てしまえば、その一坑の焔さえも、やがて酸素を絶たれて鎮火してしまう。採炭坑は、謂わば炭層の中に横にクリあけられた井戸のようなもので、鉄扉を締められた入口の外には蟻一匹這出る穴さえないのであった。
 間もなく塗込め作業が完了した。この時が恰度午前十時三十分であったから、発火の時間は恐らく十時頃であったろう。けれども塗込作業の終った時には、もう発火坑内にはすっかり火が廻ったと見えて、熱の伝導に敏感な鉄扉は音もなく焼けて、人びとに不気味な火照《ほてり》を覚えさせ、隙間に塗りたくった粘土は、薄いところから段々乾燥して色が変り、小さな無数の不規則な亀裂が守宮《やもり》のように裂けあがって行った。
 技師も工手も監督も、一様に不気味な思いに駆られて妙に苦り切ってしまった。やがて急を聞いて駈けつけた請願巡査が、事務員に案内されてやって来ると、坑内係長は不機嫌に唾を吐き散らしながら、巡査を連れて広場の事務所のほうへ引上げていった。小頭達も、それまでその場に坐り込んだまま動こうともしない峯吉の父親を引立てて、同じように引きあげて行った。
 監督は、工手を指揮してその場の跡片附をしはじめた。もうこれで鎮火してしまうまで発火坑には用はない。いや何よりも、第一手のつけようがないのであった。
 鎮火の進行状態は、技師の検定に委ねられた。採炭坑には、どこでも通風用の太い鉄管が一本ずつ注がれていた。一人だけあとに残った技師は、鉄扉の上の隙間から、塗込められた粘土を抜け出して片盤坑の一層太い鉄管へ合流している発火坑の通風管を、その合目から切断してしまうと、その鉄管の切口から烈しい圧力で排出されて来る熱|瓦斯《ガス》の分析検査にとりかかった。
 時どき炭車《トロ》を押した運搬夫《あとむき》達の行列が、レールの上を思い出したようにゴロゴロ通って行った。騒ぎの反動を受けて急に静かになった片盤坑の空気を顫わして、闇の向うから、気の狂った峯吉の母の笑い声が、ケタケタと水|瓦斯《ガス》のように湧きあがって来た。
 黒い地下都市の玄関である坑内広場は、もう平常の静けさに立返っていた。滝口坑はこの夏までに十万|噸《トン》の出炭をしなければならない。僅かの変災のために、全盤の機能が遅滞することは一分間といえども許されなかった。闇の中から小頭達の眼が光り、炭車《トロ》もケージも、ポンプも扇風器も、一層不気味に静まり返って動きつづけていった。しかし事務所の中では、係長がひどく不機嫌に当り散らした。
 発火後のごてごてした二十分間に、何台の炭車《トロ》が片盤坑に停まり、何人の坑夫が鶴嘴を手から放したか、係長は真ッ先にそれを計算した。続いて発火坑の内部で、何|噸《トン》の石炭が焼失してしまったか、しかしこれは未知数だ。現場の検査にまたない限り、恐らく概算も掴めない。そこで事務員の一人が鎮火状態を調べに向かわされた。ところで次に、この損害の直接の責任が誰の上にかかって行くか、発火の原因を調べなければならない。係長はもう一人の事務員に、助かった女を連れて来るよう命ずると、それから向直って、まるで鉱山局の監督官みたいに、勿体ぶって傍らに立っていた請願巡査へ、始めて口を切った。
「いやなに、大した事でもないんですよ」
 全く一人の坑夫が塗込められた位のことは、或は大した事でなかったかも知れない。しかし大した事は、この時になって始めて持上った。それは鎮火状態を問合せに行った先程の事務員が、間もなく戻って来て、丸山《まるやま》と呼ぶその技師が、何者かに殺害されたことを報告したのであった。

          二

 技師の屍体は、防火扉から少し離れた片盤坑の隅に転っていた。熱|瓦斯《ガス》の検査中に被害を受けたものと見えて、直ぐ前の坑壁には切り離された発火坑の排気管が、針金で天盤の坑木に吊し止められ、踏台の上には分析用の器具が乱雑に置かれたままになっていた。
 屍体は俯向《うつむ》きに倒れ、頭のところから流れ出た黒い液体が土の上をギラギラと光らしていた。大きな傷が後頭部の濡れた髪の毛を栗の毬《いが》のように掻き乱して、口を開いていた。兇器はすぐにみつかった。屍体の足元から少し離れて、漬物石程の大きな角の丸くなった炭塊が、血に濡れて黒く光りながら転っていた。係長はそれを見ると直ぐに黙ったまま天盤へ眼をやった。落盤ではない。しかし落盤でなくても、結構これだけの傷は作られる。
 いったい五百尺の地の底では、気圧もかなり高かった。地上では、例えば一千尺の高度から人間が飛び降りたとしても屍体は殆んど原形を保っている場合が多い。しかし竪坑から五百尺の地底に落ちると、それはもう目も当てられないほど粉砕されてしまう。落盤の恐るべき理由も又そこにあるのであって、僅かの間を落ちて来る小片でも、どうかすると人間の指
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