の炭坑とも同じようにやはりウォルフ安全燈であった。ウォルフ安全燈というのは、みだりに裸火にされる危険を避けるために、竪坑の入口の見張所の番人の持っている磁石《マグネット》に依らなければ、開閉することの出来ない装置になっていた。けれども、取扱いに注意を欠いて斜に置いたり、破損するようなことがあっては安全を期することは出来ない。
 悪い時には仕方のないもので、お品の安全燈《ランプ》は炭車《トロ》の尻にブラ下げてあり、そして空の炭車《トロ》はそのまま走っていたのであるから炭車《トロ》の尻には複雑な気流が起り、いままで地面に沈積していた微細な可燃性の炭塵は、当然烈しく捲き立てられていたのであった。全くそれはふとしたことであったがその瞬間に凡ての悪い条件は整ってしまい、いままで二人の幸福の象徴でもあった安全燈は、ここで突然予期しない大事を惹き起してしまったのだ。
 瞬間、女は眼の前で百のマグネシウムが焚かれたと思った。音よりも先に激しい気圧が耳を、顔を、体をハタッと撃って、なにか無数の泥飛礫《どろつぶて》みたいなものがバラバラッと顔中に打当るのをボンヤリ意識しながら、思わずよろめいた。よろめきながらも早くも四壁に燃えうつった焔を採炭場《キリハ》の奥に覚えると、夢中で向き直って片盤口へ馳け出したが、直ぐに「峯吉は」と気づいて振返ると男も真赤な焔を背にして影のようにあとから馳け出して来る。炭塊に燃移った焔は、捲き起された炭塵の群に次々に引火して火勢はみるみる急となった。お品は背後に続く男の乱れた跫音《あしおと》と、目の前の地上に明々《あかあか》と照らし出された二人の影法師に僅かな安堵を覚えながらそれでも夢中で駈けつづけた。レールの枕木にでもつまずいてか突然後ろの影がぶッ倒れた。眼の前に片盤坑の電気が見えた。
 しかしお品がその電気の下に転げ出た時、ここで最初の悲劇が持上った。片盤坑に抜け出たお品がそこの複雑なレールのポイントにつまずいて思わず投げ出されながら後ろを振返った時に、早くも爆音を聞いて駈けつけた監督が、いまお品の転げ出たばかりの採炭坑の入口で、そこにしつらえられた頑丈な鉄の防火扉をみるみる締めはじめた。一足違いで密閉を免れたお品は、ホッとして無意識であたりを見廻わしたが、この時はじめて恐ろしい事態が呑みこめた。大事な男が、峯吉がまだ出ていない。お品は矢のように起上ると防火扉の閂にかかった監督の腕に獅噛《しが》みついた。激しい平手打が、お品の頬を灼けつくように痺《しび》らした。
「間抜け! 火が移ったらどうすんだ!」
 監督が呶鳴《どな》った。お品は自分とひと足違いで密閉された峯吉が頑丈な鉄扉の向うでのたうち廻る姿を、咄嗟《とっさ》に稲妻のように覚えながら、再びものも云わずに狂いついて行った。
 が、直ぐにあとから駈けつけた技師の手で坑道の上へ叩きつけられた。続いて工手が駈けつけると、監督は防火扉の隙間に塗りこめる粘土をとりに駈けだして行った。こんな場合一人や二人の人間の命よりも、他坑への引火が恐れられた。それは今も昔も変らぬ炭坑での習わしであった。
 発火坑の前には、坑夫や坑女達が詰めかけはじめていた。皆んな誰もかも裸でひしめき合っていた。技師だけがコールテンのズボンをはいていた。狂気のようになって技師と工手に押しとめられているお品を見、その場にどこを探しても峯吉の姿のないのを知ると、人びとはすぐに事態を呑み込んで蒼くなった。
 年嵩の男と女が飛び出した。それは直ぐ隣りの採炭場《キリハ》にいる峯吉の両親《ふたおや》であった。父親は技師に思いきり一つ張り飛ばされると、そのまま黙ってその場へ坐ってしまった。母親は急に気が変になってゲラゲラと笑いはじめた。レールの上へ叩きつけられて喪心してしまったお品を、進み出て抱え上げた坑夫があった。父母の亡くなったお品にとって、たった一人の肉親である兄の岩太郎であった。
 女を抱きあげながら岩太郎は、憎しみをこめた視線を技師達のほうへ投掛けると、やがて騒ぎ廻る人びとの中へ迎え込まれて行った。
 監督が竹簀《たけす》へ粘土を入れて持って来た。続いて二人の坑夫が同じように重い竹簀を抱えて来た。工手がすぐにコテを取って鉄扉の隙間を塗込めはじめた。
 ほかの持場の小頭達が、急を知った坑内係長と一緒にその場へ駈けつけて来ると、技師と監督は、工手の塗込作業を指揮しながら騒ぎ立てる人びとを追い散らした。
「採炭場《キリハ》へ帰れ! 採炭《しごと》を始めるんだ!」
 呶鳴られた人びとは、運びかけの炭車《トロ》を押したり、鶴嘴を持直したり、不承不承引上げて行った。興奮が追い散らされて行くにつれて、鉄扉の前に居残った人々の顔には、やがてホッとした安堵の色が浮び上った。
 犠牲は一坑だけにとどまった。しかもこうして密閉し
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