十時半前と云えば、発火坑の塗り込めの完了したのが恰度十時半であり、その時にはまだ丸山技師はピチピチしていたのであるから、十時半前に出坑した岩太郎とお品がどうして技師を殺害することが出来よう。これで四人の嫌疑者のうち二人までが同時に嫌疑の圏内から抜け出てしまった。残りは二人だ。
 係長は、ひとまず岩太郎とお品を控室にとどめて置いて、次に峯吉の父親を呼び込んだ。
「お前は、あの時、左片盤の小頭に連れられて、何処かへ行ってしまったな。いったい何処へ行っていた?」
 すると死んだ魚のような目をした老坑夫は、声を出すたびに腹の皮へ大きな横皺を寄せながら、
「それは、小頭さんに、訊いて下さい」
 と云った。
 左片盤の小頭は、食堂で昼飯を食べていたが、係長の命令で直ぐに呼び出された。
「君はあの時、発火坑の前からこの男を連れ出して来ただろう。それからどこへ連れて行ったんだい?」
「この親爺」と小頭は笑いながら答えた。「あの時腰が抜けてたんです。それで、救護室へ連れて行ったんですが……、さっき私がその救護室へアンペラをとりに行った時に、やっと起きあがりはじめた程で……看護夫も手を焼いとりましたよ」
「成る程」と巡査が口を挟んだ。「それで、起きれるようになってから、何処へ行ったかは判らんですね」
 と係長へ向直って、
「こいつは臭いですよ。なんしろ私は、片盤坑の入口で、気の狂った女房と一緒にうろうろしてるのを捕えて、ここへ連れて来たんですからね。救護室を出てから、いままで何処でなにをしていたか……」
「いや、あんたは勘違いしとるよ」
 いままで黙っていた係長が、不意にいった。
「成る程。歩けるようになってから、捕えられるまで、どこにいたかは判らん。が、しかし……」と小頭の方へ向って、
「君がアンペラを取りに行く頃までは起《た》てなかったんだね。それで、君はそのアンペラを丸山技師の屍体へかぶせるつもりで取りに行ったんだろう?」
「そうです」
 すると係長は巡査へ向直って、
「丸山技師は、この男がまだ救護室で腰の抜けている最中に殺されたんですよ。この男が発火坑の前で腰が抜けて、救護室へ連れ込まれる。それから後で技師が殺され、小頭が屍体へかぶせるアンペラを取りに行った。その時始めてこの男が救護室で起《た》てるようになっていた。つまり丸山技師が殺された時には、この男はまだ腰が抜けて看護夫の厄介になってたんです。腰が抜けていたんでは、片盤坑まで出掛けて人殺しなど出来っこない。判りますね。さアもう、これで犯人は判ったでしょう。あの気狂い婆をフン縛って下さい」
 請願巡査はギクンとなって立ちあがると、バタバタと隣室へ駈けこんで行って、岩太郎やお品の見ている前で、有無を云わさず峯吉の母を縛りあげようとした。
 ところが、この時、ここで全く異様なことが持上った。それは、いままで自信を以って推し進められた係長の推断を、根底から覆してしまうような出来事であった。
 断って置くが、殺された丸山技師は平素から仕事に対して非常に厳格であった。それでそのために坑夫達からは恐れられ、幹部連中からは敬遠されがちであった。が、しかし殺されるなぞと云うような変に個人的な、切羽詰った恨みを受けるような人では決してなかった。今度の坑夫塗込事件だけが、始めてそうした恨みを受けそうな唯一の場合であった。そこで係長は、峯吉の塗込めに関して丸山技師を恨んでいそうな人間を全部捕えて、片っ端から調べた揚句、やっといま目的が達せられるかに見えて来ているのであった。しかも工手や監督と一緒に峯吉の塗込めをした丸山技師に対して、烈しい恨みを抱いている筈の四人の嫌疑者達は、この場合嫌疑が晴れたと晴れないとにかかわらず事務所へ押し込まれて、巡査や小頭の見張りの元に調査を進められ、その間からいまここで異様な出来事にぶつかるまで、誰一人抜け出た者はなかったのである。
 さて、その出来事と云うのは――峯吉の母親が息子に代って復讐した犯人と定められて、請願巡査に捕えられようとしたその時であった。事務所の表のほうから、落着のない人の気配がしたかと思うと、硝子扉をサッとあけて浅川監督が飛び込んで来た。そして室内の有様などには目もくれず、息をはずませながら係長へ云った。
「工手の古井が、殺されとる」

          三

 いったい船乗りとか坑夫とかのように、ズバ抜けて荒っぽい仕事をしている人びとの気持の中には、どうかすると常人ではとても想像も出来ない位に小心で、臆病で、取越苦労な一面があるもので、恰度船乗りたちが海に対して変テコな迷信を抱いたり、可笑《おか》しな位に海を神秘したりすると同じように、坑夫達もまた、坑内で口笛を吹くと必らず山神の怒にふれて落盤の厄に合うとか、坑内で死んだ人間の魂は、いつまでもその場に居残っていて後々へ禍を及ぼすとか、妙なことが云い触らされていた。そしてそうした坑夫達の執拗な恐怖心を和げる道具として、坑内が血に穢されたような場合には、その場に締縄《しめなわ》を張って清めのしるしにされるなぞ、そうした奇怪な事実のあるとなしとにかかわらず、もう一般化したならわしにさえなっているのであった。
 滝口坑の片盤には、今日その締縄が白々と張り出されたのだ。そしてその締縄に清められた筈の防火扉の前で、皮肉にも新らしい血が、一度ならず二度までも流されてしまった。片盤の坑夫や坑女たちは、網をかぶった薄暗い電気の光に照らされながら、閉された採炭場《キリハ》の防火扉の前に、意味ありげに二つも並んだ屍体を遠巻きにして、前とは違って妙にシーンとしていた。
 工手の屍体は、アンペラで覆われた丸山技師の屍体の側に、くの字形に曲って投げ出されていた。伸びあがって瓦斯《ガス》の排出工合を検査している隙に、後ろから突き倒されたものとみえて、踏台が投げ倒され、その側に技師の時よりも、もっと大きな炭塊が血にまみれて転っていた。俯伏せに倒れた上へ折重って、力まかせにその大きな炭塊をガッと喰らわしたものであろう。後頭部から頸筋へかけて大きな傷がクシャクシャに崩れ、左の耳が殆んど形のないまでに潰されていた。殺害は、係長が工手を発火坑の前に一人残して、広場の事務所へ引上げてから、立山坑の菊池技師に電話を掛けに行った監督が、序《ついで》に昼飯を済ましてやりかけの見巡りに出掛けるまでの間に行われたものであって、犯人は前の丸山技師の時と同じように、現場に炭車《トロ》の通っていないような隙を狙って、闇伝いに寄り迫ったものに違いなかった。
 係長は紙のように蒼ざめながら、あたりを見廻わして、苛立たしげに坑夫達を追い散らした。
 ――工手の殺害は、技師の殺害と同じ種類の兇器を用いて行われた。しかも符合はこれだけにとどまらない。工手も又技師と同じように、殺害されるかも知れない同じ一つの理由を持っていた。発火坑の塗り込めに当って、丸山技師や監督の指図を受けながらも、直接その手にコテを掴んで粘土を鉄扉に塗りたくった峯吉生埋めの実行者は、外ならぬ古井工手ではなかったか。犯人は云うまでもなく同一人であり、しかも坑殺された峯吉の燃え沸《たぎ》る坩堝《るつぼ》のような怨みを継いだ冷酷無比の復讐者だ。
 しかし、ここで係長は、鉄扉のような思索の闇にぶつかった。
 最初係長は、技師の殺害に当って、早くも事の真相を呑み込むと、峯吉の復讐者となり得る人びとの全部を捕えて片ッ端から調査にとりかかったのであるが、しかしその四人の嫌疑者の調査の進行の途中に於て、技師と同じ意味で古井工手が殺害されてしまったのだ。しかも四人の嫌疑者達は、工手の殺害が行われる間中確実に事務所へとじこめられて、一歩も外へは出ていない。それでは犯人は、その四人以外の他人の中にあるか? しかしいまどきの魯鈍な坑夫の中に、他人のために怨みを継いで会社の男を次々に殺していくような、芝居染みた気狂いはいる筈がない。
 係長は、いままで鼻の先であしらっていたこの事が、意外な難関に行き当ってしまうと、もうまるで糸の切れた凧《たこ》のようにアテもなくうろたえてしまった。
 ところが、ここで係長の暗中模索に、やがてひとつの光が与えられた。けれどもその光たるや、なんともえたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ燐のような光で、却って係長を青白い恐怖の底に叩き落してしまうのだった。
 滝口坑では、いつでも死傷者に対して炭坑独特の荒っぽい検屍を、救護室で行うことになっていた。それは坑道が、電気が処々についているとは云っても、炭塵にまみれた暗い電気であったからでもあり、また坑道は炭車《トロ》の通行に必要な程度にしか設計されていず、なにかと手狭で、そうした支障のために少しでも出炭率の低下するのを恐れたからでもあった。
 医員の仕度が出来て救護室へ下って来た知らせを受けると、係長は、とりあえず二つの屍体を救護室に移すことにして、来合せた炭車《トロ》へアンペラを敷いて屍体を積み込んだ。そして自分も監督や巡査と一緒に後の一台へ乗ろうとした時であった。
 一人の若い坑夫が、己れの安全燈《ランプ》のほかに火の消えた安全燈《ランプ》を一つ持って、片盤坑の奥から駈け出して来た。坑夫は係長を見ると、立止って固くなりながら云った。
「水呑場で、安全燈《ランプ》を一つ拾いました」
「なに、安全燈《ランプ》を拾った?」
 係長は険しい顔で振り返った。
 炭坑では、安全燈《ランプ》は、坑夫の肌身を離すことの出来ない生命であった。それはただ暗い足元を照すと云うばかりではなく、その焔の変化によって爆発|瓦斯《ガス》の有無を調べる最も貴重な道具でもあった。しかし先にも述べたように扱い方によっては甚だ危険なものであるから、炭坑はこれに専用者の番号をつけて、坑口の見張所でいちいち入坑の時に検査をさしていた。その安全燈《ランプ》の一つが所属不明で転っていたと云うのであるから係長の顔は瞬間固くなった。
「何番だ?」
「は[#「は」は太字]の百二十一です」
「は[#「は」は太字]の百二十一?」
 監督が首を傾《かし》げた。係長は炭車《トロ》から飛び降りると、運搬夫《あとむき》へ顎をしゃくっていった。
「見張所へ行って、は[#「は」は太字]の百二十一の坑夫は誰だか、直ぐに聞いて来てくれ」
「こういうゴテゴテした際に」監督が乗り出して云った。「こんなだらしのないマネをする奴がいるから困る」と坑夫へ向って、
「いったい、何処で拾ったんだ」
「水呑場の直ぐ横に、置き忘れたように転っていました」
 水呑場――とは云っても、自然に湧き出す地下水を水甕《みずがめ》に受けているに過ぎなかった。それはこの片盤では、突当りの坑道にあった。そこは片盤坑道の終点になっていて、そこには穴倉や一寸した広場もあった。広場には野蛮な便所もあった。坑夫達は口が渇くと、勝手にそこへ出掛けては水を飲んだ。
「置き忘れただって? よし、その坑夫が判ったら処罰するんだ」
 監督は苛立たしく呶鳴りつけた。係長は、そこらにうろうろしている運搬夫《あとむき》たちが、皆んな安全燈《ランプ》を持っているかどうかと見廻わした。むろん誰れも闇の世界で光を忘れているものはなかった。この場合、忘れると云うことは絶対にあり得ない。それは恐らく、忘れたのではなくて、故意に置いて行ったとよりとりようがない。故意に置いて行ったということになると、恐らくその坑夫は、光が不要であったか、それとも有っては却って邪魔になったか――しかしそんなことを詮索しているうちに、さっきの運搬夫《あとむき》の女が、炭車《トロ》を持たずに蒼くなって駈け戻って来た。
「は[#「は」は太字]の百二十一は、死んだ峯吉の……」
「なに?」
「ハイ、その峯吉ッつァんの安全燈《ランプ》だそうです」
「なんだって? 峯吉の安全燈《ランプ》……」
 係長は瞬間変テコな顔をした。
「待てよ。峯吉の安全燈《ランプ》……?」
 ――まさか、峯吉の安全燈《ランプ》が出て来ようとは思わなかった。峯吉では、いまはもう処罰のしようもない。いや、処罰の処罰でないのと云うより
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