った。
 それは、すっかり採炭し終った廃坑の、炭柱を崩し取って退却する時なぞに、どうかすると聞くことの出来る恐ろしい物音であった。炭柱を抜くと、両壁にゆるみのある場合なぞ地圧で天盤が沈下する。沈下は必らず徐々に間歇的に行われるが、坑木がむっちり挫折し始め、天盤に割れ目の生ずる際に、その異様な鳴動が聞えるのであった。謂わば崩落の前兆であるその物音を、炭坑の人びとは山鳴りと呼んで恐れていた。
 この場合の物音が正しくそれであった。発火坑内の坑木が焼け落ちてしまい、発火と同時に俄《にわか》に膨脹した坑内の気圧が、やがて徐々に収って行くにつれて、両壁がゆるみ、少しずつ天盤の沈下がはじまったのに違いない。
 係長は、蒼くなって安全燈《ランプ》を天井へさし向けた。けれどもそこには、一層恐ろしいものが待ち構えていた。
 頭の上に押し迫った天盤には、鰐《わに》のような黒い大きな亀裂が、いつ頃から出来たのか二つも三つも裂けあがって、しかもその内側まで焼け爛れた裂目の中からは、水滴が、ホタリホタリと落ちていた。水が廻ったのだ。係長はその水滴に気がつくと、直ぐに手を出して滴《しずく》を一つ掌《てのひら》に受け、そいつを不安げに己れの口へ持って行った。が、瞬間ギクッとなって飛び上った。
 考えて見れば、天盤も崩落も、火災も地下水も、炭坑にとってはつきものである。滝口坑にしてからが、いつかはそうしたこともあろうかと、最善の防禦と覚悟が用意されていたのであるが、そして又そうした用意の前には、決して恐るるに足りない物なのであるが、しかしいま、係長の舌の上に乗ったこの水一滴こそは、実に滝口坑全山の死命を決するものであった。もはや如何なる手段も絶対に喰止めることの出来ないその水は、地下水でもなければ、瓦斯《ガス》液でもない。それは至極平凡な、ただの塩水であった。
「失敗《しま》った!」
 最初の海の訪れを口にした係長は、思わず顫え声で叫んだ。
「こいつは人殺しどころではない。とうとう海がやって来たのだ!」
 ところが、こうした大事を目の前にして、その頃から菊池技師の態度に不思議な変化が起って行った。それは放心したような、立ったまま居睡りを始めたような、大胆にも異様に冴え切った思索の落つきであった。
「相手が海では、敵《かな》いませんよ」
 やがて技師が、冷然として云い放った。
「さア、諦めなさい、係長。そしてまだ充分時間があるんですから、落付いて避難の仕度にかかりましょう。ところであなたはいま、人殺しどころではないと云いましたね? 成る程、そうかも知れません。しかし、この塩水と人殺しとは、決して無関係ではないんですよ。係長、あの裂目の内側まで焼け爛れた大きな亀裂に、注意して下さい。私にはなんだか、この事件の真相が判りかけたらしいんです」

          五

 さて、それから数分の後には、密閉された片盤坑を中心にして、黒い地下都市の中に、異常な緊張が漲《みなぎ》りはじめていた。
 崩落に瀕した廃坑に、再び重い鉄扉を鎖した係長は、慌しく電話室に駈けつけると、立山坑の地上事務所と札幌の本社へ、海水浸入の悲報を齎《もたら》した。続いて狭い竪坑の出口で圧死者などの出ないように、最も統制のとれた避難準備にとりかかった。
 一方菊池技師は、熊狩りで鍛えた糞度胸をいよいよムキ出しにして、問題の片盤坑の鉄扉を抜け出ると、再びそいつを鎖し、水平坑の小頭達を呼び寄せて、鎖した入口を厳重に固めさした。残忍な殺人者は、深い片盤坑のどこかにいるのだ。その男の捕えられるまでは、何人《なんびと》といえども片盤坑から抜け出る事は出来ない。こうして水も洩らさぬ警戒陣が出来上ると、技師は広場の事務所へやって来た。
 広場では、竪坑に一番近い片盤の坑夫達が、突然下った罷業の命令に、訳の判らぬ顔つきで、ざわめきながらも引揚げはじめていた。いくつかの片盤の小頭達へ、次々に、何かしきりと指図し終った係長は、技師を見ると馳け寄って云った。
「さア今度は、左片盤の番だよ。出掛けよう」
「待って下さい」技師が遮切《さえぎ》った。「その前に、二、三調べたいことがあるんです」
「なんだって」
 係長は吃驚《びっくり》して、苛立ちながら云った。
「この際になって、どうして又そんな呑気なことを云い出したんだ。もう犯人は、あの片盤の中に閉籠められているんじゃないか。そいつを叩き出して、少しも早くあの片盤を開放しなくちゃアならん」
 しかし、菊池技師は動かなかった。
 とうとう係長は、技師が来るまで坑夫を外に出さない条件で、一足先に捜査を申出た。
 係長が水平坑の闇の中へ消えてしまうと、菊池技師は、別室であのまま足止めされていたお品を、すぐに事務所へ呼び込んだ。お品は、やがて問われるままに、大分落ついた調子で、もう一度発火当時の模様を、前に係長にしたと同じように繰返しはじめた。が、やがて、女の陳述が終ると、菊池技師は力を入れて訊き返した。
「では、もう一度大事なことを訊くが、お前が発火坑から逃げ出して、監督や技師や工手たちが駈けつけて防火扉を締め切ったその時には、確かにその場に峯吉は出ていなかったのだな?」
「ハイ、それに間違いありません」
 お品は、腫れた瞼をあげながら、ハッキリ答えた。
 技師は頭の中で何事か考えを整理するように、一寸眼をつぶったが、すぐに立上ると、電話室へ出掛けた。十分間もすると戻って来た。多分長距離電話であったのであろう。しかし戻って来た菊池技師は、抜け上った額に異様な決断を見せながら、お品を連れて、水平坑へはいって行った。
 密閉された片盤坑の前には、二、三の小頭たちと一緒に、どうしたことか係長が、ドスを持ったまま蒼くなって立っていたが、技師を見ると、進み寄って口を切った。
「菊池君。どうも困った事になった」
「どうしたんです」
「それがその、全く変テコなんだ。実は、この片盤には犯人がいないんだ。坑道はむろんのこと、どの採炭場《キリハ》にも、広場にも、穴倉にも、探して見たがいないんだ」
 すると菊池技師は、落着いた調子で、意外なことを云いだした。
「いったいあなたは、誰を捜しに入坑したんです?」
「え? 誰を捜しにだって?」係長は思わずうろたえながら、「犯人にきまってるじゃアないか」
「いやそれですよ。あなたはさっきから犯人犯人と云われたが、いったい誰のことを云われるんです?」
「なんだって?」
 係長は益々うろたえながら、
「坑夫の峯吉にきまってるじゃアないか」
「峯吉?」
 と云いかけて菊池技師は、困ったような顔をしながら黙ってしまった。が間もなく側の炭車《トロ》へ腰かけながら、静かに改まった調子で口を切った。
「いや、実は私も、さっきあなたと一緒にこの片盤にはいった頃には、まだ犯人が誰だか、よく判らなかったんですよ。それで片盤坑に確かに犯人を閉込めてはいながら、いったい誰を捜してよいのか、犯人犯人と抽象ばかりで、誰を捕えたらそれが犯人になるのか、サッパリ判らなかったんです。しかしいま私は、その具体を掴むことが出来た」
 菊池技師は炭車《トロ》から腰を降ろすと、係長の前まで歩み寄って、あとを続けた。
「私の掴んだ具体は、どうやら、あなたの掴んだ具体よりも、正しいらしい。――係長。どうもあなたは、この事件に就いて全体に大きな勘違いをしてるらしいですよ。あなたは事件の表面に表われた幾つかの事実と、それらの事実の合成による或るひとつのもっともらしい形にとらわれ過ぎて、論理を無視しています。――一人の坑夫が塗り込められ、その塗込めに従事した人びとが次々に殺害される。ところが嫌疑を掛けた坑夫の遺族の中には犯人はいない。そしてその代り塗込められて死んだ筈の坑夫の安全燈《ランプ》が、発火坑以外の或る箇所で発見され、発火坑を調べてみるとその坑夫の屍体はおろか骨さえない――とこれだけの事実の組合せから、あなたはその塗込められた坑夫自身が何等かの方法で生き返って坑外へ抜け出し、自分を塗込めた男達へ復讐しはじめた、と云う至極もっともらしい疑惑を抱いたわけでしょう。しかしそのもっともらしさは論理ではなくて、事実への単なる解釈であるに過ぎませんよ。その解釈が如何にもっともらしい暗示に富んでいても、そのために、絶対に抜け出ることの出来ない坑内から抜け出した、と云う飛んでもない矛盾をそのまま受け入れてしまうことは出来ません」
「それで君は、どう考えたんだ」
 係長が苦り切って云った。技師は続けた。
「手ッ取り早く云いましょう。私はあの発火坑で、坑夫の骨さえ見当らなかった時に、その時から新しく考えはじめたんです。――まず坑内には骨さえないのですから、峯吉はどこからか外へ出たに違いない。ところが、いちいち探すまでもなく、防火扉を締めたら間もなく鎮火したと云うのですから、これは消甕《けしがめ》みたいなもので、防火扉のところよりほかにあの坑内には絶対抜け穴はない。それでは峯吉は防火扉のところから出たに違いない。ところが、防火扉の閂は外側にあるし、隙間に塗込めた粘土は塗られたままに乾燥していて開けられた跡はなかった。つまり防火扉は締められてから私達がさっき開けた時までには絶対に開放されていないことになります。すると峯吉は、どうです、そもそも防火扉の締められる前に抜け出ていた、ということになるではありませんか……ところで、ここまで進んだ新らしい目で、ほかの事実を調べてみます。――この可哀相な女は、あの時、男の跫音《あしおと》を後ろに聞きながら発火坑を飛び出したのでしたね。そして飛び出してホッとなって後ろを振返った時には、もう爆音を聞いて駈けつけた浅川監督が、防火扉を締めかけていた。そして締めてしまった。続いて技師が来、工手が駈けつけて、塗込めがはじまる……ここが肝心なところですよ。いいですか、峯吉は防火扉の締められる前に出ていなければならないのですから、その時女のあと[#「あと」に傍点]から飛び出して来て、そして浅川監督が防火扉を締めるまえ[#「まえ」に傍点]に飛び出したことになるのです。つまり飛び出してホッとして振返った女と、防火扉を締めかけた浅川監督との間のなにもなかった空間に、峯吉がいたわけです……」
「待て待て、君の云うことは、どうも判るようで、判らん」
 係長が、顔を顰《しか》めながら遮切るようにして云った。技師は構わず続けた。
「いや、判らないのも無理はないですよ。私だって、こうして理詰めで攻め上げたればこそ、やっと少しずつ判りかけて来たのですから……全く、その時そこで、なんとも変テコなことが起ったんですよ。運命の悪戯《いたずら》とでも云う奴なんです」
 云いかけて、技師は、傍らに立っていたお品のほうへ向き直った。
「お前にもうひとつ聞きたいことがあるんだ……お前は、あの時|炭車《トロ》を押して捲立《まきたて》から帰って来ると、片盤から自分の採炭場《キリハ》へはいって行き、そこの闇の坑道でいつもそこまで迎に出ている峯吉に飛びついて行ったと云うが、その男は確かに峯吉であったか?」
 お品は、意外な技師の言葉に、瞬間息を呑んで目を瞠った。
「お前は、峯吉がいつもそこの闇の中で、抱いてくれると云ったろう。闇の中でそうしてその時お前を抱いた男は、確かに峯吉に相違なかったか?」
「……はい……」
「それではもうひとつ聞くが、その時峯吉は安全燈《ランプ》を持っていたか?」
「持ってはいませんでした」
「お前の安全燈《ランプ》はどうしていた?」
「炭車《トロ》の尻につけていました」
「するとその安全燈《ランプ》の光りは、枠に遮切られて前のほうを照らさずに、炭車《トロ》の尻の地面ばかりを照らしていたわけだな……お前は、走っている炭車《トロ》をそのまま投げ出して峯吉へ飛びついたと云ったが、それではその峯吉の前へ炭車《トロ》が行くまで、安全燈《ランプ》の光りは峯吉の顔を照らさなかったわけだし、峯吉の前を炭車《トロ》が走り去って炭車《トロ》の尻につけた安全燈《ランプ》の光りが始めて峯吉に当った時には、峯吉の体は光りを背
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