、無駄である。相手がそのように恐しい男では、却って騒ぎ立てて、平和な旅客《りょきゃく》たちの間に、間違いでも起きたなら、それこそ大変である。いやなによりも、もうクルミさんは、石のようになってしまって、出したくても声も出せなければ、動きたくても、身動きも出来ないのだった。永い時間がたったようだ。
 ジッとしたまま、こわごわ、もう一度新聞を見る。
「沈着《ちんちゃく》なる宿直員の観察《かんさつ》」
 という見出しが、ふと目についた。すると、少しばかり、クルミ[「クルミ」は底本では「 ルミ」と誤植]さんの心の中に、明るいものがみつかった。
「そうだ、落ちつかなければいけない」
 われと己《おのれ》をはげまして、思い切って紳士の顔を見る。
 すっかり居睡《いねむ》りが、本式になったらしい。
 列車は、もういつの間にか、幾つかの駅を通過して、だんだん国府津《こうづ》の町へ近づいて行くらしい。
 ふと、クルミさんは、云いしれぬ恐しさの中から、なんともいえない口惜《くや》しさが、こみあげて来るのを覚えた。
 考えてみれば、大変なことになってしまった。折角の楽しい旅行が、お蔭で滅茶々々《めちゃめちゃ》
前へ 次へ
全19ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング