も、どうして又坑内で働いていて死んだ筈の峯吉の安全燈《ランプ》が、いま頃こんなところから出て来たのであろうか?
係長はなに思ってか急にいやアな顔をすると、その安全燈《ランプ》を取り上げて、これも又同じように様子の変ってしまった浅川監督へ、顫え声で云った。
「とにかく、引挙げましょう。その上、ひとつよく考えてみるんですね。どうも、サッパリわけが判らなくなってしまった」
四
立山坑の菊池技師というのは、まだ四十に手の届かぬ働き盛りの若さで、東大工学部出身の秀才であったが、その癖蒼くなって机に噛《かじ》りついているのが大嫌いで、暇さえあれば鉄砲を持って熊の足跡をつけ廻していようと云う――日焼のした赧《あか》ら顔で、慓悍《ひょうかん》な肩をゆすって笑ったりすると、机の上の図面が舞って仕舞いそうな声を出す人であった。
さて、報らせを受けてその菊池技師が、滝口坑へやって来た時には、請願巡査は管区の警察へ求援に出掛け、峯吉の安全燈《ランプ》を発見した係長は、検屍も瓦斯《ガス》検査もひとまず投げ出して事務所へとじこもり、不安気な様子で頭痛あたまを抱えていた。
係長は、しかし菊池技師の顔を見ると、幾分元気をとり戻した。そして直ちに発火坑の様子について説明しはじめたのであるが、いつの間にか話して行くうちに知らず知らず横道にそれて、発火事件が殺人事件に変ってしまうのだった。菊池技師もまた、始め単なる発火事件の処置を予期してやって来たのであるが、係長の訴えるような話を聞くうちに、段々その話のほうへ引き込まれて行った。係長は、丸山技師の殺害と四人の嫌疑者のことから、工手の殺害に峯吉の安全燈《ランプ》の不思議な出現に至るまで逐一詳細に物語ると、最後にぶつかってしまった大きな矛盾と、その矛盾からシミジミと湧き出して来る異様な一つの疑惑を、疑い深くそれとは云わずにそのままそっくり技師の耳へ畳みこんでいった。
「こいつアどうも、熊狩りみたいに面白くなりましたね」
菊池技師は、ひと通り係長の話を聴き終ると、そう云って事もなく笑ったが、内心ではかなり理解に苦しむと見えて、そのままふッと黙り込むと、困った風に考え込んでしまった。
「どうも、だし抜けにこんな変テコな殺人事件を聞かされたんじゃア勝手が違って戸惑いますよ」
やがて技師が口を切った。
「しかし係長。あなたも人が悪いですね。なぜもっと、御自身の考えていられることを、アケスケに云ってしまわないんですか。いまあなたがどんな疑惑にぶつかっているか。むろん私にもそれは判る。そしてその疑惑が、どんなに子供っぽく、馬鹿気ているか、いや全く、論理をテンから無視したバカ話で、とてもまともに口に出せるような代物でないことも判ります。しかしその癖あなたは、その疑惑を頭から笑殺してしまうだけの勇気もないんでしょう。怒らないで下さいよ、係長。……そこで、そのあなたの頭痛の種を一掃してしまう手段が、ここに一つあります。なんでもないんですよ。発火坑を開放して見るんです。そうですね。発火当時にどれだけの熱が出たかは知れませんが、人間の骨まで燃えてなくなってしまうようなことは絶対にありませんからね」
「そりゃそうだ」と係長が云った。「鎮火も早かったんだからな。しかし、瓦斯《ガス》が出ている」
「でも排気してるんでしょう? だったら、そんなにいつまでも瓦斯《ガス》のある筈はないでしょうし、それに防毒面《マスク》だってあるんです。――あ、しかし、その前に係長」
と技師はここで、なにか新らしい着想を得たと見えて、急に眼を輝し、辺りを見廻しながら云った。
「浅川さんは、どうしました?」
「浅川君か?……」
と係長が後ろへ向き直ると、傍らにいた事務員が口を入れた。
「札幌の本社から電話で、出て行かれましたが……」
けれどもその浅川監督は、待つほどもなく返って来た。技師は簡単な挨拶や前置きをすますと、直ぐに調子を改めて切り出した。
「実は浅川さん。変なことを云うようですが、その坑夫の塗り込めには、少くとも三人の人が手を下していた筈ですね? そして、あなたも、その一人でしたね?」
監督の顔色がサッと悪くなった。技師は、うわ眼を使いながら、静かにあとを続けた。
「まだ、この殺人事件は、終りをつげていませんよ。どうやら今度は、あなたの番ですね。ああ、しかし」と技師は顔をあげて、急《せ》わしく云いだした。「御心配には及びませんよ。いいですか、丸山君も古井君も、炭塊でやられていますが、あれは犯人が、武器を持っていない証拠ですよ。だが、あなたは、これから武器を持つことが出来ます。場合によっては、犯人を捕えることも出来ます。そうだ。出来るどころではない。犯人に狙われているんだから、この場合、あなただけが、犯人捕縛の最も有利な立場にあるんです。我々の前には隠れている犯人も、あなたの前にはきっと姿を見せますよ」
「成る程」係長が云った。「流石《さすが》熊狩りの先生だけあって、うまいことを云う」
しかし菊池技師は、真面目で続けた。
「それで私は、ここでひとつお二人の前へ提案したいんですがね。つまり浅川さんに武器を持って頂いて、犯行の現場附近へ単身で出掛けて貰うんです。むろん私達は、あとから殿軍《しんがり》を承わる。武器さえ持って行けば、決して心配ないと思います。如何でしょう? こいつは、手ッ取早くていいと思うんですが」
係長は直ぐに賛成した。
監督は、一寸考えてから立上った。そして何処からかストライキ全盛時代に買入れたドスを一本持出して来ると、そいつの鐺《こじり》でドンと床を突きながら、
「じゃ、殿軍《しんがり》を頼みますよ」
云い残して、ひどく悲壮な調子で出掛けて行った。
係長と菊池技師は、少しばかり時間を置いて、監督の後に続いた。が、水平坑を通って発火坑のある片盤坑の前まで来ると、技師は立止って、係長へ云った。
「一時間この片盤坑の出入りを禁止したら、どれ位出炭が遅滞しますか?」
「なんだって、片盤を止める?」
係長が眼を瞠《みは》った。
「そうです」
「冗談じゃアないよ。仕事を罷《や》めるなんて……」
「だって、我々と行違《ゆきちがい》に、犯人がこちらへ逃げ出して来たらどうします」技師が云った。「どうです。この片盤だけでしたら、三十|噸《トン》位のものでしょう? 係長。それ位の犠牲でしたら、ひとつ思い切って止めて下さい。危急を要する場合ですよ」
「どうも君は、算盤《そろばん》よりも狩猟のほうが好きらしいね」
係長が仕方なく苦笑すると、技師は直ぐに片盤坑の入口の大きな防火扉を引寄せて、水平坑道でうろたえ始めた坑夫や小頭に事情を含め、係長と一緒に片盤坑へ飛び込むと、外側から防火扉を閉めて、小頭に閂《かんぬき》をかけさした。折から来合せた左片盤の炭車《トロ》の行列は、直ぐにこの異常な通行禁止にぶつかると、峯吉の塗込めがあったばかりなので、夢中になって騒ぎはじめた。が、人びとは自分達と同じように密閉された係長や技師を見ると、直ぐにこれが悪性の密閉ではなく、なにか事情があっての通行禁止であることに気がつき、やがて起きはじめた騒ぎも、追々静まって行った。
ところが、そうして出合う運搬夫《あとむき》たちへ因果を含めながら、片盤坑を奥へと進んで行った係長と菊池技師は、しかしとうとう密閉された峯吉の採炭場《キリハ》の入口の近くで、全く予期しない出来事にぶつかってしまった。
囮《おとり》になった浅川監督は、人一倍優れた膂力《りょりょく》を持っていたし、その上武器も持っていれば、張り切った警戒力も備えていた筈であった。おまけに相手は武器も持たずに隠れているのだ。それで危険はない筈であったのであるが、しかしそれにもかかわらず、係長と技師が目的場所に着いた時には、もう監督は路面の上で全くこと[#「こと」に傍点]切れていたのであった。
仰向きになって大の字なりに倒れた屍体の上には、殆んど上半身を覆うようにして、前より一層大きな、飛石ほどもあろうと思われる平たい炭塊がのしかかっていた。その炭塊は他所《よそ》から運ばれたものではないと見えて、すぐ傍らの炭壁の不規則な凹凸面には、いかにも落盤のように、炭塊を叩き落したらしい新らしい切口があり、路面には大小様々の炭塊が、屍体を取り巻くようにしてバラバラと崩落ちていた。殴り倒された浅川監督の瀕死体の上へ、残忍な殺人者の手によって最後の兇器が叩き落されたのだ。
係長は、思わず監督のドスを拾いあげて、辺りを見廻しながら、技師と力を合せて屍体の上の炭塊を取り除けた。屍体は首も胸もクシャクシャに引歪められて、二タ目と見る事も出来ないむごたらしさだった。
ホンの一足遅くれたために、貴重な囮は、殺人者の姿をさえも見ることも出来ずに逆に奪われてしまった。予期しなかった危険とは云え、これは余りに大き過ぎる過失であった。二人は烈しい自責に襲われながらも、しかしこの出来事の指し示す心憎きまでに明白な暗示に思わずも心を惹かれて行くのであった。復讐は為し遂げられたのだ。しかも武器も持たずにこのように着々と大事を為し遂げて行く男は、いったい何者であろうか。犯人はこの片盤内にいるただの坑夫か、それとも――係長は、発火坑の鉄扉の上へ視線を投げた。鉄扉の前へ近づいた。手を当てた。が、なんとそれはもうすっかり冷め切っていた。菊池技師は排気管を調査した。が、瓦斯《ガス》ももう殆んど危険のないまでに稀《うす》められていた。二人は舌打ちしながら力を合せて、鉄扉の隙の乾いた粘土を掻き落しはじめた。
間もなく粘土がすっかり剥ぎ取られると、技師は閂を跳ね上げて、力まかせに鉄扉を引き開いた。異様な生温い風が闇の中から流れて来た。二人は薄暗い安全燈《ランプ》の光を差出すようにしながら、開放された発火坑に最初の足跡をしるして踏み込んだ。踏み込んですぐその場から安全燈《ランプ》を地上へ差しつけるようにしながら、峯吉の骨を探しはじめた。が、みるみる二人は、なんともかとも云いようのない恐怖に叩ッ込まれて行った。
峯吉の骨がない!
いくら探してもない。墨をかけられた古綿のように、焼け爛れた両側の炭壁は不規則な退却をして、鳥居形に組み支えられていた坑木は、醜く焼け朽ち、地面の上に、炭壁からにじみ出たコールタールまがいの瓦斯《ガス》液が、処々異臭を発して溜っているだけで、歩けども進めども、峯吉の骨はおろか、白い骨粉ひとつさえない。二人はまるでものに憑かれたように、坑道の中をうろたえはじめた。が、やがて曲ったり脹《ふく》れ浮いたりしていたレールが、急に飴《あめ》のようにひねくれ曲って、焼け残った鶴嘴や炭車《トロ》の車輪がはねとばされ、空気がまだ不気味な火照《ほてり》を保っている発火の中心、つまりその採炭場《キリハ》の終点まで来てもそれらしい影がみつからないと、いよいよ事態の容易ならざるに気づいたもののようにそのままその場に立竦んでしまった。
最悪の場合がとうとうやって来たのだ。先にも云ったように、採炭坑は謂わば炭層の中に横にクリあけられた井戸のようなもので、鉄扉を締められた入口のほかには蟻一匹這い出る穴さえないのであった。その坑内に密閉されて火焔に包まれてしまった筈の峯吉の屍体が、屍体はともかく、骨さえも消えてしまうなぞということは絶対にない筈である。ところが、そのない筈の奇蹟がここに湧き起った。係長は、己れのふとした疑惑が遂に恐るべき実を結んだのをハッキリ意識しながら、思わず固くなるのであった。――
恰度、この時のことである。
不意に、全く不意に、あたりの静かな空気を破って、すぐ頭の上のほうから、遠く、或は近く、傍らの炭壁をゆるがすようにして、
……ズシリ……
……ズシリ……
名状し難い異様な物音が聞えて来たのだ。
瞬間、二人は息を呑んで聞耳を立てた。が唸るとも響くともつかぬその物音は、すぐにやんで、あとは又元の静けさに返って行った。
しかし、永い間炭坑に暮した人びとには、その物音が何であるか、すぐに判る筈であ
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