坑鬼
大阪圭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)中越《ちゅうえつ》炭礦会社

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)海の底半|哩《マイル》の沖

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)こんなおせっかい[#「おせっかい」に傍点]
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          一

 室生岬の尖端、荒れ果てた灰色の山の中に、かなり前から稼行を続けていた中越《ちゅうえつ》炭礦会社の滝口坑は、ここ二、三年来めきめき活況を見せて、五百尺の地底に繰り拡ろげられた黒い触手の先端は、もう海の底半|哩《マイル》の沖にまで達していた。埋蔵量六百万|噸《トン》――会社の事業の大半はこの炭坑《やま》一本に賭けられて、人も機械も一緒くたに緊張の中に叩ッ込まれ、きびしい仮借のない活動が夜ひるなしに続けられていた。しかし、海の底の炭坑は、いかなる危険に先んじて一歩地獄に近かった。事業が繁栄すればする程地底の空虚は拡大し、危険率は無類の確実さを以って高まりつつあった。人々は地獄を隔てたその薄い命の地殻を一枚二枚と剥がして行った。
 こうした殆んど狂気に近い世界でのみ、始めて頷かれるような狂暴奇怪な形をとって、異変が滝口坑を見舞ったのは、まだ四月にはいったばかりの寒い頃のことであった。地上には季節の名残りが山々の襞《ひだ》に深い雪をとどめて、身を切るような北国の海風が、終日陰気に吹きまくっていようと云うに、五百尺の地底は、激しい地熱で暑さに蒸《む》せ返っていた。そこには、一糸も纒《まと》わぬ裸の世界があった。闇の中から、臍《へそ》まで泥だらけにして鶴嘴《つるはし》を肩にした男が、ギロッと眼だけ光らして通ったかと思うと、炭車《トロ》を押して腰に絣《かすり》の小切れを巻いた裸の女が、魚のように身をくねらして、いきなり飛び出したりした。
 お品《しな》と峯吉《みねきち》は、こうした荒々しい闇の世界が生んだ出来たての夫婦であった。どの採炭場《キリハ》でもそうであるように、二人は組になって男は採炭夫《さやま》を、女は運搬夫《あとむき》を受持った。若い二人は二人だけの採炭場《キリハ》を持っていた。そこでは又、小頭の眼のとどかぬ闇が、いつでも二人を蜜のように押し包んだ。けれども例外ということの認められないこの世界では、二人の幸福も永くは続かなかった。
 それは流れ落ちる地下水の霧を含んだ冷い風が、いやに堅坑の底まで吹き降ろして来る朝のことであった。
 二枚目の伝票を受取ったお品は、捲立《まきたて》の底で空《から》になって降ろされて来た炭車《トロ》を取ると、そのまま長い坑道を峯吉の採炭場《キリハ》へ帰って行った。炭坑は、謂《い》わば黒い息づく地下都市である。二本の竪坑で地上と結ばれた明るい煉瓦巻の広場にはポンプや通風器の絶え間ない唸りに、技師のT型定規や監督の哄笑が絡まって黒い都市の心臓がのさばり、そこから走り出した太い一本の水平坑は謂わば都市計画の大通りだ。左右に幾つも口を開いた片盤坑は東西何丁通りに当り、更にまた各片盤坑に設けられた櫛の歯のような採炭坑は、南北何丁目の支線道路だ。幹線から支線道路へ、いくつものポイントを切って峯吉の採炭場《キリハ》へ近づくにつれ、お品の足は軽くなるのであった。
 片盤坑の途中で、巡視に出たらしい監督や技師に逢ったきり、会社の男にぶつからなかったお品は、最後のポイントを渡ると急カーブを切って峯吉の採炭坑《キリハ》へ駈け込んで行った。
 闇の坑道には、いつものように峯吉が待ち構えていた。走り込んで行った炭車《トロ》を飛び退くようにして、立ちはだかった男の腕の中へ、お品は炭車《トロ》の尻を蹴るようにして水々しいからだを投げかけて行った。投げかけて抱かれながら、お品は夢見心地で、闇の中を独りで遠去かって行く空の炭車《トロ》を、その枠の尻にブラ下げた仄暗い、揺れ続ける安全燈《ランプ》を見たのであった。
 全くそれは夢見心地であった。あとになってその時のことは何度も調べられたし、又女自身でも何度も考えたことであるが、その時の有様はハッキリ頭の中へ焼きつけられていながら、尚|且《かつ》それは夢の中の記憶のようにそらぞらしい出来事であった。
 お品の安全燈《ランプ》は、その時闇の中に抱き合った二人を残して、わずかに炭車《トロ》の裾を淡く照らしながら遠慮でもするかのように揺れながら遠退いていったのであるが、みるみる奥の採炭場《キリハ》の近くまで遠退いていったその炭車《トロ》は、そこのレールの上に鶴嘴でも転っていてかチャリーンと鋭い音を立ててひときわ激しく揺れはじめ、揺れはじめたかと思うとアッという間に安全燈《ランプ》は釘を外れてレールの上へ転落して行った。
 滝口坑で坑夫達に配給していた安全燈《ランプ》は、どこの炭坑とも同じようにやはりウォルフ安全燈であった。ウォルフ安全燈というのは、みだりに裸火にされる危険を避けるために、竪坑の入口の見張所の番人の持っている磁石《マグネット》に依らなければ、開閉することの出来ない装置になっていた。けれども、取扱いに注意を欠いて斜に置いたり、破損するようなことがあっては安全を期することは出来ない。
 悪い時には仕方のないもので、お品の安全燈《ランプ》は炭車《トロ》の尻にブラ下げてあり、そして空の炭車《トロ》はそのまま走っていたのであるから炭車《トロ》の尻には複雑な気流が起り、いままで地面に沈積していた微細な可燃性の炭塵は、当然烈しく捲き立てられていたのであった。全くそれはふとしたことであったがその瞬間に凡ての悪い条件は整ってしまい、いままで二人の幸福の象徴でもあった安全燈は、ここで突然予期しない大事を惹き起してしまったのだ。
 瞬間、女は眼の前で百のマグネシウムが焚かれたと思った。音よりも先に激しい気圧が耳を、顔を、体をハタッと撃って、なにか無数の泥飛礫《どろつぶて》みたいなものがバラバラッと顔中に打当るのをボンヤリ意識しながら、思わずよろめいた。よろめきながらも早くも四壁に燃えうつった焔を採炭場《キリハ》の奥に覚えると、夢中で向き直って片盤口へ馳け出したが、直ぐに「峯吉は」と気づいて振返ると男も真赤な焔を背にして影のようにあとから馳け出して来る。炭塊に燃移った焔は、捲き起された炭塵の群に次々に引火して火勢はみるみる急となった。お品は背後に続く男の乱れた跫音《あしおと》と、目の前の地上に明々《あかあか》と照らし出された二人の影法師に僅かな安堵を覚えながらそれでも夢中で駈けつづけた。レールの枕木にでもつまずいてか突然後ろの影がぶッ倒れた。眼の前に片盤坑の電気が見えた。
 しかしお品がその電気の下に転げ出た時、ここで最初の悲劇が持上った。片盤坑に抜け出たお品がそこの複雑なレールのポイントにつまずいて思わず投げ出されながら後ろを振返った時に、早くも爆音を聞いて駈けつけた監督が、いまお品の転げ出たばかりの採炭坑の入口で、そこにしつらえられた頑丈な鉄の防火扉をみるみる締めはじめた。一足違いで密閉を免れたお品は、ホッとして無意識であたりを見廻わしたが、この時はじめて恐ろしい事態が呑みこめた。大事な男が、峯吉がまだ出ていない。お品は矢のように起上ると防火扉の閂にかかった監督の腕に獅噛《しが》みついた。激しい平手打が、お品の頬を灼けつくように痺《しび》らした。
「間抜け! 火が移ったらどうすんだ!」
 監督が呶鳴《どな》った。お品は自分とひと足違いで密閉された峯吉が頑丈な鉄扉の向うでのたうち廻る姿を、咄嗟《とっさ》に稲妻のように覚えながら、再びものも云わずに狂いついて行った。
 が、直ぐにあとから駈けつけた技師の手で坑道の上へ叩きつけられた。続いて工手が駈けつけると、監督は防火扉の隙間に塗りこめる粘土をとりに駈けだして行った。こんな場合一人や二人の人間の命よりも、他坑への引火が恐れられた。それは今も昔も変らぬ炭坑での習わしであった。
 発火坑の前には、坑夫や坑女達が詰めかけはじめていた。皆んな誰もかも裸でひしめき合っていた。技師だけがコールテンのズボンをはいていた。狂気のようになって技師と工手に押しとめられているお品を見、その場にどこを探しても峯吉の姿のないのを知ると、人びとはすぐに事態を呑み込んで蒼くなった。
 年嵩の男と女が飛び出した。それは直ぐ隣りの採炭場《キリハ》にいる峯吉の両親《ふたおや》であった。父親は技師に思いきり一つ張り飛ばされると、そのまま黙ってその場へ坐ってしまった。母親は急に気が変になってゲラゲラと笑いはじめた。レールの上へ叩きつけられて喪心してしまったお品を、進み出て抱え上げた坑夫があった。父母の亡くなったお品にとって、たった一人の肉親である兄の岩太郎であった。
 女を抱きあげながら岩太郎は、憎しみをこめた視線を技師達のほうへ投掛けると、やがて騒ぎ廻る人びとの中へ迎え込まれて行った。
 監督が竹簀《たけす》へ粘土を入れて持って来た。続いて二人の坑夫が同じように重い竹簀を抱えて来た。工手がすぐにコテを取って鉄扉の隙間を塗込めはじめた。
 ほかの持場の小頭達が、急を知った坑内係長と一緒にその場へ駈けつけて来ると、技師と監督は、工手の塗込作業を指揮しながら騒ぎ立てる人びとを追い散らした。
「採炭場《キリハ》へ帰れ! 採炭《しごと》を始めるんだ!」
 呶鳴られた人びとは、運びかけの炭車《トロ》を押したり、鶴嘴を持直したり、不承不承引上げて行った。興奮が追い散らされて行くにつれて、鉄扉の前に居残った人々の顔には、やがてホッとした安堵の色が浮び上った。
 犠牲は一坑だけにとどまった。しかもこうして密閉してしまえば、その一坑の焔さえも、やがて酸素を絶たれて鎮火してしまう。採炭坑は、謂わば炭層の中に横にクリあけられた井戸のようなもので、鉄扉を締められた入口の外には蟻一匹這出る穴さえないのであった。
 間もなく塗込め作業が完了した。この時が恰度午前十時三十分であったから、発火の時間は恐らく十時頃であったろう。けれども塗込作業の終った時には、もう発火坑内にはすっかり火が廻ったと見えて、熱の伝導に敏感な鉄扉は音もなく焼けて、人びとに不気味な火照《ほてり》を覚えさせ、隙間に塗りたくった粘土は、薄いところから段々乾燥して色が変り、小さな無数の不規則な亀裂が守宮《やもり》のように裂けあがって行った。
 技師も工手も監督も、一様に不気味な思いに駆られて妙に苦り切ってしまった。やがて急を聞いて駈けつけた請願巡査が、事務員に案内されてやって来ると、坑内係長は不機嫌に唾を吐き散らしながら、巡査を連れて広場の事務所のほうへ引上げていった。小頭達も、それまでその場に坐り込んだまま動こうともしない峯吉の父親を引立てて、同じように引きあげて行った。
 監督は、工手を指揮してその場の跡片附をしはじめた。もうこれで鎮火してしまうまで発火坑には用はない。いや何よりも、第一手のつけようがないのであった。
 鎮火の進行状態は、技師の検定に委ねられた。採炭坑には、どこでも通風用の太い鉄管が一本ずつ注がれていた。一人だけあとに残った技師は、鉄扉の上の隙間から、塗込められた粘土を抜け出して片盤坑の一層太い鉄管へ合流している発火坑の通風管を、その合目から切断してしまうと、その鉄管の切口から烈しい圧力で排出されて来る熱|瓦斯《ガス》の分析検査にとりかかった。
 時どき炭車《トロ》を押した運搬夫《あとむき》達の行列が、レールの上を思い出したようにゴロゴロ通って行った。騒ぎの反動を受けて急に静かになった片盤坑の空気を顫わして、闇の向うから、気の狂った峯吉の母の笑い声が、ケタケタと水|瓦斯《ガス》のように湧きあがって来た。
 黒い地下都市の玄関である坑内広場は、もう平常の静けさに立返っていた。滝口坑はこの夏までに十万|噸《トン》の出炭をしなければならない。僅かの変災のために、全盤の機能が遅滞することは一分間といえども許されなかった。闇の中から小頭達の眼が光り、炭車《トロ》もケージも、ポンプも扇風器も、一層不気味に静まり返
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