九二〇|瓩《キロ》から深谷氏の五三・三四〇|瓩《キロ》とこの荷物の重量とをマイナスしたものが、犯人の体重と云うことになるんだ」
「成る程、合理的だ」と私は乗り出して、「じゃあもう、この荷物を秤に懸けさえすれば、それでチョンだね?」
「いや君、ところがこの事件は、それでチョンになるような単純なものではないよ。犯人は間もなく判るさ。だがそれは、この事件の大詰めではない。例えば、まずあの『明日の午後だ。明日の午後までだ、きっとここまでやって来る』と云う怯えるような深谷氏の独言を思い出し給え。いったい深谷氏はなにをそんなに待ち恐れていたのだろう?……ここで深谷氏の、奇妙な日常生活も一応考えねばならん。そして又、桁網でこんな貝をこんなに沢山拾い集めてなにをしようと云うのだろう?……ね、いくら深谷氏だって、まさか『これも儂《わし》の趣味じゃ』なんて云えまいて……」
 東屋氏はそう云って、苦々しく紙巻《シガーレット》の吸いさしを海の中へ投げ込んだ。
 真艫《まとも》に強い疾風を受けた白鮫号は、矢のように速く鳥喰崎を迂廻する。陰気な雲は空一面にどんよりと押し詰って、もう太陽の影も見えない。

 それから程なくして深谷邸に帰り着いた私達は、重い荷物を提げて崖道を登って行った。
 私達の留守の間に先発の警官達が着いたと見えて、崖道を登り詰めると、顔馴染の司法主任が主館《おもや》の方から笑いながらやって来た。
「やあ、先生。殺人事件だと云うのに、ヨット遊びとは驚きましたなあ」
 そこで私は、東屋氏による事件探査の異常な発展振りを、簡単にかいつまんで説明した。すると司法主任は、
「先手を打たれたわけですな。いや、結構です。じゃあひとつ、その秤の実験に立会わして下さい」
 そこで私達は、早速|別館《はなれ》の物置へやって来た。
 もういまここで、犯人が判るのかと思うと、私は内心少からず固くなった。が、東屋氏は頗《すこぶ》る冷淡で、さっさと私に手伝わすと、二つの荷物を秤台の上へ乗っけてしまった。
 計量針が、ピ、ピ、ピッと大きく揺れはじめる。そして見る見るその振幅が小さくなって、神経質に震えながら――チッと止まる。
 七一・四八〇|瓩《キロ》!
 瞬間、東屋氏は眼をつぶって暗算を始める。と、急に、どうしたことか、手に持っていたノートを、ばったり床の上に落してしまった。
 彼の眼には、顔には、見る見る驚きの色が漲《みなぎ》り始める。そしてその驚きの色は、直ぐに深刻な、痛々しい、困惑の影によって覆われてしまった……が、間もなく、かすかに希望が浮ぶ。そして追々に明るく、強く、自信に満ちて……
「判りましたか?」
 司法主任が云った。
「判りました」
「犯人は誰です?」
「犯人は……」
 云いかけて東屋氏は、
「一寸待って下さい」
 と今後は私の肩を叩いて笑いながら、
「君は、判ったかい?」
「うん、いまその、計算中だよ」
 私は周章《あわ》てて答えた。すると東屋氏は再び微笑しながら、
「おい先生、僕は君に挑戦するぜ。ひとつ、犯人は誰だか、当ててくれ給え。もう君は、この事件の関係者の中で、誰の体重がどれだけあるか? そしてどうすれば犯人の体重が判るか? いやそれだけではない、少くとも犯人を自分で推定することの出来るだけの、凡ての必要な材料《データ》を心得ている筈だ。さあ、見事に当ててくれ給え」
 東屋氏はそう云って、私のためにノートを拾いあげてくれた。
「判っていられたなら、さっさと云って下さい」
 司法主任だ。
「一寸待って下さい」
 と今度は私が遮った。――こうなったら意地でも計算しなければならん。間違わぬように……
 ――先ず、問題の一九〇・九二〇|瓩《キロ》から、深谷氏の五三・三四〇|瓩《キロ》を引く……すると、一三七・五八〇|瓩《キロ》だ。さて今度は、これからこのマベ貝やランプの七一・四八〇|瓩《キロ》を引く……ええと……六六・一〇〇|瓩《キロ》だ。六六・一〇〇|瓩《キロ》!……はて、なんだか覚えのある数字だぞ。私は大急ぎでノートの記号を辿る……と、ああまさに、黒塚氏が六六・一〇〇|瓩《キロ》!
 で早速東屋氏へ、
「判ったよ」
「なに判った?」
 と東屋氏は、私の顔をしげしげと見詰めながら、
「よく[#「よく」に傍点]考えて見ましたか?」
「馬鹿にし給うなよ」
「じゃあ云ってご覧」
「犯人は黒塚だ!」
「違う!」

          五

「違う?……冗談じゃあない」
 私は思わず吹き出した。
「全く、冗談じゃあないよ」
 と東屋氏は大真面目だ。
 そこで私は、いささかむッとして、
「君こそ計算違いだ」
「どうして?」
「だって、いいかい……一九〇・九二〇|瓩《キロ》から、深谷氏とこの荷物の重量を引けば、六六・一〇〇|瓩《キロ》じゃないか。そしてこれこそは、まさに黒塚氏の体重だ。しかも、ピッタリと合う……」
「だから違うんだよ」
 と東屋
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