って動きつづけていった。しかし事務所の中では、係長がひどく不機嫌に当り散らした。
発火後のごてごてした二十分間に、何台の炭車《トロ》が片盤坑に停まり、何人の坑夫が鶴嘴を手から放したか、係長は真ッ先にそれを計算した。続いて発火坑の内部で、何|噸《トン》の石炭が焼失してしまったか、しかしこれは未知数だ。現場の検査にまたない限り、恐らく概算も掴めない。そこで事務員の一人が鎮火状態を調べに向かわされた。ところで次に、この損害の直接の責任が誰の上にかかって行くか、発火の原因を調べなければならない。係長はもう一人の事務員に、助かった女を連れて来るよう命ずると、それから向直って、まるで鉱山局の監督官みたいに、勿体ぶって傍らに立っていた請願巡査へ、始めて口を切った。
「いやなに、大した事でもないんですよ」
全く一人の坑夫が塗込められた位のことは、或は大した事でなかったかも知れない。しかし大した事は、この時になって始めて持上った。それは鎮火状態を問合せに行った先程の事務員が、間もなく戻って来て、丸山《まるやま》と呼ぶその技師が、何者かに殺害されたことを報告したのであった。
二
技師の屍体は、防火扉から少し離れた片盤坑の隅に転っていた。熱|瓦斯《ガス》の検査中に被害を受けたものと見えて、直ぐ前の坑壁には切り離された発火坑の排気管が、針金で天盤の坑木に吊し止められ、踏台の上には分析用の器具が乱雑に置かれたままになっていた。
屍体は俯向《うつむ》きに倒れ、頭のところから流れ出た黒い液体が土の上をギラギラと光らしていた。大きな傷が後頭部の濡れた髪の毛を栗の毬《いが》のように掻き乱して、口を開いていた。兇器はすぐにみつかった。屍体の足元から少し離れて、漬物石程の大きな角の丸くなった炭塊が、血に濡れて黒く光りながら転っていた。係長はそれを見ると直ぐに黙ったまま天盤へ眼をやった。落盤ではない。しかし落盤でなくても、結構これだけの傷は作られる。
いったい五百尺の地の底では、気圧もかなり高かった。地上では、例えば一千尺の高度から人間が飛び降りたとしても屍体は殆んど原形を保っている場合が多い。しかし竪坑から五百尺の地底に落ちると、それはもう目も当てられないほど粉砕されてしまう。落盤の恐るべき理由も又そこにあるのであって、僅かの間を落ちて来る小片でも、どうかすると人間の指など卵のようにひしゃいでしまう。その事を知っていた人びとはこの場合、炭塊一つが充分な兇器になり得ることに不審を抱かなかった。係長は持上げた兇器を直ぐに投げ出して、監督のほうへ蒼い顔を見せた。
いままで固くなって立っていた工手が、始めて口を切った。
「あれからひときりついて、浅川《あさかわ》さんが見巡りに出られますと、私は器具置場までコテを置きに行きましたが、その間にこんなことになったんです」
浅川と云うのは監督の名前であった。工手は古井《ふるい》と呼んだ。二人とも発火直後のまだ興奮のさめきらぬうちに、このような事件にぶつかったためかひどくうろたえて落着を失ってた。しかし落着を失ったのは、二人ばかりではなかった。平常から太ッ腹で通した係長自身が、内心少なからず周章《あわ》ててしまった。
発火坑は一坑にとどまった。とは云えその問題の一坑の損害の程度もまだ判りもしないうちに、貴重な技師が何者にとも知れず殺害されてしまった。切った張ったの炭坑で永い間飯を食って来た係長は、人が殺された、と云うよりも技師が殺されたという意味で、恐らく誰よりも先に周章《あわ》てていたのに違いない。
しかしやがて係長には、厳しい決断の色が見えて来た。
「いったい、誰が殺《や》ったんでしょう。こちらで目星はつきませんかな?」
請願巡査が呑気なことを云うと、
「目星? そんなものならもうついています」
と係長は向直って、苛々しながら云った。
「この発火事件ですよ……一人の坑夫が、逃げ遅くれてこの発火坑へとじこめられたんです。気の毒ですが、むろん助けるわけにはいきません。ところが、その塗込作業に率先して働いたのが丸山技師です。その丸山技師がこの通り殺されたと云うんですから、目星もつくわけでしょう。いやハッキリ目星がつかなくたって、大体嫌疑の範囲が限定されて来る」
「そうだ。それに違いない」
監督が乗り出して云った。
会社直属の特務機関であり、最も忠実な利潤の走狗である監督は、表面現場の親玉である係長の次について働いてはいるが、しかしその点、技師上りの係長にも劣らぬ陰然たる勢力を持っているのであった。巡査は大きく頷いた。監督は続けた。
「それに、アカの他人でいまどきこんなおせっかい[#「おせっかい」に傍点]をする奴はないんだから……峯吉と云ったな? この採炭場《キリハ》の坑夫は」
事務員が頷くと、今度は係長が引取って云った。
「そいつの両親《ふたおや》と、生き残った女を、事務所へ引張って来て置いてくれ。ああ、まだ女の兄と云うのがあったな? そいつも連れて来て置け」
「とにかく、峯吉の身内を全部調べるんだ」
監督が云った。
巡査と事務員が、おっとり刀で闇の中へ消えてしまうと、係長は閉された発火坑の鉄扉の前まで行って、寄添うようにして立止った。
密閉法が功を奏して、もう坑内の鎮火はよほど進んだと見え、鉄扉の前には殆んど火照《ほてり》がなくなっていた。けれどもいま急いで開放でもしようものなら、恐らく新らしい酸素の供給を受けて、消えくすぶった火熱も再び力づくに違いない。係長は舌打ちしながら監督へ云った。
「立山坑の菊池《きくち》技師を、呼び出してくれませんか。それから貴方《あなた》も、一通り見巡りがすんだら、事務所の方へ来て下さるね」
立山坑というのは、山一つ隔てて室生岬の中端にある同じ会社の姉妹坑だった。そこには専属の技師のほかに、滝口立山の両坑を随時一手に引受ける、謂わば技師長格の菊池技師が、数日前から行っている筈であった。折からやって来た炭車《トロ》の一つに飛びついて監督は闇の中へ消えて行った。
人びとが散り去ると、再び静寂がやって来た。闇の向うの水平坑道の方から、峯吉の母の笑い声が聞えたかと思うと、なにかがやがやと騒がしく引立てられて行くらしい気配が、炭車《トロ》の軋りの絶え間から聞えて来た。左片盤の小頭が、アンペラを持って来て、係長の指図を受けながら、技師の屍体の上へかぶせて行った。工手は切取られた排気管の前に立って、殺された技師の残した仕事をあれこれと弄《いじ》り廻していたが、急に身を起すと、
「係長。どうやら悪い瓦斯《ガス》が出たようです」
「君に判るのか?」係長が微笑を見せた。
「六ヶ敷いことは判りませんが、出て来る匂いで判りますよ。もう火は殆んど消えたらしいですが、くすぶったお蔭で悪い瓦斯《ガス》が出たらしいです」
係長は鉄管の側に寄ったが、直ぐに顔をしかめて、
「うむ、こりゃアもう、片盤鉄管へ連結して、この瓦斯《ガス》をどしどし流してしまわねばいかん。そうだ。匂いで判るな。じゃア君は、時どき調べてみて、瓦斯《ガス》の排出工合を見守ってくれ。わしはこれから坑夫を調べに行くが、その内には菊池技師も来てくれるだろう」
工手は鉄管の連結にとりかかった。係長は工手を残して歩き出した。
広場の事務所には、もう四人の嫌疑者達が、巡査と三人の小頭に見張られて坐り込んでいた。
お品はいつの間にか寝巻を着て、髪を乱し、顔を隠すようにして羽目板へ寄りかかりながら、ぜいぜい肩で息をしていた。兄の岩太郎は、顔や胸を泥に穢したまま鳩尾《みぞおち》をフイゴのように脹《ふく》らしたり凹《へこ》めたりしながら、係長がはいって行くから睨みつづけていた。
峯吉の父親は、死んだ魚のそれのような眼で動きもせずに一つところを見詰めつづけ、母は小頭の腕に捕えられながら、時どき歪んだ笑いを浮べてはゴソゴソと落着がなかった。
係長は四人の真ン中につッ立つと、黙ってグルリと嫌疑者達を見廻した。
「これで峯吉の身内は全部だな」
「はい。あとはアカの他人ばかりで」
小頭の一人が云った。
事務所は幾部屋かに別れていた。係長は小頭へ四人の嫌疑者を一人ずつ連れ込むように命じて、巡査と二人で隣の部屋へ引帰ると、そこのガタ椅子へ腰を降ろして陣取った。
最初に岩太郎が呼び込まれた。
係長は一寸巡査に眼くばせすると、乗出して岩太郎へ向き直った。そしてなにか大きな声で呶鳴りつけようとでも思ってか、息を呑みこむようにしたが、直ぐに気持を変えて、割に優しく口を切った。
「お前は、さっきあれから、妹を抱えて何処へ行った」
「……」
「何処へ行ったか?」
しかし岩太郎は、係長と向合って腰掛けたまま、脹《ふく》れ面をして牡蠣《かき》のように黙っていた。
巡査がまごついて横から口を出した。
「もっとも、何ですよ、この男とあの女は納屋から連れて来たんですがね……」
納屋と云うのは、竪坑を登った坑外の坑夫部落の納屋のことであった。係長は巡査へは答えずに、岩太郎へ云った。
「わしの訊いとるのは、あれからお前が、真ッ直ぐに納屋へ行ったかどうか、と云うことなんだ」
すると岩太郎が、やっと顔をあげた。
「真ッ直ぐに行った」
ぶっきら棒な返事だった。
「間違いないな?」
係長の声が引締った。岩太郎は、黙ったまま小さく頷いた。
「よし」係長は傍らの小頭の方へ向直って云った。「ひとまずこの男は、そちらの部屋へ待たして置け、それから、お前は直ぐに竪坑の見張へ行って、この男が何時に女を抱えて出て行ったかシッカリ訊いて来るんだ」
小頭は、すぐに岩太郎を連れて出て行った。
続いて今度はお品が呼び出された。女が椅子につくと、巡査が係長へ云った。
「この女には、発火の原因に就いても調べるんでしたね」
係長は黙って頷くと、女へ向った。
「安全燈《ランプ》から発火したんだろうな?」
「……」
「火元は安全燈《ランプ》だろう?」
お品は力なく頷いた。
「お前の安全燈《ランプ》か、亭主の安全燈《ランプ》か、どちらだ?」
「わたくしのほうです」
「じゃアいったい、どうして発火したのか。その時の様子を詳しく云ってみろ」
お品はこの問にはなかなか答えなかった。が、やがてポロッと涙をこぼすと、小声でボソボソと俯向いたまま喋りだして行った。お品がその時のことをどんな風に述べていったか、しかしそれは、ここでは云う必要がない。お品の陳述、既に物語の冒頭に記したところと寸分違わなかった。
さて女の告白が終ると、係長は姿勢を改めて口を切った。
「いずれその時のことは、またあとから発火坑の現場について、お前の云ったことに間違いないか調べ直すとして……これは別のことだが、お前はあの時、兄に抱かれて納屋へ帰ったと云うが、確かにそれに間違いないか?」
しかしこれは、訊ねる方に無理があった。お品はあの時、恐怖の余り顛倒して岩太郎に抱えられた筈であるから、それから岩太郎と共に真ッ直ぐに納屋へ連れ帰されたかどうか、女自身にも覚えのない筈であった。しかし係長にして見れば、この場合お品も岩太郎も、共に怪しまないわけにはいかなかった。そこで係長は重ねて追求しようとした。
が、この時事務所の扉があいて、さっきの小頭が見張所の番人を連れて戻って来た。
カラーのダブついた詰襟の服を着て、ゴマ塩頭の番人は、扉口でジロッと岩太郎とお品を見較べると、係長の前へ来て云った。
「この二人でございますね? ハイ、確かに、十時二十分頃から十時半までの間に、ケージから坑外《そと》へ出て行きました」
「なに、十時半より前に出て行った?」
「ハイ、それはもう確かで、そんな時分に坑夫で坑外《そと》に出たのは、この二人だけでござんすから、よく覚えとります」
「そうか。では、それから今しがたここへ連れ込まれるまでに、一度も坑内へ降りはしなかったな?」
「ハイ、それは間違いございません。ほかの番人も、よく知っとります」
「そうか。よし」
番人が帰って行くと、係長は巡査と顔を見合せた。
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